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あなたとお花と猫とエコと健康

日々思ったこと、見たことなどを書いています。

宗教と難行苦行の関係

2014-08-16 17:29:02 | 自己犠牲について
日本にもありますね、体力が修行の上位を保つ、とかいうのが

千日回峰行

あと、怖いのが即身仏
私の家は真言宗だと聞きましたが、空海は即身成仏だと聞いて
あの恐ろしい、生きたまま土中に、というのかとぞっとしましたが
あれは「即身仏」というそうで、空海は違うそうです(よかった

修行とか、精進とか、聖人とか
身体を痛めつける事が、その人の尊さになるんでしょうか?
だったら、体育系の人の勝ちだな、とか思ってしまいました
千日回峰行とかいうの、身体の弱い人や、運動の苦手な人はダメだから
じゃ、精神と肉体の強弱を運動能力や耐久力で計るのか、とかずっと思っています

確かに気の弱い、身体の弱い人は、他者を助けるのには不向きですが
そういう面だけではないでしょう、人を救う能力って
日本の仏教も似たりの部分があるという事ですね
そういう目に見えたものでしか計れないという事なんでしょうか?

だから、キリスト教の自虐的精神も似た側面があるというか
もっと凄いというか、
宗教って何でしょうか?

私の好きな花の一つ 
山茶花(サザンカ)の花です
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聖人と自己犠牲とキリスト教と、

2014-08-16 15:37:20 | 自己犠牲について
ルルドの泉の話を読んできました。
その他も少々

結局、聖人と自己犠牲は繋がりますね
で、普通のキリスト教徒は聖人ではないから、特別な自己犠牲をする事はない?

シエナのカタリナ、リマのローザ、、、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%9E%E3%81%AE%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%B6

「聖シエナのカタリナを見習い、彼女は秘密の苦行の一つとして週に三度の断食をしていた。彼女は家族と友人の反対を押し切り、髪を切り落とした。両親の非難から、ローサはコショウとアルカリ液で顔を醜くするため傷つけた。ローサは美しく、他者を助けるために自分を傷つけたことから、とても体の具合が悪くなった。 ローサは幻視、天啓、天恵、そして声を、彼女の両親が懺悔のしきたりを以前以上に嘆き悲しむよう、話し始めた。」

何が何だかわかりません。
自分への虐待みたいに見えます。
一体どうなっているのか、皆目わかりません。
これって、緩慢な自殺行為と違いますか。

何故、こんな行為を続け、それが聖人であると認定されるのか、全く理解に苦しみます。
北原怜子さんの自虐的とも思える献身度合いとか、思えば
これらの聖人達の行為に似たり、という事になりますね
断食云々の話に至れば、ノイローゼか精神疾患ではないかとさえ思われますが

ルルドの泉の話は本当らしいですが、聖母マリアと会った少女は
後にシスターになり、35才の若さで亡くなっています
持病の喘息が悪化したらしいのですが、何でルルドの泉を飲まなかったのか、と
ごく素朴な疑問が生じましたが、それについて書かれた文章を見ました
騒がれるのが嫌いなその女性は、他の場所に救いを求め?
ルルドには行かなかったそうです
しかも、その遺体は腐敗せずに、そのままの形で残っているとか
だんだんわけのわからない事を見聞きして、気味が悪くなってきて
こんなに悲惨な歴史のあるのが宗教なんですか?と
ため息が出ました

だから、キリスト教が自己犠牲を尊いとしている事と
キリスト自身が信者に自己犠牲を勧めてはいないであろう事と
過酷なまでの自己犠牲を伴った聖人と呼ばれる人が多くいた事と
北原怜子さんと、コルベ神父と、その他色々な聖人達と

曽野綾子氏がマゾ的思考形態を有する事と無関係ではないな、と
で、これらの事を考え合わせると、私、門外漢と致しましては
もう、「畏れ多い」のでありまして、滅多な結論は出さない方がいい、という
結論になりました。

