あなたとお花と猫とエコと健康

日々思ったこと、見たことなどを書いています。

「ためしてガッテン」終了 → リニューアルの真相?

2016-05-19 12:15:07 | 異議あり
この間、NHKの「ためしてガッテン」が最終回を迎え、
レギュラーだった山瀬まみさんが「卒業」しました
で?ガッテンが終わっちゃうの?と心配したら
時間を変えて「ガッテン!」と名を変えて再登場
では、司会は?と見ると、志の輔さんと小野アナウンサーはそのまま
ただし山瀬まみさんは卒業していなくなってしまう 
      
私は不審に思って、これって、大幅に変わるのは
山瀬まみさんが抜けるためにやったも同然に見える・・・
そう思ったのです
私は山瀬まみさんがいた方が面白いと思ってました
今までの知識と記憶の積み重ねから類推する内容や
忘れていた事を思い出させてくれる過去の内容の紹介者として
また、番組の「長老」?的存在として
その出演は意義のあるものと思えました

変なの?と番組改変に多少不快な面持ちでいた事は確かです
それが、何かを検索していた時によく右端に出てくる
紹介記事の題名を見て「ン??」と思い見てみると
阿川佐和子さんの番組に出た山瀬まみさんの
口から出た卒業の「真相」にまたまた「エエエッ?」
下記がそれです
------------------------------------------------
「私はもう知り過ぎた」

山瀬は番組の開始当初から21年間レギュラーを務めていたが、4月から番組名が「ガッテン」に変わるのに伴い、3月末で卒業していた。

すると山瀬は「しちゃったんです・・・。21年頑張ったんですけども、私はもう知りすぎたって(スタッフに)言われまして」と答えたのだ。これには阿川が、「あー」と驚きの声をあげ、山瀬は「教えることがないんだって。そういう風に言われたら、ノコノコ次の収録に行くわけにもいかないので、涙のお別れしましたけど」と、寂しそうに語った。
------------------------------------------------
は?
という感じです
知ってちゃ面白くないとでも言いたいのでしょうか?
何も分からずに「エエ~~~~~?ウソ~~!」
とか、言って欲しいのでしょうか?
ゲストを交え3人もいるのですから、
ゲストが「エエ~~~~?」の役をやればいいではないですか?
3人揃って「エエ~~~?」とやらなければ
教える側の「ガッテン!」の主旨に沿わないとでも?

テレビの主流は「バカ」です
おバカをやれば、見ている人に優越感を与え
くつろぎになるとか、思ってるのでしょうか?
その反面「Q さま!!」のような、エリート集団を揃えた
学歴偏重のクイズ番組も作る
それはそれで面白いとは思いますが
究極・・何か偏ってますよね

その昔「女は学問せんでええ」とか
「女は新聞を読むな」とか
酷い差別も受けてきたようです
今でも、あのマララ・ユスフザイさんのように
「学校に行く」という事を主張しただけで
殺されそうになる世の中は続いています
日本の女性の社会進出は、先進国の中で最下位とか
議員の数もそうですが

そんな感覚がどこかに出ているのでしょうか?
この「知り過ぎた」から面白くないとでもいう
番組からの「追放」は
楽しくガッテンを見ていた私ですが
何だかちょっと反発心を持って見てしまいます

「山瀬まみちゃんをガッテンに戻せ!」

と、言いたいです
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「洗濯物をたたむほどのことに人生はあるか」和田重良

2016-04-14 13:14:51 | 異議あり
〈 今週のことば 〉  

「洗濯物をたたむほどのことに人生はあるか」
    (詩人 ・ 山尾三省)

  2015年12月26日(土)東京新聞  和田重良 

 掃除や炊事、食後の後片付けなどの「生活」を
子どもたちと一つ一つていねいにしてゆくことを
「せいかつぎょう」と位置付けて、
そこに向き合うことを「行」としてきました。
 しかし、子どもたちのシャツやパンツ、
家内や自分の洗濯物を取り込んで「たたむ」となると
多少の惨めさや気恥ずかしさがわいてくるものです。
冬の日が山にすっかり入ってしまえば寂しさもあって
「こんなこと、いい大人がすることか」
と感じていたころにこの詩に出会ったのです。
 「そうか、洗濯物をたたむという人生があるのだ」
と知ってみたら、冬の陽光をたっぷりと吸い込んだ
子どもたちのシャツやパンツがとてもありがたい存在で、
一枚一枚たたんで仕舞うことが
「行」の根本だと納得しました。
以来「せいかつぎょう」の本質は
「人生が浮つかないためのものだ」と知ったのです。

   和田重良 (NPO法人くだかけ会代表)
----------------------------------------
以上、新聞からの引用です

うーーーーーん、とこの記事を読んで
何かの違和感を感じた私でした

まず、この詩を書いた人は男であるということ
そして、その言葉を「今週のことば」として取り上げ、
そこから得たものとして書いている筆者も
男だということ

まず、です
このことばの言っている意味って何だ?ということ
そうしたら、元の詩を見つけました
以下に引用します

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
洗濯物 山尾三省

    洗濯物をたたむほどのことに
    人生はあるか
    三年間かけて
    そんなことを考えていた


    この頃は
    もう考えない
    夕方
    よく乾いた洗濯物を取り入れ
    まだ陽の匂いの残るそれらを 正座して
    一枚一枚
    なるべく丁寧にたたんでゆく


    その日
    その秋(とき)の私の人生が一枚一枚たたまれて
    さわさわとそこに重ねられて


    山にはもう
    十三夜の月が出ているのだ

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
元の詩を書いた人(山尾三省)その感想を書いた人(和田重良)
どちらも洗濯物をたたむという行為をする故に
その思うところを書いています

で?
「洗濯物をたたむほどのこと」って、どういう意味でしょうか?
それが「惨めで気恥ずかしい」又
「物思うこと」を要することなのでしょうか?
そこに「こんなこといい大人のすることか」とか
「人生」とかいうことばが出てくることの「不快さ」です

はっきり言わせていただきます
「おんどりゃー、お前ら女をどこまで馬鹿にすれば気が済むのだ!!」

「いい大人のすることか」ですか
和田重良という人は、親の代からの教育者なんだそうです
へ~~~~~~~???

毎日のように洗濯物をたたんでいる女は
「いい大人のすること」ではない「惨めで気恥ずかしい」ことを
ずっとずっとやっている、やらされている?           
     
