Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

五輪への道筋

2021-05-21 23:32:09 | ひとから学ぶ

 ここへきて、俄然「五輪開催」が現実味を帯びてきた印象がある。国民の中には「五輪中止、延期」という声が大きいが、そもそも国外ではむしろ、この後五輪開催を後押しするような環境が作り上げられていくのかもしれない。確かに国外メディアの「中止すべき」という報道をこのところよく耳にしてきたが、ごく一部のものなのかもしれない。そしてここへきて緊急事態宣言の長期延長という思惑。五輪開催の印象操作をしたいのなら、ワクチン摂取を大々的に旗揚げした上に、直前まで人々の行動制限をすれば、確かに新たな感染者数は減少し、世論にも開催肯定派の声を呼ぶだろう。もはや「これしかない」という開催強硬派の筋書きだ。

 それにしても「後手後手」という言葉をよく耳にするが、菅首相は今年正月の21日に、東京五輪・パラリンピックをめぐり参加各国の選手へのワクチン接種を参加の条件にしないと明言したうえに、「ワクチンを前提としなくても安全・安心な大会を開催できるよう準備を進める」と述べたはずだ。ところがどうだろう、もはや「ワクチン接種しかない」という風潮が世間に蔓延し、首相自らもワクチンに命乞いをしているようにも見える。世界では日本のワクチン接種率を理由に日本行きに戸惑いを見せているようだが、彼らがワクチンを接種していれば、たとえ日本に行っても、自分達が感染するリスクはかつてのように高くはない。ようは、リスクがより高くなるのは、日本人というわけだ。国民の命を犠牲に、あるいは国民の生活を犠牲に五輪が開催される、という道筋に突き進もうとしている。五輪を開催したいと思うのなら、なぜワクチン体制を先んじて進められなかったのか。繰り返すが、正月には前述しているように、まったく現実的な策を講じず、楽観していた首相の責任は重い。そしてそれを後押ししてしまった政治家(与野党問わず)は何を見ていたのだろう。首相の無理からぬワクチン接種目標に、努力をされている地方の関係者の努力に頭が下がる思いだ。

 かつて政治的采配で、ボイコットされた五輪があった。アスリートに対して五輪を辞退しろ、という言葉は筋違いといわれる。しかし、もし国民の犠牲の上に五輪が開催されるとしたら、これほど悲しい五輪はないだろう。なぜこのような選択がなされたのか、五輪史上に残る大会になることは間違いない。もちろん実施されても、中止されたとしても・・・。そして大会参加者も、国民にも、不平等な五輪になることも事実だ。「平和」などという単語はとても冠せられない五輪である。そこでメダルを獲得しても、世界の誰もが認めるメダリストなのだろうか。だからあえて思う、政治がボイコットしたかつての事実を踏まえると、多様な人がいるこの時代に、五輪を辞めるべきだ、という意見をするアスリートがなぜいないのだろう。もちろんそれを発することにより、多くの関係者に迷惑をかけるから意見できないのかもしれないが、裏を返せば、金にまみれた五輪だと言う証ではないだろうか。このような五輪は、本当に必要なのか。


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