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日本の聖人、というのを見たら、秀吉に磔の刑にされ殺された人達
中には10代半ばの子も
何て秀吉は酷いのか、と調べたら、今度はイエズス会の人身売買の話
日本人を捕まえて奴隷にする為
一体どっちが悪いのかわからないではありませんか
(当然磔の刑に処された人達は無関係ですが、いい迷惑の殺人事件です)

この上もう、何が何やらわかりませんようになりました。
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コルベ神父へのマリア様の啓示

2014-08-15 12:48:06 | 自己犠牲について
こんな不思議な話が書いてありました
--------------------------------------------------
1894年、ポーランドの貧しい織物職人の家に、コルベ神父は生まれました。神父は殉教する自分の運命を、幼少の頃から悟っていたようです。活発でわんぱくだったコルベ少年が、ある日、お母さんにしかられて教会で祈っていると、聖母マリアの幻が現れたのです。

聖母は手に赤と白のふたつの冠を持っていました。そして少年を優しく見つめ、「白は清い心、赤は信仰のために殉教することを意味しています。あなたはどちらの冠が欲しいですか?」と尋ねるのでした。
   
「両方欲しいです」と少年が答えると、聖母は優しく微笑んで姿を消しました。

多感なコルベ少年の魂に、この体験は鮮烈な影を落としたことでしょう。それ以来、コルベ少年のわんぱくぶりは、影をひそめてしまいます。そして聖母の選びにあずかった者としての運命を、歩み始めるのです。
-----------------------------------------------------
選ばれた人だったのでしょうか?
そう言えば、ジャンヌダルクとかルルドの泉とか、他にも多くキリスト教には
神の啓示を受けた人がいますね

何故、仏教にはそれがないのでしょうか?
仏様から何々をせよ、とかいう啓示はあまり聞いた事がない
あの、病人の膿を吸い出した皇后の話

>仏教の庇護者としてさまざまな伝説も伝えられており、光明皇后が、重症の癩病(らいびょう。ハンセン病)患者の膿をみずから吸ったところ、その病人が阿閦如来であったという話はよく知られている。

には、仏が病人の姿に変えて出てきた、というのはありますね
ですが、仏教には仏様が出てきて仏教の為に殉教せよ云々とかいう話は少ない
どちらかというと、慈悲深い仏様は衆生を助けてくれる、とかいうのですね

親鸞が聖徳太子の姿を見たというのは、有名な話だそうですが、
そう言えば「蕎麦食い地蔵」も親鸞の話でした
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キリスト教と自己犠牲について 最終編

2014-08-15 12:33:19 | 自己犠牲について
大体の事がわかってきたし、だんだん疲れてきたし
問題は亡くなった方、殉教した方の事を鑑みるに、
だから、どうなのか、と言えない感じがします
一般論として、の考察なら、何とか締め括りとしてできますか、、

まず、その大前提として、キリストは、その信者達に

「究極の愛として、自己犠牲を行いなさい」

と言ったのか否か。
私が調べた結果 キリストは、その信者たちに

「自己犠牲を行いなさい」とは言っていなかった

では、殉教とは何なのか?

>宗教的迫害において命を奪われた場合や、棄教を強制され、それに応じないで死を選ぶ場合など、様々な形の殉教がある。

コルベ神父も殉教ですが、違う意味合いの殉教なんでしょう
何せ難しくて、又色々調べなくてはならないのには疲れました
「列福」という文字もありますし。
今北原怜子さんは「列福」の申請がなされているそうです
それには「奇跡を起こした事実」が必要なんだそうですが、
超能力がないと聖人にはなれないようです

又話が逸れましたが、つまり、この「殉教」された方々は
「普通の信者」ではなく、向こう側(聖人)の人達なんでしょうか?

キリストの言う言葉や行いから推察するに、
キリストは皆を救う為に命を落とされた
だから、キリスト(救世主)ではない他の人達は
キリストと同じにならなくてもいいのではありませんか?