取り敢えず、ここまでにします
又続きを書くかもしれません
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最近気になるテレビカメラのドアップ

2015-11-02 12:50:37 | 異議あり
テレビを大きなのに替えたせいでか、
あるいはその為だけではないのかわかりませんが
テレビを見ていると、そのアップの多用にウンザリさせられる
これでもか、これでもか、とアップを写され
見ているこっちは頭がクラクラする

日常では、ものを見るのには、そこそこの距離から見る
よほど何かの理由がない限り、そばに寄っては見ない
ところが、テレビは違う
料理番組から、顔から、ドアップを平然と繰り返し
心穏やかにはものを見ることが出来ない
大体料理を見るのに、
まるで対象物に目をくっつけたかのような距離から見るだろうか?

それをカメラだからと言って、周辺のものを全て排除して
対象物だけをドデカイ大きさで見せられることの苦痛

このことについて、誰か何か書いてないかと
「テレビ アップの多用」で検索してみたら
ありました、記述が
その一部を抜粋しここに貼ります

その題名は「テレビ局が作る不自然な映像」
----------------------------------------------------------
[事例2]:「寄り」が多すぎる絵作り

テレビ番組で特徴的な絵作りの一つに「寄り(アップ)の絵が多い」ことがある。
人物の表情のアップ、物品のアップ、場所の一部分のアップ、等々、
とにかく被写体に寄りまくってアップで撮影することに固執している。
その結果、ほとんどアップの場面が連続するシーンが多くなる傾向にある。
これもまた視聴者側からはストレスになる。
視る側からすればアップよりもまずその場の全体を映してほしいと思うものだ。
状況把握にはまず全体像、だからだ。
しかしテレビ屋はアップで撮影し、一部分しか見せようとしない。

そもそもテレビ局は視聴者を馬鹿と規定して、
そこから発想する番組作りをしている。
映像のカメラワークにもその思想は反映されているのだ。
アップが多用されるのは視聴者に考える隙を与えず、
常に「これを見せたい」ことがはっきり伝わるからである。
視聴者の程度が低い事を前提とした考え方である。

また、テレビ屋がアップにこだわるのは歴史的な経緯もある。
昔はアナログNTSC(アナログテレビ放送の規格名であり、
画質はSD放送と同じ。画角4:3)だったので
現在(HD放送)と比較すると解像度が低く(画素数が少ない、と同義)、
アップで撮影しないと何を映しているかわかりにくかった、という事情がある。
特に昔は受像機はすべてブラウン管という真空管の一種を使っており、
それに映像を映し出していたので、いわゆる大画面テレビが作りにくかった。
(37インチのブラウン管もあったが、滅茶苦茶重かった)

一般家庭で普及していた最も多いサイズは14~16インチ程度であろう。
この時代のラーメン屋に置かれていたテレビも14インチが多く、
客はその小さな画面で番組を見ながらラーメンを食べていたものだ。
そんな小さいサイズで視聴する事を前提とすれば、
たしかに引きで全体を映しても何を見せたいのか伝わりにくかったであろう。
いきおい、寄り(アップ)の映像が多用されるようになったのは必然と言える。

しかし現在はデジタルハイビジョン放送(HD放送。画角16:9)の時代である。
SD放送に比べれば情報量は飛躍的に多くなり、
引き(広角)で撮っても充分な情報量が確保されるようになったし、
逆に引きの絵(広角映像)の美しさがアピールできる時代になったのだ。
そのような放送インフラが画期的に変化した時代に、
未だに旧態依然のアナクロな撮り方をしているのが現在のテレビ屋なのだ。
テレビ屋は、地デジ(HD放送)の時代になっても頭の中はNTSC
(SD放送)のままで進化していないのであろう。
HDを生かした絵作りがきちんとできなければおよそプロとは言えない。
せっかくの16:9の広い画角と緻密な解像度を生かした映像を創ってもらいたいものである。

--------------中略----------------------------
これらは「テレビ屋のおかしな映像」「おかしな操作」のほんの一例にすぎない。
ここから見えてくるのは演出者もカメラマンもその他の現場スタッフも含めて「感性が貧弱」であることだ。
感性を磨き続けている人間なら絶対にこうはしないだろう、という悪い例をテレビ屋は作り続ける。それは既に致命的なレベルに達している。

以前から書いているテレビ業界の質の劣化は
こうした制作に携わる人間の仕事にも現れているのである。
下衆を極めた鬼畜外道な連中だ。
テレビは終わっている。
---------------------------------------------------
以上が引用ですが、
やはり、この方が書いているようにテレビのサイズが変わって
   
画面が大きくなった事も一因にはなっているようです
   
あのドデカイテレビ画面にドアップの連続をされると
目がチカチカしてくるような気さえします
頭の中で画像がまとまらなくなるのです
失礼な写し方だとずっと思っていましたが
そして、カメラマンがバカなのか感性が鈍いのかと思っていましたが
どうやらそのようらしいですね

そういう画面の連続に出会った時は、もうチャンネルを替えます
とてもではないですが、お付き合い出来かねます

話題がそれますが、CMはうるさいばかりのふざけた映像ばかり
昔はCMが楽しみでもあった時代もありました
CMで笑えた時代はかなり遠くなり
今はCMを見る度にその騒々しさとふざけた作りと
自分だけを見せたいお馬鹿な若い女の(子の)映像ばかりで
もう結構です、とテレビ離れは当然の話だと思います
番組の宣伝の為に女優や男優を交えさせ
公も私もグチャグチャ
節操のない世の中になってますが、
これが当たり前と思っている世代は
楽しいものを少し見知る事が出来な難い時代にいるのだろう、と
それで、ハロウィンの「仮装大会」のようなものに
走るのではないかと思うのですが
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「消費税還付案 理解に苦しむ」東京新聞投稿欄より

2015-10-01 13:20:21 | 異議あり
2015年9月29日付東京新聞朝刊の投稿欄に
こんな投稿が載っていました



飲食店店員の方からの投稿です
写真では読み取りにくいかもしれませんので、以下に転記します
--------------------------------------------------
 マイナンバーを使った、食料品などの消費税減税の還付案という、
むちゃくちゃな案しか出せない政治家や官僚にウンザリします。
 スーパーで買い物をしていればわかるのですが、
セルフレジという仕組みがあります。
バーコードを通して台に置くと値段が出て、重さでその商品が
合っているか識別するというもので、
バーコードの情報に値段と重さを付加してレジで判断します。
スーパーは税抜き価格だがこのときに税込み価格となる。
ここに値段と重さを組み入れるだけで簡単に軽減税率なんてできると思う。
なぜ買い物のたびに個人番号カードが必要なのでしょうか。
 外食・酒と食料品とを区別するなら簡単で、
わけのわからないカードを使わなくても簡単に導入できます。
---------------------------------------------------
先日のテレビで、還付案がいいのか、軽減税率がいいのかを
コメンテーターを交えて話していました
ところが、還付案を主張する人が、軽減税率について
かなりのデメリットばかり強調し、軽減税率支持の人が
何となく物が言いづらい雰囲気になってしまいました

