あなたとお花と猫とエコと健康

日々思ったこと、見たことなどを書いています。

「エホバの証人」再再再訪?

2015-03-11 15:58:03 | 宗教関係
昨日、又又曇り空の寒い中、エホバの証人のお二方がやってまいりました
メインの方はいつも同じですが、お連れの方が毎回違うような
私は以前は人の顔をよく覚える質(たち)でしたが
いつの頃からか、人の顔を覚えなくなりました
きっと、何か理由があるのでしょうが、しかとわかりません

前回訪問された時の「創世記3-5」とやらを
忙しさに紛れて読んでませんでしたが
(まず、聖書を引っ張り出してないですし)
今回は、一筆箋のお手紙をいただきまして、
一筆箋が三枚と、集会のご案内が入ってましたが
   
何気に洗脳されそうな気配を感じた今日の訪問でして
なるほど、私のようなものでも洗脳されそうになるのか、と
つまり、話を巧みに持って行って、褒める、
「勧誘しない」と言いながら、さりげなく
まさしく「勧誘してます」が・・・(笑)

私が言いたい事は「輸血の問題」です
「血を避けよ、と聖書に書いてあるから」の、一点張りの主張
それによって、手術や救命の措置が取れないという
命に関わる問題を、イエスが言ったから・・・
ウソでしょう
そもそも聖書に書いてある「血を避けよ」が
何故輸血禁止になるのか?
理解できません
イエスキリストは、人々を救うために十字架にかけられた
そのキリストが、
「人の命を危うくするような教義」を後々の人に伝えるはずがない
これが、私の主張です
あくまでも救世主なのであれば、その人が後の人に
難儀するような命題を残すはずがないではないですか

と、サブの人が言うには、
「キリストは血を避けよと言って
その後に私の血を飲めと言った」そうな
その大いなる矛盾に際して、その意図は何か
つまり、ここからが輸血の問題と関わってくるとか

私曰く「どうせこじつけか、トリックでしょう」
エホバの証人「違います。それを今度来た時にお話しします」
私「もう、結構ですから。今度、はなくていいです。
今度来たら、居留守を使いましょうか」(笑)
私「輸血禁止がなければ、もっと信者が増えるのではないですか?
大体あの優しいキリストが、信者を困らせるような事を
後世に残すはずはないと思いますよ。
これは、私の直感です」

エホバの証人「では、殉教に関してはどう思いますか?」
私「殉教には反対です。あんな可哀想なことはとても認められません
生贄も同じです
イエスが殉教しろと言ったのですか?
そんな事は絶対に言わないと思います」
エホバの証人「イエスは人の為に死にました」
私 「イエスは人の為に死にましたが、人にそうしろとは言わないと思います」

私はキリスト教に詳しくないですし、聖書も読んでいませんが
そのキリストの人となりは想像がつきます
釈迦もそうですが、大体が宗教の元祖?教祖なるものは
人格者のはずです、多分       
ですから、イスラムのジハードなるものも、
元の意味とは違うと思います
そんな馬鹿げたことをいうはずがありません
本人の頭がおかしくない限り
キリスト教もイスラム教も、他の宗教も皆
人を救う為に始めたものでしょう
それが、どこの宗教も権力争いや、戦争の火種となっています
ここから、つまり、元からの宗教の本来の意味が
後世の人の権力欲や支配欲によって歪められた結果の現状でしょう

昨日テレビで「サモトラケのニケ」の話をやってましたが
あの像は、バラバラに解体されてあったそうです
それをやったのは、キリスト教徒だそうな
ISISが、偶像崇拝撲滅と称して、大事な文化遺産を破壊したのと
全く同じではありませんか
非難できた立場ではないですね
呆れますが

で、エホバの証人の人が、「ネットをおやりなら調べてみて下さい。
うわさ話などではないものを」
と言ってましたが、昨夜検索して目に入ったものは
「危険」の一文字でした
つまり、洗脳です
そして、エホバの証人に入っているのは殆どが主婦で
その人達は、訪問勧誘のノルマを課されているそうな
その為に外出の時間を割かれ、家庭が揉め事を起こすそうです
そして、離婚も多いとか
私はたまたま昨日、ノルマのようなことについて聞いてみましたが
「そんなことはない、自発的にやっている」という意味の事を言っていました
ですが、メインの勧誘の方は、表情が暗くなっていってましたし
多分私のところへ来るのも大変になっているような気がしました

