このまま、人間の弱さと自己犠牲などについての話を続けます
「こうあらねばならない」に疑問を感じてきたのは何年前くらいからだろう
私はもう少しで老人の域に達するらしいけど、
肉体と精神は見事に調和せず、頭の(心の)中は、未成熟らしい
けれど、成熟した大人がどれくらいいるだろうかと思うと
それも昨今いささか疑問に思うけど
私は団塊の世代よりは少し下だけど、ほぼその辺の年齢でって
この辺りで肩が痛くなって書けない、やっぱ年です
又後で
13:50
少し痛みが減った所で再開
あちこちに話が飛んでいるので、長々キーボードを打っていると
頚椎症が悪化するので、簡潔に
いきなり結論
自己犠牲について
まず、人は平等である
あなたも、私も同等の位置にある
ただし、生まれ持った能力は同じではない
性格・頭脳・才能、能力・体力・健康等など
で?(又長くなりそう、の説明癖
例えば能力の優れた者は、劣った者をカバーする必要性があるか
必要性という言葉がおかしければ、義務?
例えば包容力について、狭量な者の冷酷さを包容力のある者がカバーすべきか
責めるべきではないか、許すべきことか、指導すべきか
コルベ神父の場合、自分の身を投げ出し、代わりに人一人の命を救った
この場合、「自己犠牲すべきである」と信じている者にしたら
コルベ神父の行いは崇高なもので、真似できることではなく
その勇気は賞賛されるべきである
では?それの出来ない者は、己の不甲斐なさを恥じ入るべきなのか
同じ行為を勧められるのか?責められるのか?
では、逆の立場に立って考えると、コルベ神父が反対側にいた人間であったとしたら
身代わりを申し出た人物に対して、有難うと言って代わりに死んでもらうのだろうか?
神父という特殊な職業だからこその考え方で、逆の立場であったなら
身代わりの申し出を有難く気持ちだけ受けて、自分が死んだのだろう
では、自己犠牲とは何なのだ?
身代わりに生きた人はずるいのか?人の犠牲の元に生き延びたと言われるのか?
はい、書いていて大混乱
つまり、コルベ神父の場合、身代わりになった人よりも
コルベ神父は、自己犠牲においてより強くあらねばならない
人の命は同じだ、平等だ
では、何故コルベ神父は、身代わりとなって死んだのか
ここで、命は平等ではない、という思いが生じる
あるいは、命ではなくその人の考える「こうあらねばならない」の基準
私は以前、このコルベ神父の自己犠牲に対して、絶対に自分は死の恐怖から
人の身代わりを申し出るなどという事はできないから、
自分はそういう、「卑怯で情けない人間だ」と思っていた
果たしてそうだろうか、といつからか思うようになった
「自分は相手よりも崇高である、だから相手の立場を慮って自分を犠牲にしよう」
この考え方は、そう思っているのではなかろうか、と思うようになった
自分は相手よりも上の心にある?
言葉によっては汚くなってしまうので、言葉が中々見つからないけれど
少なくとも同じとは思えない
皆命は惜しい
生きたいというように、動物は作られている
そうでないと、種が絶えてしまうからではないか、と最近思っているけれど
で?
遠藤周作の「踏み絵」の話
弱さによる裏切りの話
つまり、強さと弱さを、人の心を計る?
偉人伝の人である私は、自己犠牲の究極まで出来ない自分をダメな人と思っていた
私は強くはなく、場合によっては卑怯な事もする人間だと知っている
できる限りそういう事はしたくないけれど、
で、これら曽野綾子先生の究極の自己犠牲話が、どうもカチンと来るのである
この話を度々する曽野綾子先生の意図や如何に?なのである