上記の投稿のようであれば、現場の人達の混乱も負担も少なく
還付案のような、税軽減に対する煩雑な手続きもなくなります
麻生財務相が、斜めにそっくり返った姿勢でのたまうには
「なにもいいんですよ、カードを持つのが嫌なら
税金が返ってこないだけなんだから・・・」
というような内容の

「9月8日閣議後会見 還付を受けるには、買い物時にマイナンバー(社会保障・税番号)の個人番号カードを持ち歩く必要があるが、麻生氏は
「カードを持ちたくなければ持って行かないでいい。その代わり、その分の減税はないだけだ」
と語った。還付される金額については「限度額を決めることになる」と説明し、所得制限の導入も検討する考えを示した。」

呆れる物言いです、今に始まったことではありませんが
税金を国のものだとばかり言いたげな偉そうな物言いです
主権在民をこの政府はお忘れのようで、
政府が国民が出した税金の使い道を決める立場にしても、
それは、そのお金は元は国民のもので、あなた方から
施しものを受けているわけではありません
あまり偉そうに反(そ)っくり返るのはやめていただきたいですね

第一お年寄りが、一々還付手続きなんてできますかね
それにかかる膨大な人件費についてはどうなんでしょうか?
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物が壊れるシリーズがまだ続いています

2015-09-03 10:36:24 | 異議あり
今度は電子レンジがダメになりかけています
今までも時々スイッチが入らなくなって
少し前までは、頃合いを見計らった頃?
勝手にスイッチが入ったのですが
今度はかなりの機嫌の悪さで、殆どお手上げのようです

今は、「グリル」というのだけがスイッチ入って
後は全くうんともすんとも言いません
昨日はケーキのスイッチだけが入って次はグリル
もう、どうしようもないです

次はガッチャマン(←これ、チャッカマンの間違いでした(笑)
軽く動くものを使っていたのですが、そのスイッチの部分が動かない
今は「子供のいたずら防止」とかで、やたらスイッチが重い
子供の管理の出来ない親の為に?
何でみんながこんなものを使わなければならないのか?
ライターもそうみたいですね
腱鞘炎・関節炎になりますよ
こんなものは、親が簡単に仕舞うことが可能ではありませんか
全く理解できない事が続きます

それで逆に思い出しましたが「マンナンライフ」の蒟蒻畑
人が何人も亡くなっているのに、何で発売を止めないのか
企業の良心というものはないのだろうか、と思います
あれで亡くなった人の家族が、あのCMを見る度に
どんな思いをするのだろうか、といつも思います

毎日ムシムシした湿度の高い曇り空
もうじき秋なのに、どういう天候なのでしょうか?
そう言えば、五月晴れがなくなって、秋晴れもなくなるのか?

  

他からお借りした画像ですが、
寝付けないままにパソコン見てて
この画像を見た途端に吹き出してしまいました
この世の中、誠実な動物だけが可笑しいんです
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聖書から「マリアとマルタ」

2015-08-27 12:32:20 | 異議あり
「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを彼女から取り上げてはならない」ルカ福音書 十章

マリアとマルタという姉妹の家に、イエスが来ている。イエスをもてなす仕事にマルタは忙しい。マリアはイエスの話を聞くことに専念している。もてなしの仕事をマリアも手伝うように言ってくれと、マルタはイエスに頼む。そこでイエスがマルタに述べた言葉である。
このエピソードは、「サマリア人のたとえ」を含むエピソードの直後に記されている。マルタは「自己愛・隣人愛」の人、マリアは「神の愛」の人である。神を全身全霊で愛するならば、自分や隣人を愛する余裕はない。
神を愛することができないならば、自分や隣人を愛するのでもよい。しかし神を愛することが優れている。また、自分や隣人しか愛せない者が、神を愛する者から神への愛を取り上げるということは、なすべきではない。
(千葉大教授) 加藤隆
2015/6/6 東京新聞

-------------------------------------
このイエスをもてなす際の「マルタとマリア」について
私は以前から「異議あり」の違和感を覚えるのです
イエスをもてなすにあたり、マルタは忙しく働いている
マリアはイエスの側にひっついて話を熱心に聞き、
イエスをもてなす為の家事には携わらない

それに対して不満を持つマルタが、イエスにマリアに手伝うよう言ってくれという
するとイエスは前述の言葉を言う

「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを彼女から取り上げてはならない」ルカ福音書 十章

私の感想

ふ~~~ん、そうなんだ、もてなす為の家事はしなくてもいいんだ
だったら、マルタも一緒に座って話を聞けばいいんだ・・

私の性格はマリアの方です
おそらくは、家事よりもイエスの話を座って熱心に聞くタイプ
けれど、私も家事をしなければならなければ家事をするでしょう
座って聞いていたくても、そうはしないと思います
ですから、マルタの気持ちがよくわかるのです

この話については、ネットで調べると
それぞれに色々な解釈をしているのに驚きます
この話には、一つのまとまった解釈というものがないのだな、
と思わされました

まず、男性の側からしたら、マルタに賛同するでしょう
なぜなら「もてなしを受けたい」「もてなしを受ける側」である男に取って
都合がいいのはマルタのような女性ですから
もてなす側の女性が、座って話を聞いているだけで
何ももてなしの家事をしなければ困ってしまうからですよね

もしもイエスの言うように
「必要なことはただ一つだけである」と言うのであれば
家事は必要ではないことの範疇に入る
と言っているのと同じに聞こえませんか?