相手は巧みに私のことを褒めます
そして、何を言っても「いいんですよ」と言ってますが
私は、歯に衣きせずではありませんが、率直に言っています
キリスト教がいかに酷い事をしてきたか
又、バチカンなるものも権力欲などにまみれていること
そして、私が知識として知っている「ブラザーサン・シスタームーン」
という聖フランチェスコの映画について言ってみましたが
その映画は知らないと
ドノバンの歌が当時ヒットしましたが、
その映画の一部をユーチューブで見ることが出来ました
貧しい貧しい身なりの聖フランチェスコが
バチカンに行って法王と謁見する
彼らに会った法王は何を思い、何をしたか
汚れない、その精神と行動に対し、跪いて足にキスをしたのです

話は逸れましたが、主人に少し話しましたが
「エホバの証人の人達は、何を言っても、ああ言えばこう言うで
頭が固くて何も考えを変えようとしない」と言ったら
「あれは、原理主義みたいなもので、聖書の中の
ああ書いてあるから、とか言うことの一点張りだから」と
その聖書も調べてみたら「エホバの証人に都合のいいように書き換えた聖書」
なんだそうではないですか
で、「聖書について学びませんか?」と言って誘うんだそうです
ところが、その聖書が胡散臭い代物で、他のキリスト教は認めていない
カルトだというように捉えられていると
で、知識のない私が何か言っても、結構他の事は知らないのです
つまり、エホバの証人関係の話だけ詳しいんですね
一般的な知識とは別のようです
関心がないみたいです

まさに、カルト宗教の勧誘に間違いありません
私が洗脳されそうになった、というのは
エホバの証人の話に乗ったわけではなく
あたかもエホバの証人の人達が、
正しく宗教として勉強をしているかのように見えた、という意味です
ですが、総合的に見てみると、そこしか見えてないのでは
まさに「嵌ってしまっている人達」ではないかということです

信じていると幸せが来るんだそうです
そして、終末思想を言って、安心したくはないかと
私はそんなに長く生きないから、大丈夫ですよと
そして、子孫がいない分、心配をしなくて済むと
あなたにお子さんはいますか、と聞くといるという
そっちの心配をしたらどうかいな、と思いましたが
聞き忘れたことは、その子供はエホバの証人についてどう思っているのか
又、そのお子さんが輸血を必要とした場合、やっぱり拒否するんでしょうね
ただ、年齢を聞いたらお子さんは成人していたので
自分の自由意志で決められるので、
そっち方面の心配はしなくてもいいかも知れません
もう来ないでと言ったけれど、メインの人は確かに疲れてきたみたいで
もう、諦めて来なければいいのにね
ああやって、洗脳される人もいるので、諦めないのか
あるいは、増えてるとかいう信者(本当かどうか不明)を
もっと増やしたいのか
ネットに書いてありましたが、そういう「王国」を作りたいんだそうです
結局はそこら辺に落ち着くのではないでしょうか

で、何故私がこの人達と話をしているのか、
カルト的宗教勧誘に乗るはずはありません
では、何で?
どうも、私は、まさか、ですが
彼女らを洗脳から解きたい、とか思っている可能性もあります
無駄な努力ではありませんか
でも、多分彼女らの言動の納得行かない部分を言って
彼女たちの目を覚まさせたいとかいう、傲慢ではなく
己を知らずというか、多分「話せば分かる」とかいう
正常な感覚で思っている可能性もあります
そんな私に一言「甘いのではないですか?」の言葉を
自分から自分に進呈したいと思います
-------------------
ちなみに備忘録として、来訪日を記しておきます
15/01/20
15/01/27
15/02/24
15/03/10
次はあるでしょうか?
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仏教とキリスト教の違いは? 単純な疑問

2015-02-26 13:32:25 | 宗教関係
私は東京新聞をとっていますが、「こころ」と題するページに
いつも1/4の紙面を割(さ)いて、仏教の教えのことを識者が書いています
大抵は宗教家か、宗教を専門とする学者、識者が書き手です

私は小心者で、緊張で血圧が上がったり、極端に心拍数が増えたりするし
対人恐怖症的なものもあるし、だからかもしれませんが
「心の平安」とか「物に動じない心」とか、つまり
何というか、肝の座った人間を理想としたりするわけです
無い物ねだりです
まぁ、豪胆な人間でない限り、そういうものは憧れるのではないかと思いますが

私がブログを読んでいる教育家の水谷修さん
この方は、悪性腫瘍を患ったりしています
で、そのことで落ち込んだりしない
普通は頭が真っ白になったり、恐怖のあまり絶望したりしますが
中には、水谷さんのような人間もいる
悪性腫瘍が見つかっても、冷静に手術に向かい、というか
手術数日後には退院し、子供を救う活動の為に地方に講演に行っている
普通だったら、家で療養し自分の体の事や心のことばかり考えるはずです
まして、昨年の手術の時は医者に「麻酔をかけないで手術できないか
自分の手術を見たい」・・・と申し出て断られています