ここで又他の事を思い出し
「聖フランチェスコ」です
映画「ブラザーサン・シスタームーン」のあの人です
貧しく貧しく生きながら、自然を愛し、動物を愛し、宣教し
そして、亡くなっていった「聖人」です

もう、私のようなやわな人間は書いているだけで疲れてきています
一体何でキリスト教の人達は、究極の自己犠牲をするんでしょうかね

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他の人のブログを見て、

2014-08-15 11:02:38 | 自己犠牲について
8月9日に「人気ブログランキング」というのに、
無茶苦茶にいじりながら登録できたけど、
(そのせいで一行開けでしか書けなくなってとても困ってますが、
今日はどういうわけか、一行開けから解放されてますね・・)

ランキングを見ながら他の人のブログを少し読んでみました。
私のブログは、6年ぶりの再開なんですが、
放置状態のブログも結構あって、それがランキング上位にあったり
全く、このランキングなるものの位置がわかりません。
私のブログの昨日の訪問者数は9人ですが、それで574人中141位とかになっていて
何でこんなに訪問者数が少なくて、ランクが上位なのよ???と
皆目理解できません。
まして訪問者数の中に自分が見たのもカウントされるそうで、
だとすると、訪問者って一体何人?という感じですよ
機械の巡回を入れたら、2人か3人だったりして。。
それで、574人中141位だったら、ブログって何人他の人のは読まれている?
一体更新率はどれくらい?って話になります

少し他の人のを読んでみたのですが、色々で、中断しているのも多いけど
独身の男の人がお母さんの介護を必死でやっていたり
猫との二人暮らしで、私と同じ位の年齢で身体があちこち心配で、とか
私も幾つか病名(持病)を持っていますが、
何だか・・・感想も、色んな人が一生(所)懸命生きているんだなあ・・、とか

で、昨夜北原怜子さん関連のユーチューブにたまたま行き当たりました
「いつも笑顔を絶やさず、怒った所を見た事がない」人だそうです
アリの町の主要人物の顔も名前も性格も出てきました
その中で、北原怜子さんは、やはり聖女のような方でした
自分に厳しく、他人に優しく、信念を頑なに曲げず、己の自省を常にし
って、今の人達とは正反対みたいですが

最近の「自己弁護」「自己保身」「反省の皆無」
又妙な「自己責任論」がはびこり、全てを他人になすりつける
つまり、悪くない人に向かって「自己責任論」を称える
卑怯な世の中になってきている
人間が弱くなってきている

「正直者が馬鹿を見る」
昔の言葉ですから、昔からそうだったんでしょうかね?
その割合が変化しただけ?
さぁ、
子供に偉人伝の伝記物語を読ませるか
偉人のあからさまな問題人格をそのまま伝記にして読ませるか

前から思っていたのですが、子供には夢を与えるべきか
それとも、人の醜さ・弱さを最初に教え込んでしまった方がいいのか
これ、どうなんでしょう?

無駄な期間をなくすという意味で「人間はこんなもんだ」って
子供のうちから知らせた方がいいのか、どうなのか
大多数の人間は、こうであって、その中にとんでもなくいい人間もいる、と言うべきなのか?
最初に本当の事を教えるべきなのか、否か

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自己犠牲を行った、キリスト教信者の人達、を書くはずが・・・