必要の順位とは一体何を以(も)ってして言うのでしょうか?
昔異議のあったCMに「私作る人」「僕食べる人」というのがありました
女に取って必要事項は「家事をすること」ですかね?
だったら、マリアの行動はおかしなことでしょう

この話の解釈の一つに
「男性のように話を優先して聞くことを許されなかった時代」の女の人
それが、マリアとマルタの時代だったと
それを「イエスはマリアのしたことを肯定した」、という説もありました
へーーー、そういう解釈もあるんだ・・・と思いましたね

また、「マルタ、マルタ」と二回イエスが呼びかけたそのことについて
言及している人も少なからずありました
つまり、イエスはマルタをたしなめたのではない、
親しみを込めてマルタに呼びかけたのだ、というのです
究極私が一番納得した解釈がありました。つまりイエスの

「それを彼女から取り上げてはならない」

という言葉の意味です
イエスの話を聞きたいマリアを「そうさせてあげなさい」、という意味だと

もしも、必要なこととして皆がイエスの話を聞くことを選択したとしたら
誰も食事の用意をせずに、イエスへのもてなしはなし、
ということになります
イエスはそれでも良かった、という話ですが
いつもいつもそういうことでは生活は成り立ちません
その辺りのひっかかりは消えません
それが、この話の解釈が千々に乱れる?理由ではないのかと思うのですが

中々しっくりしない話ではありますね



友人が夏バテの私に送ってくれた、
とても美味しい大きな梨です

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エスカレーターで歩かない

2015-06-23 12:59:34 | 異議あり
いつの頃からか、エスカレーターの右側(関東地方)を
空けて乗るのがマナーのようになり、
右側を空けて急ぎの人が歩ける様にしなければいけないようになりました
私はそれに賛成できません
二人で乗れば倍の人が乗れるのに、歩く少数の人の為に
エスカレーターの下では並んで待たなければならない



このような「お願い」が書かれていても、全く守られません
エスカレーターは静止して乗るもの
急ぐ人は階段を、と言ってもダメみたいです
いつ頃からなのか、「優しさの押し売り」が気にかかるようになりました
その「親切」の中身は、私には承服できないものも多い
エスカレーターの「歩く人の為の片側開け」も同じです

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川崎の事件  「野末陳平さんのブログ」から

2015-03-04 12:07:25 | 異議あり
2015/03/04   水曜日午前

テレビの出演者たちが盛りあがる事件が続きますね。
大塚家具・骨肉の家族対立や、高橋・三船のリコン訴訟なんてのは、バカバカしいだけの、世間によくある話で笑ってしまいますが、群馬大学病院の医療大失敗の報告は、わが耳を疑う話です。大学病院ともあろうものが、ここまで放置してたなんて信じられません。
あたくしも、東京女子医大病院で、目の手術に失敗されて、今えらい目にあってますが、群馬は患者さんの死亡ですからね、大病院といえども恐怖です。この結末は、相当に重い処罰でしょうか。
また例の18歳の中1少年殺害事件ですが、どこのテレビ局、どの番組も、どのコメンテーターも、一様にみな、オトナが何にもしてやれなかったのが残念です、などと建て前風の論評に終始してます。中には、警察や教育関係への批判を口にしてる出演者もいます、無責任に。
それはまさにその通りで正論なんですが、本当のところ、誰もが言いたい率直なホンネは別にある、それがノドのところまで出てきてる感じも画面に出てまして、そこを誰もが聞いてみたい。
ともあれ、これは特異な事件だけに、今後の対応、対策が大事なのは当然として、テレビの建て前・口先意見などよりも、ネット関連の書き込みのほうに、将来に資するホンネが出てるようにも思います。
国会で問題になってる政治資金がらみの献金ネタ、あれは大いにまずいことですが、法律そのものがザル法なんで、大臣の追求ばかりしていても前進はありません。半数以上の議員が、悪いと思わず、同じことしてますから。
マスコミの扱いが、各社全く同一パターンの報道視点で本質をつかないから、このテレビ横並び体質も変えない限り、テレビ報道は口先だけのその日暮らしで終わりますね。彼らテレビマンたちは、そもそも不勉強ですから。     2015/03/04 10:32:48 AM

-------------------------------------------------
野末陳平さんは、今年1月で83才になりました。
見た目(写真や動画)も、中身も年齢より若く見えます
目が悪いとかで、中々長文は書かないのですが、これはや長めです
文中に書いてある

>それはまさにその通りで正論なんですが、本当のところ、誰もが言いたい率直なホンネは別にある、それがノドのところまで出てきてる感じも画面に出てまして、そこを誰もが聞いてみたい。

これって、何のことなのかと・・・。
親の話なのかとも思いますが。
実際母親は何をしていたのだろうかと、私は率直に思います

この間、テレビで大橋巨泉が出てご自身の虐めについて語っていましたが、
戦中の疎開の時に、大抵疎開した児童は
土地の子供に虐められたケースも少なからずあったようです
そんな時に大橋巨泉のお母さんは、虐めた相手の子供の家に行き
「今度私の息子に何かしたら、お宅の息子さんを殺して私も死にます」
と、宣言したそうです
その後、いじめはぱったり止んだと言ってました

子供を命がけで守るのが、産んだ親の責任ではないかとも思うのです
最近お母さんやお父さんを責めない風潮が多々あり
それだけではなく、妙な庇い方をするケースを目にして
非常に疑問に思うのです

何かあると「自己責任」の大合唱がおきます
私の嫌いな言葉の「自己責任」が
では、このお母さんが嘆いたとしても「自己責任」
殺された子供も「自己責任」でしょうか?
自己責任論者の方々へ
何故、おかあさんに対して「自己責任だよ」と言わないのですか?
私は思うにこれは、
「自己責任」ではなく「保護者の責任放棄」ではありませんかね?

以前、踏切で3,4才の幼子が電車に轢かれて亡くなったという事件がありました
お母さんは一緒に渡っていたのです
ですが、小さい子の手を引いていなかった
そして、子供は亡くなったのですが、誰一人お母さんを責めない
責めないどころか、悲しんでいるお母さんが可哀想だという論調でした

あえて責めなくてもいいですが「お母さんがちゃんと手を引くべきだ」とか
「手を引いていなかったから子供の命を守れなかったのだ」とは
一言も言わないのです
「子供の手を引いていたら助かったのに」と、それすら口にしない
何で?
子供をお母さんが殺したようなものではありませんか?
違いますか?

今でも時々見かけるのは、通りを渡るのに
お母さんがさっさと一人で歩いて行ってしまって
後から小さい子が追いかけていくのです
後ろに目はついていません
これでは何かあった時に、お母さんは子供をすぐには守れません
それで、先に渡ったお母さんは、ずんずん先に歩いて行ってしまっています
私は思わず、子供をどついて転ばして母親を振り向かせてみようかなどと
そんな思いに駆られたこともあります

子供をお母さんは守っていないのです
自己中ババア、です、そんなお母さんは
今時のお母さんは、外見も中身も若過ぎる人が多いですね
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サンタクロースとナマハゲの違い

2015-02-27 14:31:24 | 異議あり
日本の仏教寺院と西洋の教会の違い
私は日本のものが暗いように感じるのです

仏教の寺院は暗い感じがしますよね
暗い中に仏像や、キンキンキラキラの飾り、何と言うのでしょうか?
調べたら「天蓋(てんがい)」というそうですが
蓮の花、木魚、等など

ところが、西洋の寺院、教会はとっても綺麗で明るい
キリストの像も何となく暗くはない
磔の姿なのに
マリア様は美しいし、綺麗な衣装を纏っているし

   

とても美しい、ステンドグラスなるものもあります

日本と来たら、金剛立像とか、仁王とか、
おっかない、目を剥き出して睨みつけた像とか

日本は恐怖によって人を抑えつけようとし?
西洋は美しいものによって、敬愛の情を持つとか?

