父夏目漱石に怯える少年時代を過ごした、漱石の次男
夏目伸六氏の著書からの引用、つづきです
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「でも伸六ちゃんのこと、割合に可愛がっていたのじゃない?
だってね・・・・・あんたが泣くとお父様きまって書斎から出てきたわよ」
姉や母の話によると、私は泣き虫の青んぶくれの、
その上手の付けられない癇持ちの、一言にしていえば
全くどこといって取柄のない、醜い、不快な子らしかった。
こうした私が泣くたびに、父が出てきて、
「泣くんじゃない、泣くんじゃない、お父様がついているから
安心おし」と、私をなだめてくれたという話である。
しかしその理由は、自分も私とおなじ末っ子であり、
家庭にも恵まれず、また父親からもあまり可愛がられなかったため、
私の泣くのはきっと自分と同様、傍の者からいじめられて泣くのだろう、
「だからお前にはこうしてチャンとお父様がついているから安心おし」
という、いわば父の異様な妄想から出発した
反射的行為には違いなかったが、それでも、
今まで私の目や心に映じていたつめたい父の姿の他に、
こうした別箇の父の姿があったということは、
たしかにずっと父を疎んじてきた私にとって、
幾許(いくばく)の感慨なきを得ない話である。
実際姉の言うとおり、父の病気が本当に悪かった時分には、
私などまだ全然生れていなかった。
また私が生れてからも父の病気が悪化したのは、
ただ一遍しかなかった。
もちろんその合間合間には、軽い発作が時折襲ってきたとはいえ、
それさえ私などは大部分無意識の中に経験していたに違いない。
私は未だに、幼稚園から帰ってきたばかりの私と兄に、
母が「久世山へでも行って遊んでおいで」
と女中をつけて遊びに出した時のことを覚えている。
暗い部屋の仏壇の前で、母は何かじっと拝んでいた。
家の中はシーンと静まり返って、コソッという物音一つ聞こえなかった。
私は襖を一つ隔てた隣の書斎に、
父がじっと虎のように蹲(うずくま)っているのを意識した。
仏壇の前で祈っていた母はたしかに泣いているようだった。
その横顔を微(ひそか)に流れる涙を見ながら、
小さい私も急に一緒に悲しくなった。
その癖ひねくれた私には、もうその頃からどうしても
自分の気持ちを率直に表白することができなかった。
女中に兄と二人して手を引かれながら、私達は黙々として
榎木町を突き当たって、江戸川の方へ曲って行った。
いつもなら山の土手を滑りおりたり、
頂の広い草原を駈け回ったりする私達も、この日だけは
草の上に、ぼんやり腰をおろして、
途中で女中の買ってくれたお煎餅やジャミパンを
味もなくボソボソとかじりながら、
赤い夕日が遠く暗い屋並の果に沈んで行くのを
じっといつまでも眺めていた。
恐らくこの時の母の気持ちは、
暫時なりとも小さい子供を陰険な父の前に
曝(さら)させまいと思う親心から、
わざわざ女中までつけていち早く私たちを外へ遊びに出したものだろう。
「その怖いったらなかったわね」
私は一番上の姉と、つい先だって死んだ二番目の姉とがよく笑いながら、
父についてこんな思い出話をしていたのを知っている。
その姉達の話を聞けば、これも決して無理であるとは思えない。
「だから私たち、お父様とどこかへ一緒に行くのとっても嫌だったわ」
おそらくこの姉たちは、私たちより数段の恐ろしさを
身にしみて感じていたに違いない。
(つづく)
夏目伸六氏の著書からの引用、つづきです
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「でも伸六ちゃんのこと、割合に可愛がっていたのじゃない?
だってね・・・・・あんたが泣くとお父様きまって書斎から出てきたわよ」
姉や母の話によると、私は泣き虫の青んぶくれの、
その上手の付けられない癇持ちの、一言にしていえば
全くどこといって取柄のない、醜い、不快な子らしかった。
こうした私が泣くたびに、父が出てきて、
「泣くんじゃない、泣くんじゃない、お父様がついているから
安心おし」と、私をなだめてくれたという話である。
しかしその理由は、自分も私とおなじ末っ子であり、
家庭にも恵まれず、また父親からもあまり可愛がられなかったため、
私の泣くのはきっと自分と同様、傍の者からいじめられて泣くのだろう、
「だからお前にはこうしてチャンとお父様がついているから安心おし」
という、いわば父の異様な妄想から出発した
反射的行為には違いなかったが、それでも、
今まで私の目や心に映じていたつめたい父の姿の他に、
こうした別箇の父の姿があったということは、
たしかにずっと父を疎んじてきた私にとって、
幾許(いくばく)の感慨なきを得ない話である。
実際姉の言うとおり、父の病気が本当に悪かった時分には、
私などまだ全然生れていなかった。
また私が生れてからも父の病気が悪化したのは、
ただ一遍しかなかった。
もちろんその合間合間には、軽い発作が時折襲ってきたとはいえ、
それさえ私などは大部分無意識の中に経験していたに違いない。
私は未だに、幼稚園から帰ってきたばかりの私と兄に、
母が「久世山へでも行って遊んでおいで」
と女中をつけて遊びに出した時のことを覚えている。
暗い部屋の仏壇の前で、母は何かじっと拝んでいた。
家の中はシーンと静まり返って、コソッという物音一つ聞こえなかった。
私は襖を一つ隔てた隣の書斎に、
父がじっと虎のように蹲(うずくま)っているのを意識した。
仏壇の前で祈っていた母はたしかに泣いているようだった。
その横顔を微(ひそか)に流れる涙を見ながら、
小さい私も急に一緒に悲しくなった。
その癖ひねくれた私には、もうその頃からどうしても
自分の気持ちを率直に表白することができなかった。
女中に兄と二人して手を引かれながら、私達は黙々として
榎木町を突き当たって、江戸川の方へ曲って行った。
いつもなら山の土手を滑りおりたり、
頂の広い草原を駈け回ったりする私達も、この日だけは
草の上に、ぼんやり腰をおろして、
途中で女中の買ってくれたお煎餅やジャミパンを
味もなくボソボソとかじりながら、
赤い夕日が遠く暗い屋並の果に沈んで行くのを
じっといつまでも眺めていた。
恐らくこの時の母の気持ちは、
暫時なりとも小さい子供を陰険な父の前に
曝(さら)させまいと思う親心から、
わざわざ女中までつけていち早く私たちを外へ遊びに出したものだろう。
「その怖いったらなかったわね」
私は一番上の姉と、つい先だって死んだ二番目の姉とがよく笑いながら、
父についてこんな思い出話をしていたのを知っている。
その姉達の話を聞けば、これも決して無理であるとは思えない。
「だから私たち、お父様とどこかへ一緒に行くのとっても嫌だったわ」
おそらくこの姉たちは、私たちより数段の恐ろしさを
身にしみて感じていたに違いない。
(つづく)