2014-08-14 11:28:32 | 自己犠牲について

痛々しい位の自己犠牲を行った信者の人達の信仰 私はキリスト教徒ではない、

だからこんな事が書けるのかも知れなくて、

キリスト教の人達にとって、大変不遜な事を書き連ねているのかも知れないと思いつつ

キュリー夫人が事故で亡くなった夫ピエールの、

血に染まった衣類をタンスの中にずっとしまっていた話

その気持ちは当然わかりますが、それを知った時は 何だかわかりませんが、

キュリー夫人のイメージと違うと思いました

ま、突然関係のない話のようですが、人間としての姿ですね 偉大な化学者としてではなく

本当に何にも関係のない話ではありますが

野口英世は、女関係が色々とかいう話もあり、と調べてみたら

女関係ばかりではなく、放蕩、借金を重ね浪費癖、普通の感じではなかったです

石川啄木に似てます

話が逸れて、何を書きたいかわからなくなってしまったですが、

一つ、言えることは偉人伝、伝記ものの子供向けのものについて 私達は

「偉い人、いい人を手本にして、いい人間になりましょう」と騙されて来たという事です

石川啄木の淫乱日記?

奥さんはまさかローマ字でとんでもない事が書かれていたとは露知らず

旦那の淫乱日記を公に後世に残るものにしてしまった

でも、それ以外にも親友の金田一京助を散々悩ませ、振り回してきた事実もありますが

24才、じっと手を見る、の作者の淫乱日記には呆れ果て

うんざりした事だけは事実だし、悲しげな歌の裏に潜む自堕落な性格

まるで二重人格みたいで、いい加減にして下さいと言いたくなる

まぁ、天才とはおかしな人を言うのかも知れないが、

まともに取り合っていたら腹が立つ、とも言えましょう

それに引き換え?殉職者、キリスト教の彼らの、何という自己犠牲の精神?

やっと本題に入ってきた?

ただ、ここまで検証してきた結果と、彼らの殉教とを重ねると

何を言っていいのだろうという思いになる

思ったままを言ったら、冒涜にもなりそうな気がして、ちょっと書きづらいですね

午後の朝顔 青が変色して紫や赤がかってきている

そして、夕方には赤に・・今日は雨なのでしぼみません

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「イエスは自己犠牲をもって、隣人を愛しなさいとは教えていません。」

2014-08-13 15:28:26 | 自己犠牲について

命題

キリストは、人々に「自己犠牲をせよ」と言ったのか?

ヨハネ福音書15章13の、「人がその友のためにいのちを捨てる」

と、いう意味は、キリスト自身が行なった事についての話です

では、多く言われているキリスト教の「自己犠牲精神」について

私はその疑問の答えを見つけるべくネットで探してみました

明確に書かれているものは中々見つからず、「キリストの自己犠牲は」というもので

そこでその話は終わっていました

今日見つけたのは、クリスチャンの学校でのキリストの教えを生徒たちに話している牧師のものでした

「イエスは自己犠牲をもって、隣人を愛しなさいとは教えていません。」

やっぱり、そうだったんです。

キリストは自己犠牲をせよと言ってなかった

私の想像通りでした

キリストの言っている内容からして、ずっと疑問に思うことは

キリストの柔らかな心だったような気がします

厳格な戒律とやらは、後世の人間が作り上げたもの?

あるいはその弟子達が、自分の意志を反映させて作ったもの?

キリストの行為や、その多くの言葉の端々からは、キリストの人となりが少しばかりわかってきます

人に自己犠牲を強いるとは思えなかったんですよ、キリストが

少しすっきりしました

左腕がジンジン痺れてきます

これから、首を引っ張りに行ってきます

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自己犠牲とキリスト教について、

2014-08-12 17:30:37 | 自己犠牲について

キリスト、自己犠牲、愛、と

キリストの自己犠牲は愛なんだそうだ、究極の愛は自己犠牲

これが納得の行かない私は色々検索してみると、「納得が行かない」人が多くあり

そんな事を言われてはたまらん、という感じの書き込みだ

そうあからさまに書いているわけではないが、本音はそうだ

納得が行かない、そんなものできるわけがない、

又自己犠牲が愛だ等と言われた日には、愛とはそんなに辛いものなのか、と書いている人もいる

 