私とは天と地の差と言うか、信じられない強い心の持ち主と拝見します
だから、そういう人間になりたいと、自分の小心さに疲れ果ててそう思いますが

で、この東京新聞の仏教欄を読んでいると、いつもいつも話題はそれです
どうやったら煩悩をなくせるか、心の平安を得られるか
死の恐怖から逃れられるのか

釈迦は生老病死を四大苦として、それから逃れる為に修行に出たとか?
これです、私が釈迦をノイローゼなのではないかと思ったのは

釈迦が目指したものは「心の平安」「物に動じない心」だったのですか?
水谷修さんのような心、なのですか?求めた究極の境地とは?

で、思ったのですが、キリスト教はどうなんだろうという事です
いつもいつも心の平安を最終目的としているのか否か

そう言えば、主人が言うには「仏教は哲学」だと
宗教ではないのだそうですが、
私にはそもそも哲学なるものがよくわかりませんので
その違いすら理解できないのですが

とにかく、キリスト教はいつも何を言ってるのでしょうか?
汝の敵を愛せよ、とか?

これだと、仏教とはちょっと違いますね
生きる上での心の処方箋なのでしょうか?

ところでエホバの証人の人達は、一体何の為に勧誘に来たのでしょうか?
エホバの証人になると、何かいいことでもあるのでしょうか?
何故信者を増やしたいのでしょうか?
自分達が信じているだけではいけないのでしょうか?
異端の宗教と言われ、キリスト教とは認められない宗教だそうですが

    
今年咲いた二輪の白梅の二番目の一輪です
小さいですが、しっかり咲いてます
昨日写しましたが、今日は雨で、寒そうに濡れてます
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エホバの証人宗教勧誘 再訪です

2015-01-27 17:15:31 | 宗教関係
再び、黒っぽいコートに身を包んだ、そこそこお洒落な方々が二名
爪アート(正式名称を知りませんが)もしていました

で、「血を避ける」に関する使徒の文章を読んで、というか
エホバの証人そのものの批判文をネットで読んで後ですが
キリストがいた当時、注射器も輸血もなかったはず
なのに、何故ゆえに輸血の禁止かという問題ですが
後世の人が勝手に「血を避けよ」の文言を=輸血拒否と解釈したのではないかと
ですね

キリストが果たして本当に「輸血してはダメ」と言ったわけでもないのにね
この辺りで、少々のやり取りが
で、私の主人曰く「血を避けよ」とは「血液感染防止」の意味だよ、
今日少し読んだ所では、血とは神に捧げた生贄の血である、という記述

まあ、聖書そのものを読んでいない私にその全般の意味もわかるはずもないのですが
でも、おかしいのはキリスト教が色々な宗派?に分かれたとして
何故ゆえに「輸血禁止」がエホバの証人だけなのか、という疑問
それに対しての答えは「他の人達は正しく聖書を読んでいないから」?
うゎ、という感じですが

あれこれ話して又しても時間が・・・
で、ちょっと疑問を投げかけたのはキリストが
「マリアとマルタ」の姉妹に言ったセリフでしたが
それに対して「ものみの党」の小冊子をくれまして



「キリスト教は男尊女卑系」の私の発言を否定する内容で
キリストは逆なんだと
当時女は台所で、を、話を聞いてもいいんだよ、と
それは不公平ではないのかと私
んじゃ、食事を作る人がいなくなるではないの?
この話はまだ解決してませんが、「今度はその話の続きで来る」というから
「来なくてもいいですよ、
はっきり断らないと何度も来るって(笑)書いてあった」
と言ったら、一人が「確かにそうですね」と笑い。

多分私は彼女らの洗脳解こうとかとんでもない事を考えていたりして
ところが彼女らは私を取り込もうとする
私は自ら望んでも催眠術にかからない人なので「無理」なのに

最近私が新聞で読んだドイツ人の僧侶の話をしましたが
つまりその僧侶の話によると
『日本人に「宗教」は要らない』 (ベスト新書、2014年)
だそうです
「ネルケ無方」さん、ウィキペディアにも載っている方でした

無宗教がいいのか悪いのかはわかりませんが、
宗教によって命を落とすような事があるのだったら、
「要らない」のではないかと思いますが
一体イスラムのあれは「宗教」ではないのだと思いますが
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「エホバの証人」の宗教勧誘に遭遇しました