私は秋田のナマハゲが嫌いです
子供を恐怖のどん底に陥れ、ありったけの声で泣かせて大人が笑っている図
決して美しいものではありません

その昔、夜や夕方は暗闇でした
「人さらいが来る」と親に言われたものでした
怖いものがたくさんありました
子供はまだ世の中を知らないから、目に見えぬ怖いものがたくさんあります
大人になって、なぁ~んだ、と思うようなことも
子供にとっては大変な脅威となります

何も知らない幼子に、怖いお面を被って脅す事が
一体どういう意味を持つのでしょうか?

西洋の子供が、優しいひげのサンタクロースにプレゼントをもらう習慣と
ナマハゲに脅される日本の子供って
生育過程で何かの違いは出るのかもと思います

赤ん坊をわざと泣かせる「泣き相撲」とか
無理矢理椀に盛られたご飯を食べさせる行事とか

調べたら「ブラックサンタ」なるものが西洋にもあるそうですが
調べなければわからない程度の知名度では
あまりポピュラーな行事とは言えない
廃れてしまった行事なのだと思いますから
やっぱり、優しいサンタクロースこそが、
西洋の伝統ということになりそうです

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「人質の命を救うことを最優先しなければならない」アダム・ドルニック教授

2015-02-12 13:31:01 | 異議あり
http://www.videonews.com/commentary/150207-03/

人質の命を救うことを最優先しなければならない
身代金に関する4つの誤謬 - アダム・ドルニック教授

 オーストラリアのウーロンゴン大学の教授で国際テロの専門家として知られるアダム・ドルニック教授が、2015年1月13日付けの国際政治誌「フォーリン・アフェアーズ」のオンライン版に、「身代金に関する4つの誤謬」と題する論文を寄稿している。テロリストによる人質問題と身代金に関する一考察として注目に値すると思われるので、ここで簡単に紹介したい。

 人質解放交渉などに関わった経験を持つドルニック教授は、「政府は身代金を支払ってでも自国民の人質を助け出さなければならない」と主張する。そして、人質事件における身代金の位置づけや「テロには屈しない(no concessions)」政策の持つ意味については、大きな誤解があるとして、その中でも代表的な4つの誤謬を紹介している。

 まず最初の誤謬として「テロには屈しない」(no concessions)(=身代金は払わない)を掲げる政府が、一切の交渉をしていないと考えるのは大きな間違いであると、教授は指摘する。欧米の先進国はほぼ例外なく、政府が正式に身代金を支払うことはしていないが、デンマークやオランダの例に見られるように、政府は人質の家族や仲介者などを通じて、身代金の支払いには柔軟に応じている場合が決して少なくない。

アメリカは世界でもかなり例外的にテロリストとの交渉を無条件で拒否する立場を強く打ち出している国だが、後に紹介するように、アメリカは人質を救出するための特殊部隊を擁していたり、実際の紛争当事者であるためにテロリスト側の人質や捕虜を抱えている場合が多く、捕虜交換には応じている。no concessions方針をもっとも厳密に打ち出しているアメリカでさえ、人質の救出を図ったり、人質・捕虜交換など一定の交渉の余地を与えているのだ。よって、「テロリストとは交渉もしない」方針を掲げた国の政府が、テロリストと一切の交渉をしていない考えるのは誤りであると、ドルニック教授は言う。

 2番目の誤謬として教授は、身代金の支払いを拒絶することで、その国の国民がより安全になるという説にも、根拠がないと指摘する。特にアメリカは、身代金の支払いに応じれば、その国の国民はまた人質に取られる可能性が高まり、逆にそれを拒絶すれば、人質に取られにくくなると主張しているが、それを裏付けるようなデータは存在しないとドルニック教授は言う。教授は、テロリストが人質を取る場合、場当たり的な行動による場合がほとんどで、その場でテロリストが国籍によって人質を選り好みするような話は聞いたことがないという。

また、人質を取ったテロリスト側の主な要求としては、人質や捕虜の交換がもっとも優先順位が高く、身代金は二の次の場合が多い。そのため、一度身代金を払った国の国民はその後より大きな危険に晒されるというのは根拠のない説であるとして、「テロリストとは一切の交渉しない」ことを正当化する側の論理を一蹴する。

 3番目の誤謬として、身代金がテロリストをより強大化させてしまうという説にも、教授は疑問投げかける。確かに何億円もの身代金を支払えばそれがテロ組織の強化につながる可能性はあるが、身代金目的の誘拐の場合、人質が政府高官のような要職にある人物でない限り、テロリストは少額の身代金でも妥協する場合が多いと教授は言う。むしろ、人質を取ったテロリスト側の真の目的が身代金ではない場合は、最初に法外な金額をふっかけてくる場合が多く、身代金目的の場合、金額にはかなり妥協の余地があるという。

 また、身代金を支払うことが、テロ組織を弱める場合もあると、教授は指摘する。それはテロリスト組織は多くの場合、「帝国主義との戦い」といった理念的な正当性を掲げている場合が多く、それが多くの兵士をリクルートしたり、場合によっては自爆テロのような自己犠牲まで強いることを可能にする原動力となっている。

ところが、その組織が、実はカネを目当てに人質を取っている銭ゲバ集団であることが明らかになれば、その組織が理念的・精神的な正当性を失うことになると考えられるからだ。実際、フィリピンのイスラム過激組織「アブサヤフ」は2000年以降に相次ぐ人質事件で多額の身代金を得たことで、国民の支持を失い、今や大義を掲げるテロリストなどではなく、単なる犯罪集団のような地位に成り下がっているとドルニック教授は言う。

 そして4つ目にして最後の誤謬として教授は、身代金は払わないでも、他にも人質を救う手段があると思われていることをあげる。身代金を支払う以外に、人質を助ける手段がないことを認識すべきだというのだ。1つ目の誤謬の中でも触れたが、アメリカは特殊部隊による救出作戦を遂行する能力があると思われているが、実際は人質が殺される最も大きな要因が救出作戦であることは、テロ専門家の間では常識となっている。救出作戦は数十回に1回成功すればいい方で、失敗した場合、人質のみならず、救出に乗り出した特殊部隊の隊員にまで犠牲が出る場合も少なくない。