今日、宗教に興味を持って、色々本を読んでいる友人から電話があったので

ついでに聞いてみた

そうしたら、キリストそのものの存在すら、今のヨーロッパでは疑念が生じているという

まして、その「言った言葉」の信憑性などわかろうはずもない、と

ただ、「砂漠の民」であるキリストが、当時の厳しい状況下から

戒律を厳しく、教えを厳しくせざるを得ない背景があった、と

温暖な気候のアジアの宗教である仏教との成り立ちの違い、風土、環境の違い

そういったものを考えに入れて考えないといけない、と

 

遠藤周作の書いた「人間キリスト」や「沈黙」という小説を読めば

キリスト教の厳しさや、キリストの人間的な部分もわかろうかと

又、マグダラのマリアとの婚姻説もあるという

確か、数年前の映画にそういった内容のものがあったような気もする

「曽野綾子はおかしいですよ」とか言われた

主人は「あれはマゾだ」と言うし・・・

 夕顔

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ゼノ修道士と北原怜子さん 続き

2014-08-11 11:10:42 | 自己犠牲について

北原怜子さん 1929年8月22日生まれ

1949年11月1日 洗礼を受ける (20才 修道女になろうとした北原は肺結核になり、断念

1950年に浅草にある姉の家に転居した際に、“ゼノ神父”ことゼノ・ゼブロスキー修道士(コンベンツァル聖フランシスコ修道会)と知り合う (21才

・・ゼノ修道士は北原怜子さんが着物の帯にロザリオを留めていたのを見て声をかけ、その後会うごとに蟻の町の子どもたちの話をし、北原怜子さん自身何かに導かれるように、廃品回収(バタ屋と呼ばれる)の集落へと引き寄せられていった。

結果、修道女生活よりも過酷であった奉仕活動に身を捧げる事となった?

この経緯は、運命とも言えるものかもしれないなぁ、とも思えてくる

・・ゼノ修道士は、北原を自宅まで送って行くと皆に告げ、彼女を連れ出した。それはゼノ修道士が北原に、帰りの道すがら、土砂降りの雨の中を蟻の街の横からバ タヤの人々などが暮らす集落を見せるためであった。その時の印象を北原は、日本の首都の真中と信じることができなかったと自書に書いている[8]

・・自宅に戻った北原は送ってきたゼノ修道士をそのまま自宅に招いた。ゼノ修道士はいつも持ち歩く貧困者に関する新聞報道、写真、手紙等の資料を北原に見せ、貧困者たちの惨状を熱く語った。 そして暇があったらこのような貧困者たちを慰問して欲しいと言い残して帰宅した

ゼノ修道士は、北原怜子が肺結核を患った事を知っていなかったのかも知れない?

そして、アリの町というものも、幾人かの人物が関わっており、

それらの人間の思いとその人達のキリスト教への不信感、

北原の健康状態の事、マスコミとの関連、敷地の問題等など

北原怜子さんは、それらに巻き込まれ、自身は清廉潔白なキリスト教徒であろうと孤軍奮闘し

しかも、自分が命をかけて行おうとした事が、他の人でも代わりができると知った挫折感

自分がやらねば、と命をかけてきた事への虚しさ、と、その自分自身の中にあった驕り?に気付き

これは、複雑な問題で一刀両断に何かを結論付ける事は無理そうです

言える事は、事は全て北原怜子さんに取って、死への向かう道筋がつけられていたという事かも

やっぱり「こうあらねばならない」と突っ走った北原怜子さんの

自分の身体を顧みない奉仕活動が、死という悲劇を招いてしまった

そして、そこに至るまでの周りの人達も、それぞれにその立場では必死だったのかも知れない

ですが、やはり度を超した自己犠牲は、何とも痛ましく、心が痛みます

そして、何故度を超した自己犠牲へまで行かなければならなかったのか、

そこに他者との行き違い、みたいな物が含まれていたのです

追い込んだ方には、追い込んだという意識はない(アリの町の人の一人です)

受けた方は真剣に考え、より良くあろうと身にそぐわない無理をした

ところが、無理に無理を重ねた自己犠牲は、ある意味空回りでもあったわけで

その事に気づいた北原さんは、大変辛かっただろうと思います

でも、彼女はそれを自分の「傲慢」と取り、尚自己反省の糧としてしまった

キリスト教徒って、そんなに清廉潔白でなければいけないのですかね?

