あなたとお花と猫とエコと健康

日々思ったこと、見たことなどを書いています。

曽野綾子と「天上の青」

2014-08-08 11:43:44 | 曽野綾子「天上の青」について
私は曽野綾子の小説をほとんど読んでない
(どの作家のも殆ど読んでないが)
で、テレビドラマで「天上の青」をやったので、原作を読みたくなり
文庫本を買って読んだ

話の粗筋はネットでも読めるけど、ごく簡単に
(もう頚椎が痛くなってきた)

実話に基づいた小説で、過去の殺人事件の話
大久保清という男が、若い女性8人を短期間の間に殺害し
逮捕され、死刑になったという話を基に書かれている

何故曽野綾子がこの題材を選んだかというと、
大久保清は死刑判決が下りた後「控訴をしなかった」と知り、
何故控訴をしなかったのか、
殺人鬼にも良心とでもいうものがあったのだろうか?と?
その辺りがこの小説を書こうとした動機だという

で、小説には、実在しない「雪子」というクリスチャンの独身女性を配し
その女性が、というか、その女性との関わりによって、
犯人は控訴しなかった、というストーリーになっている

雪子という女性は縫い物をしながら生計を立てて、ひっそりと生活している女性で
その雪子が庭に植えていた「ヘブンリーブルー」という空色朝顔に目を止めた
殺人犯との交流、愛が描かれている

最後捕まった男が獄中から手紙を出す
「愛していると言ってくれたら、控訴はしない」
つまり、男の生き死にを雪子が決定するかのような内容になっている
考え、苦しみぬいた雪子は「深く愛しました」と書き送り
男は控訴せず、死刑は執行される

愛と言っても、しかと愛し合ったという形ではない
淡々と会い、淡々と話し、そこには静かな時間だけが流れている
言ってみれば、魂の交流とでもいうようなものが二人の間には流れていた

妙に正義感?のある男
時に優しく、時に残酷な行動をする
そして、彼なりの勝手な正義は人の命を奪っていく

実際の大久保清は、性的異常者のような人間であったのかもしれない
しかし、小説ではそのような描写は少なく
あたかも、激情タイプの人間の犯した殺人であるかのように書かれている

読んでいるこちらは、知らず男に同情ではないが、多少の共感を持ち
捜査が身辺に及んでくると、捕まらないで欲しい?みたいな
思ってはいけない心境にならされる

雪子の取った行動は、自分の犯した罪に対し、苦しんで欲しい、というものだったように思う
そして、初めて男は少しでもましな人間になれるかもしれない、という事だろうか?

このドラマを見た視聴者の、何がこのドラマに惹かれるか、という事だが
ネットで検索すると、多くの人達がこのドラマを見て
忘れられないものとして記憶している事だ
何故か、どこが?
私にもわからない

ただ、淡々と静かに生きている山口果林扮する「波多雪子」という女性と
殺人犯である役の、白竜扮する「宇野富士男」の、
本音で語る、浮世と離れた世界に見える真摯な言葉のやり取り
この空間に惹きつけられるのに違いない、とか思うのだけど
ストイックな、自分のポリシーを持って、自分に誠実にあろうと生きる雪子
それに対して、残虐性を見せず、雪子との間に作られた愛とも、何とも言えない感情
時に親に対するかのような面を見せる男
愛には二種類あるという、エロスとアガペ
その後者のような愛情が流れているのではないかと思わせる描写である

そして、そこに現れる空色朝顔(日本名は空色朝顔というヘブンリーブルー)
最後に清められた男の魂が?
この空色朝顔と共に、天上に上っていくのだろうか?
そんな気さえするラストのシーンだけれど
雪子は、こう言ったそうな

>どんな悲しみも怖さもほんとうにしみ通らない人、

他の人のブログを読むと、フーンと思う
自分では全く気づかない事を他の人は感じている(←私はバカかも

>反省もしない富士男を変えようともせず、そのまま受け入れている

んだそうです

蜘蛛の糸なんだそうです、雪子さんは
糸を垂らすだけで、引っ張り上げようとはしない
そして、糸を切らなかったんだそうです
つまり、富士男は天上に上ったんでしょうか?
それを天国とは言いませんが
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