2015-01-20 11:22:52 | 宗教関係
で、「エホバの証人について、調べてみます」と言って話を終えましたが
ネットで少し調べたら、「エホバの証人相手に話をした人」とか
他の宗教勧誘の話とかが面白おかしく書いてあって笑ってしまいました

今日来たのは女性二人で、中年かもう少し上の丁寧な感じの人で
アイパッドみたいなのを見せて、聖書の一節を朗読、
どう考えても「輸血禁止」は問題なのでそこを突っついた為でしたが
使徒15-25だったかと、もう一つは創世記の1-何とかで
もう忘れてしまいました(数字の暗記が苦手になっています)

あるサイトより引用↓
-------------------------------------------------
 1985年6月、川崎市で交通事故にあった小学生が輸血を拒否して亡くなったという事件は、センセーショナルな問題としてマスコミにも大きく取り上げられた。その後も輸血に関連した事件が相次ぎ、宗教上の理由から輸血を拒否するというエホバの証人の立場は広く知られるようになった。
 ものみの塔協会の教義の中でも、この輸血禁止は最も社会的な摩擦を引き起こす戒律である。即、生命が関わってくる問題なのでそれは当然のことといえよう。基本的人権、人命尊重という点では一つの社会問題ともいえる。
 世界的な組織を有するキリスト教の団体で、輸血禁止の教義を唱えているのはものみの塔協会の他にはない。そうした点を考えると次のような疑問が沸いてくると思う。はたして、輸血にはどの程度の聖書的根拠があるのか。また、本当に緊急時であっても命をかけてまで守らねばならないほどの戒律なのか。神はそうした点をいったいどのように見ているのか。
--------------------------------------------------
聖書の中に「血を避けよ」という文字があるそうです
そもそもキリストがどう言ったかを
正確に聖書が表しているかどうかも疑問なのに
その上、解釈を勝手にした上では、本当のキリストの真意はどこへ?
という話になる、と言ったのですが
確たる自信に満ちていまして、あれを洗脳というか
信者というかわかりませんが

私は
「私は宗教に興味はあるのですが、
最近、宗教を信じる事はできないだろうと思うようになりました」
と言いました
事実です

このブログでも随分と北原玲子さんのことや、殉教者のことも書きましたが
どうにも懐疑的にならざるを得ませんでした
キリスト教のみならず、仏教もそうです
釈迦はノイローゼだったのではないかと思い始めていますし
調べてみればそのようなことを言っている人もいます

大体煩悩だ、悟りだ、解脱だとか言ってますが
それって、人間を間違った方に引っ張っているような気がしています
時々新聞に仏教のお坊さんが、あるいは学者が書いてますが
何を書いているかというと
「いかに煩悩をなくし平安な境地に」・・・
いつもいつも主題はそれなんですね
前にも書いたか忘れましたが、それって、
人間らしさを否定するような気がし始めたのです

話が逸れましたが、エホバの証人の人達が、
何を間違って解釈して「輸血禁止」というのか
これから調べてみますが、どうせ大した調べはできないとは思いますが

昔聖書を書店で買いました(前にも書きましたが)
ドストエフスキーの「罪と罰」と同じように、
聖書も1,2ページしか読めませんでした
ですので、ざっと調べてみますが、昨今のイスラムの問題も含め
一体本当に「教祖」が何を言い、何を説いたのかを
後世の人が歪め、あるいは、独自の(勝手なとも言う)解釈で
その元の宗教を違うものに変えているとしか思えないのですが
まぁ、もっと言えば、果たして教祖が
正しく良い教えを説いたという前提があっての話なのですが


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(その5 “親鸞”五木寛之さんNHK「ゆうどき」に出演

2014-11-25 13:13:26 | 宗教関係
「こんなふうに原稿を書いて、何とかやっているだけでも、本当に幸せだと思います。」
       ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

番組キャスター 「書き続けることによって五木寛之さんは何を得たと思いますか。」

五木寛之 「これによって、食べている訳ですから、いちばん最初はね、原稿料を戴いて。
まあ、お坊さんがお布施で暮らすように、それで暮らすようにね、それで生きてこられたんです。

僕は大学を途中で辞めましたから、まともなところに就職もできなかったし、そういう人間が、引き揚げてきて何とか人の世話にならずにね、

僕は年金を貰っていませんし、いろいろ社会に負担をかけずに健康保険も殆ど使ったことがなくて、全部出すだけで暮らしてきていますから、そんなことが出来るのも、

こんなふうに原稿を書いて、そして筆1本、足は2本なんて言いますけれども、何とかやっているだけでも、本当に幸せだと思います。」

番組キャスター 「1万回、目前ですからね。」
「そんな五木寛之さんですが、82歳になった今日までの道のりは、決して平たんなものではなかったといいます。

1945年8月、旧ソ連軍が満州に侵攻。
12歳だった五木寛之さんは朝鮮半島北部のピョンヤンで終戦を迎えました。
旧ソ連軍による占領が始まり日本人は職を失い財産を没収されます。
略奪や暴行もあったといいます。

混乱の中で母のカシエさんが亡くなってしまいます。
つらい出来事が続きました。

終戦から2年後、父と幼いきょうだいと共に命懸けで38度線までたどりつき、
ようやく日本に引き揚げることができました。

五木寛之さんは19歳で早稲田大学に入学。






さまざまなアルバイトで生活費と学費を稼ぎますが学費が払えず25歳で大学を辞めてしまいます。

その後、得意の文章を生かしてルポライターやPR雑誌編集者作詞家、さらにNHKのラジオ番組の構成も手がけるようになります。」

元NHKアナウンサーで作家の下重暁子(しもじゅうあきこ)さん。
「夜のステレオ」というラジオ番組を担当していた当時の五木寛之さんをよく覚えています。

下重暁子(しもじゅうあきこ)
「手をね、何気なく見た時に、私は胸を突かれるような思いをした。
ハッとしたんですね。

もう、非常に辛(つら)い、過酷な頃を生きてきた人しか持っていない手だった。
すごくひょろっとして、痩せてらして、で、よくしゃべる人だな、という印象だったのね。

何か、この人はあるな、と感じさせる、影を感じさせる存在でしたよね。
だから、それをごまかすというか、自分でもカモフラージュする為に、必死にしゃべっていらした気がしますね。」

(続く)
---------------------------------------------------
五木寛之さんが親鸞を何故書こうと思ったか、
の中に「悪人正機説」があるということ
そして、それは自分が悪人だから救われない人間だと思ってきたこと
そして、その理由は朝鮮半島からの引き揚げ体験からだということ
それが、これから少し語られてきます

私は、「蓮如」を読んだ友だちが、親鸞のことをクソミソにいうので
何でかと訝りましたが、その親鸞を描いた映画
三國連太郎脚本監督のものを見たから、というのですが、
調べてみたら、主演は三國連太郎ではないですね
三國連太郎主演なら、さぞかし凄かろうとか思ったのですが
脚本監督でも同じようなものだったようです

今日の白黒写真の座っている女の人、五木寛之のお母さん
このお母さんは、朝鮮で亡くなったそうです
その亡くなり方がいわゆる普通の病気とかではなく
ですが、お母さんは病弱で伏せってはいたのですが
ロシア兵が家に来て・・五木さん一家に銃を向け、、
それからのちお母さんは絶食をし、亡くなってしまうのです

その体験や、引き揚げの体験、五木さんはまだ12才位だったそうです
多感な五木さんの少年時代に何が起きたのか
私はそれを知りたくて、「運命の足音」という本を手に入れ読みました
ですが、何だかよくわからなかったのです
何故か、それは、この後語られていきますが、、、
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ピーター・フランクルさんの宗教観 【日本が一番】

2014-08-20 15:46:31 | 宗教関係
東京新聞夕刊一面下に「この道」と題した毎日の連載が載っている
色々な著名人が、自分の半生なり一生、ここまで来た道のり
一種の自分史を連載として載せる東京新聞の長年続いているコーナーです
ここに色々な方が、どういう風にして生まれ、どう育ち、どう考え
今の自分があるという事を写真入りで書いていくいい連載です
今までにも色んな人が書いてきました
大体読んできましたが、あまり興味のない人はパスしています
この間は、落合恵子さんも書いていましたし、数えきれない程の人が書いてきてます

で、今書いているのが「数学者・大道芸人」という肩書きの
ピーター・フランクルさんなのです
ハンガリー生まれのユダヤ人、ウィキペディアによると、
ハンガリー生まれのユダヤ系フランス人だそうです
第二次世界大戦によって、その家族はナチスドイツの被害者になっています
そして、その後ずっとユダヤ人差別もあったそうです
呑気な日本人の私には想像のつかない世界です

そのピーター・フランクルさんが、昨日の夕刊第55回ですが
宗教について書いていたので、ここに転載します
私は日本人の「いい加減な宗教観」にやや呆れる部分があるのですが
宗教で苦労してきたピーター・フランクルさんにとって、
その日本人の「緩い宗教観」は一番いいんだそうです

-------------------------------------------
前略 大統領の演説が必ず「神がアメリカに恵みを与えますように」で終わる国は、無神論者の僕にとって宗教色が強すぎた。
日本のことを思い出した。ガイドブックには日本人の宗教について、神道九割に仏教八割と書いてあった。それを読んで数字が間違っていると確信した。しかし今は日本人の宗教が世界一だと思っている。宗教によって行動、考え方、食事などは束縛されず、自分の都合で宗教をうまく使う。信仰がとても篤い人たちもいるけれど、初詣や合格祈願など、必要と感じた時しか神社やお寺に行かない、葬式の際しか僧侶に会わないという人が過半数を占める。キリスト教を信仰しなくてもチャペルで結婚式を挙げ、キリスト教系の教育機関に通う。そしてめったに「あなたの宗教は?」と聞かない。日本こそは政教分離と信仰の自由が名実共に守られている。
 そして当時の日本は一億総中流で、お金持ちではなくても大丈夫だと感じた。皆に認められるために、まじめで努力家で和を大切にして、他人に迷惑をかけなければよいと思った。それなら僕にもできると、定職が今もない日本を 選んだ。」
---------------------------------------------
>ガイドブックには日本人の宗教について、神道九割に仏教八割と書いてあった。それを読んで数字が間違っていると確信した。

ここは、何回読んでも笑ってしまいます(笑
ピーター・フランクルさんは、非常に優秀な数学者で頭の良い人のようです。
そして、数ヶ国語をあやつり、色々な国に住み、どこの国に住むかを、、
日本に決めているという事なのでしょう

私が思う「宗教が根付いていないから、日本人はいい加減なんだ」とか
つまり大事なのは「世間体」だけで、世間体がゆるければ、許せば、
心の良心はないのか、一体?など思ったり
(お天道様が見ている、とかいうのはありますが)
クリスチャンでもないのに、クリスマスにはケーキを食べたり
パーティやったり、プレゼントをあげたり、全く・・・とか、
仏教は葬式仏教で、金ばかり坊主は取って、
宗教家らしい事はしないじゃないの?とか
初詣は神社で、お寺の墓に入って、教会で結婚式をあげて、
そうピーター・フランクルさんの「良いこと」としている事が
私に取っての「いい加減な宗教観」だったのですが、
それは、所謂宗教の怖さを知らない私の、
呑気さ故の物言いでしかないのかも知れません

宗教の名の下に行われた弾圧や、戦争、犠牲、
宗教間の争い、同じ宗教同士の宗派の争い
(みんな大体は、男のやってる事なんですが)
それら、大変な事柄を肌身を持って感じている、あるいは
辛い思いの連続の人達には、宗教はむしろ
人間を苦しめるものでしかないのかもしれません

呑気な無宗教の、「私の家は真言宗らしい」などと言っている私には
宗教の怖さを肌身を持って知る事などずっとないでしょうし
ただ、今まで書いてきた「自己犠牲」一つ取っても
先の「断食」などを取っても(ウィキペディアで読むとシエナのマリア等凄いです)
主人に言わせると、「自殺」あるいは「宗教による殺しみたい」だ、
です
理解は出来ません。
私達はそういう意味で、ピーター・フランクルさんの言う所の
一番いい国、宗教では、ですが、に住んで何も感じてないのだろうと思います

『日本人の宗教観が世界一』


真夏の炎天下に咲く、百日紅(サルスベリ)
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キリストの言葉より

2014-08-11 16:45:37 | 宗教関係

ヨハネ15章13

人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。

-------------------------

これですか。

これをどう解釈するかという話なんですかね?

もしも、お互いが相手の為に命を捨てようとしたら、どうなりますか?

よくある事ですが、宗教はその「教祖」が何を言い、どういう意味を持った言葉を発したか

それを伝える事が正確にできているか、どうかという話があります

キリストが果たして本当に言ったのか、どういう意味でその言葉を言ったのか

それを正しく弟子は人々に伝える事はできるのか

自分なりの解釈で、違った事を伝えてはいないのだろうか?

相手の為に死ぬことを、両者が考えたらどうなるのか?

私はもう「偉人伝の世界の人」ではありません

もしも、この言葉をキリストが自分の事として伝えたのならわかります

自分は皆の為に死んだ、という意味なら

------------------------------------------------------

イエス・キリストの十字架刑死は、友のために命を捨てるという行為です(13節)。ギリシャ語の前置詞 ヒュペルは、「代わりに」「ために」「せいで」の意味を持ちます。キリストの十字架はそのすべての意味であてはまります。これ以上の大きな愛を誰も持つこ とはできません。

----------------------------------------------------

一般的に言って、「人が友のために自分の命を捨てる」のは、愛の究極の姿であるとして、「これより大きな愛はない」と言えます。ヨハネはこの一般的な命題 をイエスの死に適用して、イエスは友のために自分の命を捨てられたのだとし、弟子たちをイエスの「友」の立場に置きます。

----------------------------------------------------

問題は、皆にそれを求めることを説いたのか、です

何だか聖書の言葉を読んでいると、命令形なのが気になりますね

そして、妙に皆従順で、ウーン、やっぱり私には宗教を信じる事はできないのかも知れません

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修道院の高齢化

2014-08-11 12:30:47 | 宗教関係

私の近くの修道院 子供の頃にちょっと日曜学校に行った教会

今は高齢化して、手押し車を押してスーパーに行く尼さんを時々みかけます

(シスターというのでしょうが)

このまま行くと修道院が老人ホーム化するのではないか、等と危惧したりします

(失礼かとは思いますが

北原怜子さんは、ご存命であれば、85才になられます

修道院にいたら、高齢シスターになりますが。

修道院の方達は、当然ご自分たちで炊事をなさると思われますが、

買い出しに行くシスターの高齢さを考えると、若い(中年でも)シスターが

いかに少なくなっているのか、と思ってしまいます

つまり、北原怜子さんの活動なさっていた頃と、今との違いを思います

当時でもご両親は、修道院志願を大変嘆き悲しまれたという話ですが、

今の世で、シスター志願の人がどれほどいるでしょうか、と考えてしまいます

当時であったからこそ、北原怜子さんの悲劇は生じたのではないか、と思います

私だって、今は自己犠牲否定派になりましたが、

昔は「尊い、自分には到底できない行為」

だと思っていたはずです、思っていました

自分を捨てて他の者の為に、ですよね?

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青紫朝顔の写真アップから、曽野綾子へ・・・そして、仏教

2014-08-09 14:25:22 | 宗教関係
いつのまにか、アリの町のマリア迄、そして自己犠牲とキリストとの関係まで
私は聖書を買った事はあるけれど、確か短大の頃
書店で店員のアルバイトをしていて、その時に聖書を買った
そうしたら、そこの店員の人が「ホテルにあるのを取ってきちゃえばいい」
と言って笑っていた
冗談だとは思ったけれど、あれはどういう意味だったんだろうと、
その時も今も分からない
その人はハンサムで優しい感じの人だった
(つまり、犯罪行為を唆したわけではない、と)
もしかしたら、聖書を買うという行為に一抹の不安を感じた?
それで、茶化した可能性もあるんじゃないかと思った
(ちなみにその聖書も、買っただけで殆ど読んでない、というのがいかにも、の私です)

私はキリスト教に限らず、宗教的なものが嫌いではない
でも、何の宗教でも(入って)ない。(家は真言宗ですが)
私は昔NHKでやった「永平寺」の修行の番組を見て
えらい惹かれました (NHKより↓)
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NHK特集 永平寺
放送期間 1977年
主な出演者 鈴木祖光、倉田秀保、加藤黙堂、中村信光、杉本光世、加藤誠一

番組詳細
福井県にある吉祥山永平寺は、道元禅師(1200-1253)により開かれた曹洞宗の大本山で、参禅道場である。道元は修行を「只管打坐」(しかんたざ=ただひたすらに座ること)と説き、日々の生活一つ一つが修行だと教えた。番組では山内にカメラを持ち込み、厳しい寒さの中で修行を続ける雲水の姿を中心に、永平寺の冬を紹介。1977年(昭和52年)第29回イタリア賞(ドキュメンタリー部門)を受賞。
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そうしたら、この間BSでアーカイブスとかいうの、
昔の名番組を放送していて、うまい具合にその懐かしくも貴重な
永平寺の修行僧のを再放送していて、喜々として録画しました
特に好きなのが食事シーン
タクアンとお粥と味噌汁の質素過ぎる食事
あれで、大抵の栄養を必要としている若い修行僧は
脚気になるそうです
でも、しばらくすると身体が慣れるそうですが、
シーンと静まり返った寺に、雪深い寒さに凍えるような生活で
でも、何だかいいなぁーって。

そう言えば、この間オードリーヘップバーンの「尼僧物語」も見た
何となくそういうのが好きなんですね、昔から
「鈴木大拙」の「禅とは何か」という本も20代で買った覚えがあるし

本当の宗教オタクならぬ、一種の興味心ですか
きっとそこに「何かあるに違いない」という期待みたいなものがあるんでしょう
私は「対人恐怖症」のような人で、そこから抜け出したいという願望とか
でも、きっとそれだけではないでしょう
聖人君子に憧れているのかも知れないし