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ゼノ修道士と北原怜子さんについて 再び

2014-08-10 20:27:04 | 自己犠牲について

どうも引っかかってならないので、再度検索して色々読んでみています
それは何故か?
北原怜子さん、享年28才、ゼノ修道士享年90才
随分生きた時間が違います

ゼノ修道士が北原怜子さんと出会っていなければ、
等と思ってしまうのです
そして、ゼノ修道士と北原怜子さんについての記事、というか書き込みは
その殆どの人がキリスト教の人か、 あるいは褒め称える人のものであって
昔の私ならそうしたでしょうが、今の私にはそれはできません
私にとって、この話は今では「美談」ではなくなっているからです

私もどちらかというと、北原怜子さんの側に近いタイプかも知れません
私が救おうとしてきたのは、「猫」なんですが、今は体を壊して何もできません
出来ない事を大変残念だとは思っていませんが
どちらかというと「ナイチンゲール」タイプの私が、北原怜子さんの事について
何故か今気にかかり(単に曽野綾子から派生した話なんですけど)
その自己犠牲に対して疑問を生じているという事なのです

そして、アリの町の人の話と、北原怜子さんの心境などを考え合わせると
単純な美談の話で済むのだろうか、とか思ってしまいます
そんな事をいう事に少々の罪悪感を覚えながら

命をかけて人を助けようとし、志半ばで夭折した心清らかな娘さんの話ではあるのですが

困りましたね

どなたか、感想なり、ご批判なり、書いていただけないでしょうか? 私は不遜な事を書いたりしているのか、どうか、等と

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>「自己犠牲」は尊い行いではありません。

2014-08-08 15:04:00 | 自己犠牲について
ちょっと検索したら、私のアホな頭を補強してくれそうな書き込みを見つけました
どうぞ、これで理解して下さいとでも、言いましょうか?

以下引用です

---------------------------------------------
私には、他者に対して「自己犠牲は尊い」と言うことは、
 「あんた、私のために自殺なさい(罪も犠牲も負いなさい)」
と言うのと同じで、「タダ乗り」を目論んだ卑しい行いに思えるのです。

ですから、私は自己犠牲を称揚するキリスト教を信仰しないのです。

ある日、私は以下の言葉に出会いました。

  「姦淫するな、殺すな、盗むな、貪るな」など
  いかなる戒めがあろうとも、つまりは
  「汝が汝を愛するように汝の隣人を愛せよ」
  ということなのである。
 新約聖書 ローマ人への手紙13章9節

要するに、「愛」はあらゆる律法を果たす、ということです。

そして、「自己」と「他者」の尊さは等価だ、ということです。

もっと言えば、「他者」を犠牲にすることが、「罪」ならば、
「自己」を犠牲にすることも、やはり「罪」ということです。

「自己犠牲」は尊い行いではありません。

----------------------------------------------
きっと、私が感じた理不尽さは上記のような事ではないかと思うのです
私自身が論理的に物を考えることができない人間で、常に直感頼りなのですが、
自分では「こうだ」と思っても、それを人に説明する事ができないのです

そうです。上記の文は非常に分かりやすいです
私が言っている「命は同じ」つまり、平等のはずなのに
何故一方が犠牲にならなければならないのか、しかも崇高の名のもとに
自己犠牲の名のもとに、キリストの名のもとに、なのです