曽野綾子と自己犠牲について [結論]

2014-08-07 09:54:31 | 曽野綾子「天上の青」について
今日も異様に暑く、人災だと思います
昨夜は涼しい風が吹いてきて、少しましでしたが、
朝になると、火傷しそうな日差しです

曽野綾子の自己犠牲について、前から脅迫のようなものを感じていたのですが
それについて、漠然と思っていただけで、しかも
多分、少し私が後ろめたかったから?(私にはできませんから)
真面目に考えた事はなかったのですが、今回調べてみたら
それも、ちょっとだけですが、そのちょっとだけで、
既に「キリスト教の自己犠牲」なるものが出てきて、あれまぁ、と思ったのです

曽野綾子はキリスト教だから、自己犠牲に拘るんですかぁ、、と
じゃ、キリスト教の人はいい人ばかりになるじゃございませんか
でも、違いますよね
じゃ、神父さんだから?
どうなんでしょうね?

ちょっと主人に聞いてみたんです、曽野綾子の自己犠牲について、
そうしたら答えは「あれは、マゾだよ」
ふーーーん、マゾかぁ・・・
で、ネットで「曽野綾子 マゾ」で調べたら、何も出て来ませんでした、はい。

自虐的?
マゾなら、わかります
でも、あの人、その自己犠牲を人に「暗に」強要していませんか?
そうしない人間はダメだ、みたいに
私のような「偉人伝の世界の人」には、それはきついんです
曽野綾子さんは、自分のマゾは構いませんが、それを人に「強要」すると
マゾの押し付け、つまり、「サド」になりませんか?

結論

曽野綾子はマゾだった

主人の言葉で結論を出してしまうのは、何か、みたいですが、
これは、ずっと私も感じていた事です
しかし、ここで比較?に出してみたいのが、遠藤周作とキリスト教
「踏み絵」の話が印象的ですが、これは自分の弱さのために裏切る話ですね
これも、私は詳しく知らないんですが、書物を読んでもいないのですが
確かそういう話です  
転びバテレンの話でしょうか?
そして、遠藤周作は、それを「許される事」として扱っていたように思うのです

曽野綾子の自虐的壮絶な自己犠牲と、それをなし得る人の話
そして、弱さゆえ信仰しているものすら裏切らざるを得ない遠藤周作の話
両方の主題は対極にあります

曽野綾子の方にはキリストは出てこない(ような気がします)
遠藤周作の方には、その弱さを許す「キリスト」が出てくるような気がします

ここで、疑問
キリストは、そのような壮絶な自己犠牲を人に説いたのでしょうか?
又主人で申し訳ないですが、
主人はキリストはそのような自己犠牲を説いていない、と言うのです
マグダラのマリアの話だったか、別のマリアの話だったか
(ちょっと検索してきます)
ありました。マグダラのマリアではなく、「マルタとマリア」の話とかでした

「イエスが彼女らの家を訪れたとき、迎えた姉マルタが接待のことで忙しくしていたのに対し、妹マリアはイエスの語る言葉に聞き入っていた。この姉妹の態度の違いは、伝統的に「活動的生活」と「観想的生活」を表すものであると考えられてきた。教会、とくに修道の伝統のなかでは観想的生活を重視する論述がなされるが、エックハルトは、その説教のなかで、活動的生活を通して神に奉仕するマルタの態度をキリストはよりよいものとして嘉したとする独自の解釈を提出している。また東方教会においては、「観想的生活」と「活動的生活」はそれ自体において優劣をもたないが、マルタはマリアに対する不平を述べた点で誤りをおかしたとする理解もみられる。」

話は逸れますが

>マルタはマリアに対する不平を述べた点で誤りをおかしたとする理解もみられる

これは、ないね
マルタも話を聞きたかったかもしれないのに、すべき事(接待)を優先して(好むと好まざるとに拘らず)やっていたのにね
不平を述べるな、というのなら、マルタも一緒に接待放置して話を聞いたらよかったと思いますよ
当然、「誤り」と「見做された「不平」を言わずに済みましたとさ

「主はお答えになった。『マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。』」

これで、日常生活済むでしょうか?という感じですが。
キリストがこう言ったから、と言って「解釈する人達」は皆マルタを非難がましく言いますが
はてねえ・・・。

>エックハルトは、その説教のなかで、活動的生活を通して神に奉仕するマルタの態度をキリストはよりよいものとして嘉したとする独自の解釈を提出している。

でしょ。
これ、曽野綾子氏得意の「自己犠牲」の話にしてごらんなさいよ
マルタこそが自己犠牲の一種みたいなものではないですか?
それを特に良しとしないキリストが、他の者に自己犠牲を、と言うでしょうか?