 以上のような4つの誤謬を示した上でドルニック教授は、「身代金を払ってでも政府は自国民を救うべきである」と主張する。上にあげたように、実際は身代金を出す以外に人質を救う手立ては存在しないに等しく、身代金を払ったとしても、その影響は一般に言われているほど大きくはないというのが、教授の主張の主たる根拠となっている。

 特に紛争地帯で危険な任務に携わる援助団体やNGOのスタッフやジャーナリストや医療スタッフが人質になった場合、政府はあらゆる手段を講じてでも彼らを助けることが重要だと、教授は言う。なぜならば、政府が「テロには屈しない」といった単なる原則論で彼らを見殺しにした場合、彼らの多くは危険な場所に行きたくても行けなくなってしまう。
それは紛争地帯で日々の生活にも苦しむ住民への食料や医療などの人道的援助が行き渡らなくなることを意味し、教授の言葉を借りれば、テロと戦う上で最も重要な要素と言っても過言ではない「hearts and mind」(軍事ではない心の外交)が止まってしまうことを意味するからである。

 フォーリン・アフェアーズのドルニック論文を、ジャーナリストの神保哲生と社会学者の宮台真司が議論した。
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他の人のブログの記事より引用させていただきました
間、読みやすいように行間を空けました。

人質→自己責任→見殺し への正当化の間違いへの考察

参考にしてくださいますようお願いします。
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紅葉・黄葉・・落ち葉を掃くこと

2014-12-15 16:47:09 | 異議あり
      

落ち葉はゴミか否か?
私は落ち葉は落ち葉だと思っています
ですが、一般的には落ち葉を掃かないと
ゴミを放置していると思われるようです
私は植物が好きですので、落ち葉で腐葉土が出来ると思い
落ち葉は貴重な自然のものと思っています
落ち葉をゴミのように掃き、ゴミとして出すことに抵抗を感じます



土の上なら自然に土に還る落ち葉ですが
アスファルトで舗装された道には、還る場所はありません
では、落ちた落ち葉はどうなるか?
カサカサに乾いてパラパラと粉のようになり
固い葉は、時間がかかりますが、そして、どこかに紛れてなくなります
もしかしたら、下水に落ちてしまうかもしれないし
うまく行けばどこかの土になっているかもしれないです



私は毎日4回位落ち葉を掃いたり拾ったりしています
そうしないと、ご近所迷惑になるそうですので
集めた落ち葉はゴミには出してないです

母の実家には大きな樫の木がありました
家を建て替えた時にそれを伐ってしまったのです
母は敢えて伐った理由を実家の人に聞かなかったのですが、
後から私が従姉妹に聞いたら
「落ち葉がたくさん落ちて近所に迷惑になるから。
近所から苦情を言われたみたいよ」
なんだそうです

母の実家は埼玉県、場所は決して都会でもありません
そうなんだー、そうだったんだ~
母は何故伐ったのかを、木が痛々しくて聞けなかったようです
母も私も動植物が大好きですので、木が伐られたら痛ましく思うのです
樹齢どれくらいの樫の木だったでしょうか
長い間安泰でいられる木は、神社かお寺の木だけなのでしょうか

     
     同じ木でも、これだけ色が違っての紅葉です
             
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女言葉・男言葉 威張るということについて

2014-10-19 23:11:48 | 異議あり
前回書いた「男言葉」「女言葉」の区別について、ですが
知らないうちに、毎日毎日そういう区別のある言葉遣いをしていること
それが、上下関係にも繋がる結果を招いているということ
それは歴然とした事実です

小学生、中学生の少女が自分を指して
「僕」とか「俺」とかいうのを聞いた事がありませんか
文章でもいいですが
「僕」というから男の子かと思ったら、書き手や話し手は少女だった、と
何故、そんなことを言うのか、
何故少女が「僕」という言葉を使っているのか
又は、
何故少女が「僕」とか「俺」と言ってはいけないのか、でもいいです

何故男は「乱暴な」言葉遣いをしてもいいのか
何故、女が「男言葉」を使ってはいけないのか

その昔、女の文字はかなだけだったらしいのです

東京新聞 2014年9月7日 
「男と並ぶ歴史の瞬間『女はいつからやさしくなくなったか」
http://www.tokyo-np.co.jp/article/book/kakuhito/list/CK2014090702000177.html

ここで言う「女のやさしさ」とは何なのだろうか?と思いますが
この題名自体に不審を抱きます
「男と並ぶ瞬間」=女がやさしくなくなった
何という話でしょうか?何かがおかしくはないですか?
では、逆から言えば「男はやさしくない」ということなんですか?

では「やさしくなければ・・・」とかいうフレーズはどうなるのでしょう?
見つけてきました
レイモンド・チャンドラー
「男はタフでなければ生きては行けない。優しくなければ生きていく資格がない」
「やさしい」という言葉は女のものではないでしょう

日本語が、英語と同じに、男女共に同じ言葉を使う事ができたなら
きっと、今とは違う日本ができているような気がしてなりません

そして、もう一つ、日本語の抑揚です
日本語は、「女が女らしさを非常に強調した話し方をし易い」言語なのではないかということです
日本人の女性の中には、可愛らしさを強調したような話し方をする人が結構います
それは、外国語の吹き替えを見ると歴然としています
テレビなどで外国語の音声を発している言葉に被せて
吹き替えの人が話す言葉の、抑揚の違いに気づいたことはありませんか?
日本人の吹き替えの女性が、クネクネとした女っぽい話し方をしている
その向こうで発せられる外国の女の人の、淡々とした「普通の話し方」の違い
まるで別人です
言葉遣いだけではない日本語の特性は、
その発音、言葉の特異性もあるのではないかと思うのですが

日本語が男女同じ言葉遣いをするようになること
これが、妙な女らしさを強要する文化の基を
変えて行くことになるような気がするのですが
それをどうやって行うかのノウハウは、私には全くわかりません
知らず知らずのうちに、体の芯まで染み込んでいる男女差別・・

余談ですが、
今、小渕大臣の政治資金使途問題で揺れています
安倍首相の女性大臣の起用の方向性は、ただのイエスマンか親派女性で
これは、正しい女性の起用法とは別物ではないかと思います


隣の客は よく柿食う客だ
秋深し 隣は何をする人ぞ
袖すり合うも 他生の縁・・・
 平種なし柿 1パック 6個入り 298円 一個 50円でした
甘くて、程々に柔らかい美味しい柿です
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言葉遣いから 威張るということについて 

2014-10-17 22:47:47 | 異議あり
私は外国語は話せないので、日本以外の国では
どういう言葉の遣い方をしているかについてよく知りません
ただ、少し習った英語に関して日本語と比較した時に
一番先に思うことは、一人称の表わし方です
つまり、そこに性による又、上下による区別はないということ
あえて、今は差別という言葉は使わずに、区別として話をします

私は「自分」を表す英語について「I」(アイ)という言葉しか知りません
自分=「I」 です

ところが、何気なく毎日使っている日本語には
一人称を表すに際して、様々な、様々過ぎる言葉があります

私(わたし)
わたくし
あたし
あたい


わし・わい
自分
手前
さすがに「それがし」「拙者」は死語でしょうが

相手に対しては、二人称ですが、英語はyouですか、ユー
日本語は、

あなた様
あなた
あんた
お宅(たく)

お前
てめえ
きさま
われ
おのれ・おんどりゃ

日本語の場合、一人称、二人称についての言葉は、
性別などによって使われる言葉が異なってきます
重なる言葉もありますが、上記の記述の言葉の、
大体半分から上が「女言葉」であり、
下半分が「男言葉」となります
共通する言葉の場合は、「私」「あなた」のような、
多くは丁寧語として使われる言葉のようです

私が兄からかけられる二人称は、
通常「お前」
次が「君」
次は「あなた」
ですが「あなた」を使う場合は、慇懃無礼な感じでいちゃもんをつけてくるケースが多い
「あなたね、、」という感じですか

で、結局、男言葉は「乱暴」女言葉は「丁寧」に見えます
語尾に「わ」とか「よ」をつける女言葉
よく言うオカマの方々が何によって判るか?
しぐさや言葉遣いです
「あら、そうよ」とか男が言えば「変」と思われます
女が「そうなんだよ」とか言えば「変」?
「そうなのよ」と言えば「女」

で、私の弟は「オカマが気持ち悪くて嫌だ」と言います
性同一障害も認めないのが弟のスタンス
何故か?男が女言葉を使うと困るみたいなのです
男の沽券が潰されるみたいな気がするようで?

私は性同一障害は、ありだ思っています
それは、生まれついての身体と心の不一致というのでしょうか
ですが、それではなぜ、男が女の言葉?を使うと気持ちが悪いのか
ちょっと横道に逸れてきたような気もしますが

では、逆を考えてみます
女が男言葉?を使うとどういう風に見えるのか
それは「気持ちが悪い」とは言われませんね
「それは何々だろう」「お前何やってんだ?」「知らないよ」
余談↓
あぁ、「知らないよ」は「よ」がついても男言葉みたいに感じますね
女なら「知らないわよ」か「知らないわ」です

で、女の男言葉は「乱暴」「粗暴」な女というレッテルでも貼られそうです
つまり、男が女言葉を使うと「気持ち悪い」「なよなよしている」で
女が男言葉を使うと「乱暴な」「粗暴な」「荒っぽい」?
では、その言葉による印象の違いというのは、一体どこから来るのか
何の違和感か、という話になります

では?
英語はどうでしょう?
言葉は男も女も同じです
これをどう見るか、です
もしも、日本語が男と女の言葉遣いの違いがなかったら、どうでしょう?
長くなるので、ここまでにします つづく



片目の入ったダルマさんです
身長は4cm弱です kitkat と書いてあるので、多分おまけかもしれません
ダルマのどちらの目に墨を先に入れるか、必ずしも決まりはないようですが・・
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掲載拒否「今も納得できぬ」作者女性 「九条俳句」

2014-09-26 13:22:37 | 異議あり
梅雨空に 「九条守れ」の 女性デモ

上記は、さいたま市大宮区の三橋(みはし)公民館が月報に掲載するのを拒んだ俳句です
このブログに9月19日に書いた記事のその後で、
下記は東京新聞 今日付 9月26日朝刊一面記事です
『多くの人が声「心強い」』
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2014092602000122.html


「女性は一九四〇年に新潟市で生まれ、すぐに現在の東京都西東京市に越した。父は四四年春、女性や妻、生後一カ月の息子を残して出征した。女性は間もなく腸チフスになって入院。退院の翌日、その病院が米軍の空襲に遭った。前日まで一緒に入院していた人たちの多くが亡くなった。
 戦後、現在のさいたま市大宮区に越し、結婚して二人の娘を産んだ。孫の二人は高校生と大学生になった。「若い人たちに戦争を経験させない」。「梅雨空-」の句は、そんな願いも込めた作品だった。」

東京新聞は、ずっと反原発の姿勢をもつらぬいています
この件も、東京新聞が7月4日付朝刊報道で問題にしたものだそうです
このように、公の機関が、右に倣えのごとく、
急に上から目線で、禁止事項を次々と出していくようになり、
「花子とアン」の時代に逆戻りするかのような危惧を覚えます
この間までとは打って変わったかのような、
この行政の対応はどういう事なのか
民主主義の名の裏に隠れた、政治家や行政の本音とは何なのか?
一夜にして、日本はこういう国に変わってしまえるのか

近隣諸国の危惧とはこういうものなのではないのか、とも思います
近隣諸国が必ずしも正しいとは言いません
ですが、日本軍が戦争中に近隣諸国他アジア地域で行った蛮行を
今は、隠すべくもなく知らされています
嘘だ何だと言っても、実在する旧日本兵の証言は、裁判でも多数語られています
この間までも東京新聞には、それらの90才以上のお年を召された方々の
あるいは、既に亡くなられた方々の、身を振り絞るような
悍(おぞ)ましい戦争体験の記憶を、
「語り継がなければならない」との使命感から掲載されていました

今も東京新聞夕刊には、7月22日から
「或る傍観者の記録」と称された戦時中の、いかに日本軍の残酷で、
見るに耐えない事をしてきたかの実録記事が載せられています
(1951年に書かれた、カーニコバル島での住民虐殺と戦犯裁判の記録)
アジアの人達に日本軍が何をしたか、どんなに、語るに・見るに耐えないような
酷い仕打ちを現地の人達になしてきたのか
この連載は今47回を超えましたが、私は読んでいません
最初少しだけ読みましたが、あまりに内容が酷過ぎて読めないのです
心ある日本兵達が、その中でどのように人を守ろうとしたか
次々と無慈悲に人が殺されていく様子が書かれています
私には到底読み続ける事はできませんので、
見出しの大文字だけを見ています

戦争とはそういうものです
暴力と殺戮の繰り返しでしかありません
ですが、人間は戦争をやめる事ができない生き物のようです
「一部の男が」と変えた方がいいのでしょう
女は戦争を望みません
戦争を仕掛け、していくのは男です
戦争の実態は、残虐そのものでしかありません

イラクに行った日本の自衛隊の人達
その後の調査報告が先日東京新聞に載っていました
詳細は記憶していませんが、自殺した人が少なからずいます
精神(心)を病んだ人達も少なからず出ているそうです
今、「イラク 自衛隊 自殺」で検索してみましたが、
自殺者は2014年3月末の時点で40名にのぼるそうです
「恐怖と不安、緊張が解けず帰国後も精神不安や睡眠障害・・」
これが、戦争です 
もっと酷いのが戦争です

戦争とは命を奪い合うもの、公の殺人ですから・・
それを反対する俳句が公の機関から掲載拒否されたのです
公民館を管轄するのは、市の教育委員会だそうです
これが今の日本の現実です


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「9条俳句」金子兜太さんインタビュー 掲載拒否は「言葉狩り」

2014-09-19 22:45:03 | 異議あり
2014年9月8日付 東京新聞 朝刊記事より

「梅雨空に『九条守れ』の女性デモ」はさいたま市の女性(73)が六月、東京・銀座で集団的自衛権の行使容認に反対するデモを見かけ、その光景を詠んだ。女性は三橋公民館で開かれている俳句教室の会員。公民館の月報の俳句コーナーには、会員二十人が互選で選んだ一句が掲載されてきた。「梅雨空ーー」は七月号の句に選ばれたが、公民館は掲載を拒んだ。俳人の金子兜太(とうた)さん(94)は「受け入れるべきだった」と話す。」

----------------以下ネット記事より-------------
 「梅雨空に『九条守れ』の女性デモ」と詠んだ市民の俳句を、さいたま市大宮区の三橋(みはし)公民館が月報に掲載するのを拒否した問題で、現代俳句を代表する俳人の金子兜太(とうた)さん(94)は本紙のインタビューに「普通の市民が率直に感じたことを詠んだ句。掲載拒否は言葉狩りだ」と述べ、月報に掲載するべきだったと指摘した。

 金子さんは日中戦争の開戦後、俳句で戦争を風刺した俳人らの弾圧事件を目の当たりにした。

 海軍主計中尉として戦争に参加した経験から、戦後は「戦争のない世の中にしたい」と、人間や社会の現実をテーマにした俳句を詠んできた。

 金子さんは「今回の掲載拒否が前例になれば、一般の人の作品が次々に(社会から)つまみ出されてしまうことになりかねない」と話している。(岡本太)
◆「社会を詠む」は特別じゃない

 -さいたま市教育委員会は「世論を二分するようなテーマの作品は月報にそぐわない」と、掲載拒否の理由を説明しています。

 「市教委は『九条』の言葉に反応したんだろうけど、俺からみたら滑稽だ。作者がデモに好意を持っていたとしても、ごく普通の市民が率直に感じたことを俳句にしただけでしょう。戦後、特に高度経済成長のころから、花鳥風月だけでなく、社会を詠(うた)おうという傾向が広がってきた。『梅雨空-』だって、そういう風潮の中で詠まれた。市教委はそんな俳句の現状に鈍い。過剰に反応するのではなく、余裕を持って受け入れるべきだった」

   -市教委は、公民館の月報に載せる文芸作品の基準も作ろうとしています。

 「(基準ができれば)今回の『梅雨空-』のように言葉狩りになる。非常に危険。だったら穏やかなものだけ作っておこうと、みんな萎縮しちゃう。どんな立場の作品が出てきても、載せたらいい」

   -金子さんは一九四〇~四三年の特別高等警察による「新興俳句弾圧事件」も目の当たりにしましたね。

 「戦争を風刺していた俳人が次々に治安維持法違反で捕まった。俺が所属していた俳句雑誌『土上(どじょう)』の主宰者だった島田青峰(せいほう)先生も捕まった。先生は穏やかな俳句を書いていたのに、捕まるなんておかしいと思った」

   -終戦直前に海軍主計中尉として日本軍の拠点だったトラック島(現ミクロネシア連邦チューク諸島)に派遣されました。

 「学生のころは、戦争は(日本が)豊かになるためには仕方がない、という気持ちもあった。戦争を甘く見ていた。だけどトラック島では毎日のように誰かが餓死し、米軍の空爆があると五十人から六十人がすっとんだ。戦争なんて無残な死を積み重ねるだけ。こうなる前に、なんで自分は戦争に反対できなかったのか、甘い考えを悔いた。それで戦後、戦争のない世の中にしたいと、社会を題材に俳句を詠み続けてきた」

   -東京電力福島第一原発事故後、金子さんが詠んだ句に「『相馬恋しや』入道雲に被曝(ひばく)の翳(かげ)」などがあります。

 「今や、社会のことを俳句に詠むのは特別なことじゃない。そういうふうに自由に俳句が発表できる環境はとても大切。今回の掲載拒否が前例になれば、一般の人たちのごく普通の作品が、次々に(社会から)つまみ出されてしまうことになりかねない。市教委が今後も『梅雨空-』の句を掲載しないのであれば、掲載拒否が前例にされないよう求めていくことが大切だ」

<かねこ・とうた> 1919年、埼玉県小川町生まれ。同県熊谷市在住。旧制水戸高校在学中に俳句を始める。東京帝国大(現東京大)卒業後、日本銀行に入行。43年に海軍経理学校に入校し、44年にトラック島に派遣された。戦後は社会性俳句の旗手として活躍、56年に第一句集『少年』で現代俳句協会賞を受賞。62年に俳句雑誌「海程(かいてい)」を創刊。代表作に、長崎で詠んだ「彎曲(わんきょく)し火傷(かしょう)し爆心地のマラソン」など。2000年から現代俳句協会名誉会長。

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最近急にこの類の話を目にする事が重なり、その行政他の姿勢に唖然としています
まるで、戦前の検閲みたいな感じもします
安倍政権になって、集団的自衛権が容認されたのと前後して
それに追随するかのような、あるいは時の政府に阿(おもね)るかのような
これらの行政の姿勢には、物も言えないような呆れた思いを抱きます
こんな風に「一夜にして」70年近く続いてきた「民主主義」らしきもの
それが、いとも簡単に踏みにじられようとする日本って何だ?という気がします
まさに「お仕着せ」の民主主義であって、自ら勝ち取ったものではない
そんな気がして、大変情けない思いがします
これが、日本人の本質なのでしょうか?

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