北原怜子さんには申し訳ないかと思いますが、思ったままを書かせていただきます
何故、人には命を落とすほどに動いたにも拘らず
どうして、自分には優しくなかったのですか?という事ですね
これは、等しい命の扱いではありません
そして、その為に命を落とし、ご両親、姉妹、その他知る人達を
どれほどの悲しみに陥らせたのか、そう思います
お父さんはその後本を出されたようですが、ご両親の心痛はいかばかりかと思います
自分の信念に基づいた行為、人を助ける、その為に
大変辛い思いをされたご家族がいるわけです
どうなんでしょうね
純粋だった、時代のせいだ、とも言えるでしょうが
ご家族を悲しませないという事も、大変大切な事です
どうなんでしょうね

キリストは、皆を救う為に十字架にかけられた
しかし、それと同じ行為を人に求めてはいない
人を愛するように、自分を愛せ
自分を愛するように、人を愛せ、と説いた
です

と、言うことで、他の人の言葉で明快な結論を出させていただきまして
何気にすっきり致しました。はい。
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曽野綾子と、天上の青と、自己犠牲 アリの町のマリア

2014-08-08 13:44:40 | 自己犠牲について
天上の青と、自己犠牲の話に特に関連はなかったみたいですね
共通点は、いずれもキリスト教ですが、
天上の青については、自己犠牲のコルベ神父のような
壮絶、悲惨な自己犠牲の話はないし、キリスト教というだけで、
これらを繋げようとする事には無理がありそうです

単に連想しただけかも
天上の青ーー曽野綾子ーーコルベ神父、と

で、コルベ神父について検索していったら、思い出された名前がありました
アリの町のマリア、とゼノ修道士
そして、マリアこと、北原怜子(さとこ)さん
今回初めてその画像をみました
イメージとはちょっと違う面長の顔の人でした

ウーン、という感じでしたね
天上の青の話が終わらないのに、又話が逸れてますが
天上の青の桃井かおりの酷さを書きたかったんです
つまり、脚本というか演出というか、本来の小説の本題を
正反対みたいにめちゃくちゃにしてくれたテレビドラマで、
もう、どうしてくれるんだい!レベルのドラマでした
こんなん作るなアホ!!!と思います
こんなクソドラマが、NHKが作った芸術祭参加作品というだけで
賞をもらうなんて、選考委員も相当のアホですね

で、アリの町のマリアですが、この人が曽野綾子真っ青のキリスト信者?
つまり、自己犠牲の権化と化しています
この人が裕福な家庭に育ち、バタヤ?の人達に施しものを与えて?
そうしたら「偽善」だと疎まれて?だったら、一緒に住もうじゃないのって?

私、最近偽善という言葉が嫌いになったのです
最近ではなく何年も前からかも知れません
偽善という言葉自体が傲慢な気がするわけです
そして、このアリの町のマリアさんを非難したその町の人
高見からの施しものだって?
フーン、そういう風に攻撃する人こそ、酷くないですか?
自分を責めて責めて責めまくり体質の彼女を責めて
彼女はボロボロになって、死んでしまいました
凄くないですか?
やる方もやられる方も

偽善だろうが何だろうが、人助けになればいい
私はそう思っています、今ではね
昔は、私もそれに近かったです
「偉人伝の世界の人」でしたから
でも、それって傲慢じゃないかとある頃から思い始めたのです
自己犠牲と同じです
自分だけは、・・・。ですよ。
「他の人がどうあろうと、自分だけは清廉潔白であらねばならない」、という「傲慢」です

自分でできる範囲でも、人助けをしたいと思えばやればいいじゃないですか?
何で死ぬまで命を削ってそこまでやる必要があるんですか?
助けられている方に、何で非難をする権利がありますか?
酷くないですか?
彼女が裕福な家に生まれたのは、彼女の選択ではありません
同時に貧しく生まれた人も同じです
そして、何故全く同じにならなければ、助けた事にならないんですか?
おかしいじゃないですか
酷いですよ、人の良さに付け込んでとことんいじるなんて
そうです、心を秤にかけて、その人を試し、体の弱い人を死に追いやった
そうじゃないですかね?