「キリスト 自己犠牲」で検索して、ちょっとだけつまんで読んでみました
なるほど、「キリストは自己犠牲によって、人々を救おうとした」
ですが、それを「人にそうしろ」と、キリストが言っていたのか、という事ですが
そういう記述はあるのでしょうか?

さすがに、それを探すのは大変そうで
とにかく、「曽野綾子と自己犠牲」について書いてきて
そのまま放置は良くないと、取り敢えずの結論を出してみようと書いているわけです

例えば「汝の敵を愛せよ」これ=自己犠牲ではないと思いますが
私はあのキリストが人に自己犠牲を説いたとは思えないですけどね

で、ウィキペディアを見ると、自己犠牲はある意味自分の為だとか書いてある
これを間違って解釈すると怖いんですね
つまり「自己犠牲を好きでやっている、自分の為にやっている」
とかいう、ずるっこい解釈をして
「自分が楽になりたい人」の心を満足させてしまう
これはしてはいけない事だと思います
今の一部の若い人(時にはあまり若くない人も)
多分そういう意味では「ずるっこい」のかも

曽野綾子さんが、コルベ神父の事や、その類の事を書けば書くほど
人に強要しているように感じるのはおかしいですか?

コルベ神父の話はとても辛い話です
逆に言ったら、人間の残酷さの裏返しのような気がします
こんな事を起こさせてしまった人間の性悪というか残酷性
何故、あんな事が起きたのか(国家によるユダヤ人大量殺人)
今の日本みたいに、安倍「暴走」を指を咥えて見ている「私達」
又、それに賛同する「人達」みたいなものでしょうかね?

結論 2

曽野綾子氏は、その独自のキリスト教的マゾヒズムを人に押し付けるな

こんなんでどうでしょうか?

で、ヘブンリーブルー「天上の青」の小説とまだ繋がってませんね
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夜中になって、少し涼しくなった

2014-08-04 03:31:28 | 曽野綾子「天上の青」について
ヘブンリーブルー 続き

昔テレビドラマ化したものは、民放のもので、後にNHKでドラマ化したものとは違う
NHKのは、最近BSか何かで見たけれど、酷かった
放送があった時にも、佐藤浩市、桃井かおり主演と知って見なかった
幾らなんでも桃井かおりはないでしょう、と思って
(私は桃井かおりは好きな方だけど、この主役は絶対にダメと思った)

民放のは、山口果林、白竜が主演だった
どちらも、良かった
このドラマで白竜なる人を知った
多分歌手だろうと思ったけれど
決してうまくない演技ながら、独特の魅力を出していた
山口果林は、本より先にドラマを見たせいか、やっぱりはまり役に思えた
本も買って読んだ 新潮文庫

ヘブンリーブルーという名と、山口果林と、白竜と、白鳥英美子
その全てが、一つの色を醸し出していた
それは・・・天上の青



今調べてみた
民放というのは、フジテレビ  1992年放送
白竜は、やはりミュージシャンで、在日韓国人二世

そして、山口果林は後から安部公房の愛人だったと本を出した、
その時はびっくりしたけど、何だかよくわからない
(例えば、吉行淳之介と宮城まり子の時よりは驚かなかったけれど

あのドラマはまるで、非日常の中の一コマのような、
浮世離れした主人公と共にある、心と心の話だった
これが愛と言えるのかどうか、私には分からないしピンと来ない

天上の青は、天上の青だったんだ
だからこそ、幻想的なこの世のものとも思われない色の花なのだろうと思うけれど
その花を題名に持って来た曽野綾子という人は、やっぱり何かあるのかも
もしかして、曽野綾子という人は、一人で自分を叱咤激励している人なのかも?
ちょっと不自然さを感じる部分がある
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする