芦沢、大上木戸口の自然石道祖神
あらためてこの話を聞きに行った際に、同じ道祖神の写真を撮ってきたわけだが、もともとあった自然石の道祖神を、それぞれ単体でとらえたのがこの写真である。「道祖神について」の中で、「小さいが形の変わった石神を立て」といっている石がこの二つの石になるのだろう。向かって左側の石は、ちょっと見「犬」の形をしていてかわいい感じ。右側の石は水流によって削られて、柔らかいところが凹んでごつごつしている。このくらいの大きさなら、容易に運んでこれる。Nさんのところにあった待望の石をここに据えて「道祖神」と刻んだわけであるが、どのような石が理想だったのか…。謂れには次のようなことがカッコ書きされている。
この他にもこの時大島井から出た、伊勢の二見ケ浦の夫婦岩に似た石がNにはある
と。そこでNさんの家にうかがって実際の石を見せていただいた。するとそれは床の間に飾られていて小さな石で、確かに頂が二つある一石。そして色は黒く、テカテカとしている。みなで撫でたせいかはわからないが、こうした黒っぽい石も、三峰川にはよく見かける。
「道祖神」建立後、講を行うには掛け軸があった方が良いという話になって掛け軸をこしらえて、現在もお祭りの日には掛け軸を掛けて直らいをするよう。大正時代のことという、掛け軸を用意したのは。その大正時代からの帳面が、現在も使われていて、当番へ引き渡されている。
さて、謂れの中に「大文字」のことが書かれている。芦沢でもデーモンジが行われていたという話は、箕輪のデーモンジを文化財指定した際に調査された蟹沢さんに聞いたことがあった。現在はすでに跡形がないという話だったが、この謂れに少しばかりその「大文字」の意味が記されている。
現在、庚申塔のある広場を大文字と言う、もとはでえもんじとも呼んで厨た。これは旧県道伊那~高遠町線・槌屋の東の連から新県道への小路・上中村の前の路、この三本が交差ずる形が「大」の字になるからとの言い伝えがある。
昔の芦沢村は大文字から下村にかけてと、これから山際をお子安様の方へかけての部落であった様に思われる。庚申様・石打籠・石仏・その他石碑等が数多く立ち並び、小林商店が昔は「至誠館」といって村の集会所になっていて、各種会議・催し・子供達の天神様等が行われていた。広場は盆踊り、野外映画の上映が行われ、又子供達の野球場・遊び場であり、村中の人が集まり大東亜戦争の出征兵士を送り出す場でもあった。
吉祥寺道の西側に西羽場の墓地があり、又下羽場の墓地が三の道の際にあったこと、さらに増田屋と権現沢の宅地が西和手の東側にあったこと等、大文字周辺が芦沢の中心であったのではないかと考えられる。
ここでいう広場をグーグルマップで示す。北を上にしても「大」に見えるし東を上にしても「大」に見えるだろうか。いわゆる柱の大文字のことは何も書かれておらず、Nさんの現在の当主にお聞きしたが、柱を立てたということは聞いていないと言う。
この広場に祀られている巨大な「庚申」については、以前触れたことがある。これほど大きな「庚申」はちょっと見たことがない。次の「庚申」年も近いが、と聞くと、「次からは小さくしていくものだ、と聞いている」と言われた。そういう話も初耳だった。
なお、謂れには二月八日にかつては藁で馬を作り、これに餅を二つつけて道祖神に行って、ほかの人の供えた餅を1個持ち帰ったと記されている。いわゆるワラウマをコトヨウカに供える習俗がこのあたりにもあったということになる。
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