私の母は宗教大嫌いの人ですから、これは正反対の感覚ですが
その昔、私が小学生の頃、近くに教会がありまして
尼さんの教会だから修道院ですかね?
そこの日曜学校に、近所の友達に誘われて行ったわけです
何度か行きました、数は多くはなかったですが
何故なら、母に教会に行っている事がわかり、行くな、と止められ
おとなしい?私はそのまま逆らわずに行くのを止めましたから

「父と子と聖霊の御名によってアーメン」という十字の切り方をおそわりましたし
クリスマスには踊りがあって、「赤~い鹿の子のお振袖~」
と、尼さんに踊りを教わったような記憶があります
昔からあまり可愛げのなかった私ですが、一応教えてもらいました
で、そのクリスマス会に出る前に止められたのが残念だったという記憶があります

私は何の宗教と限ったわけではなく、その中に
「何か得るものがあるに違いない」という気持ちがあり
宗教に惹かれるのではないかと思うのですが
ところが、何だか気になる事ばかりあって、
無心に宗教を信じるのは、かなり難しい人みたいです

仏教について、
釈迦は、ノイローゼだったのではないか、と最近思ってしまいます
新聞の宗教欄にいつも坊さん達が書いてます
坊さんばかりではなく、宗教の識者という人達も、です
何が書いてあるか、「煩悩からの解脱」「どうしたら悩みがなくなるか」
「どうしたら死を恐れなくなるか」
私はこれって、ありとあらゆる悩み事をなくそうとしているようにしか見えない
ですが、人間とは動物なんですから、いつも恐れたり、怯えたり
心配しながら生きていく生き物だと思うのです
それが、嫌だからと言って「理想の境地は煩悩からの解脱」であり
「悟りの境地」だなどと、年がら年中書かれた日には
おかしかないかい?と思ってしまうのです

生きている動物を見て下さい
私は猫を飼っていますが、ものに怯えますし、心配もしますし
それこそ、何かあると大変ですし、ストレスにも弱いです
最近「雷で迷子になる犬が多いから気をつけて下さい」という事が言われていますが
やっぱり犬だって同じです
鳥だって同じです
野生動物は、毎日毎日食べるものを得る為に必死で生活していますし、
いつ敵に襲われるかもしれないから、のんびりゆったりなんて無理です
確かに人間以外の動物は、死ぬという事をわからないから
その心配だけはないでしょうが、でも、やっぱり生きるためには大変です

何故、そういう心配や恐れをなくそうと必死になっているのでしょうか、仏教は
無理です
しかも、そんなのは生き物として不自然です
それを何とか心の持ちようで変えていく為にあくせくする宗教が、
仏教なんですかね?

主人は「仏教は哲学なんだよ」と言うのですが、
そもそも私には「哲学」なるものが何なのかわかってないので
仏教は哲学なんだ、と言われても狐につままれた感じしかありません
ただ、知っている事は、釈迦が「不老病死」を願って家を出た?
というような事しか知りません
つまり、釈迦自身が何とかこの苦痛から逃れる道を探しに行ったという事でしょうか
無理なんじゃありませんか、動物なんだから
逃れられないと思いますし、何かを怖がりながら生きるのが動物なんじゃないですかね?
私は怖がりの極地なので、そりゃ、それから逃れる道があれば
それは大変嬉しい事ですが、無理でしょう
今はそう思います
年を取っても、ちっとも悟りなんか開けないし
年を取っても感情はあまり変化ありませんよ、若い時のままです
枯れないし、悟らないし、泰然自若もしません
何も変わらない上に、年を取った分だけ心配が増えるように思います

私の主人や友人は宗教に詳しいですが、私は詳しくないですが
解せない事ばかりです
まして、宗教戦争って何じゃい?です
宗教について何も知らない私が宗教の「批判」というか「疑問を呈して」いるのは
不遜か傲慢か、あるいは、素朴な感情かはわかりませんが
私の直感は結構いけるんです
五感の他の第六感?
この第六感というものは、そういい加減なものではないらしいのです
総合的に判断して、一瞬にして出る結論、みたいなもの?
ですか?ウィキペディアにありました↓
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第六感(だいろっかん、sixth sense)とは、基本的に、五感以外のもので五感を超えるものを指しており[1]、理屈では説明しがたい、鋭くものごとの本質をつかむ心の働きのことである
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ですね

たった一本芽を出したヘブンリーブルーが倒れた
育つかどうか微妙で、わかりません
コメント
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