私は子供の頃、図書館で絵入りのアリの町のマリアを読んだんです
かすかな記憶ですが、児童向けでした
その時は、心の綺麗な人がいるもんだ、可哀想に、と素直に思いました
それにネーミングがきれいじゃないですか「アリの町のマリア」って
一種憧れにちかい感情を持ちました。心のきれいな優しいお姉さんだろうと。

今調べて読んだら、可哀想ですね
もう大学生位で肺結核を発症しているじゃないですか
貧民救済になる以前に、もう病んでいたんですね
その彼女をやるだけやらせた人達って、何だろうと思います

ここでもコルベ神父の時と同じような感情を持ちました
この人とこの人(助ける側と助けられる側)は、決して平等ではない、と
何故、助ける側はここまで自分を痛めつけ、
人のために命を落とすほど頑張らなければならないんですか?
それがその人の性(さが)だから、好きでやったんでしょう、とは言わないで下さい
おかしいです
「正直者が馬鹿を見る」みたいな言葉はこんな時に使うのでしょうか?
逆差別みたいなものではないですか?

昨日も検索していたら、画像があって、その人達(外国の人)
どうやらキリスト教の「聖人」らしいんですね
思うに、キリストはそういう自己犠牲を人にせよと言ったんですかね?
言ってないんじゃないですか?
後世の人がそういう風にキリスト教を変えていったんじゃないですかね?
人に聖人になれと、キリストが言ったとは思えないんですけど
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今日の頚椎と、曽野綾子編

2014-08-05 14:29:57 | 自己犠牲について
昨日牽引に行って来て、昨日はやや痛かった
今日は朝起きて、頭痛と肩痛と両方あったけど、今は軽快している
どうも、パソコン病とも呼ばれる頚椎症に、
このブログの書き込みがよくないみたいです。
しばらく、キーボードは殆ど打ってなかったけど、
ブログは結構推敲したりして打ちますね。
ほら、急に痺れてきたし

曽野綾子さん
「曽野綾子 自己犠牲」で検索してみたら出ますね
キリスト教の性悪説から来ているとか
本来人間はずるくて卑怯な生き物だから、その性根を変えねばいけない
そういうのが、キリスト教なの?
私は何も知りませんが
その中にこんな記述があった
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もう、ずっとずっと前に曽野綾子さんのエッセイを読みました。
その中に、まだ御主人と結婚される前に、
数人で電車(地下鉄だったかも?)に乗られた時、
戦後まなしだったので、窓ガラスが割れたままで
寒い風が入る席が空いていたそうです。
曽野綾子さんは他の人が寒いだろうと、
あえて、その席に自分が座る事を択ばれました。
そうして、ご主人になる方と、2人になった時、
その方が仰ったそうです。

「きみは自分が寒い思いをすればいいと思ったけど、
きみをその席に座らせている間、周りの者はずっと
申し訳なく思っていた。」と、

それを聞いて、曽野綾子さんはクリスチャンで自己犠牲を当たり前の様に受け入れてきたけれど、
それは周りの人の気持ちに負担を与え続けていたのかもと、初めて気づく事が出来た。
それを初めて気づかせてくれた人が今の旦那様だった。
----------------------------------------
いかにもというエピソードだなぁ、と思った
これをずっと本の中でやってるんじゃないかという話
自分がどう思おうと勝手だけれど、これ、たまらんですよ、という感じ
コルベ神父の話を何度もするのは何故?
今の人達(若い?)にとっては、実に無駄な話かも知れないとは思うけれど
私達の年代、あるいはその近辺の人には、プレッシャー満載にも思えるけど
今の若い人達の呆れるほどのおかしな感覚には、
こんな話はせせら笑う代物かも知れないが

逆に言うと、今の若い人?そのあまりにも身勝手な
無理やり自己責任風の考え方は、非常に不快ですが
かと言って、曽野綾子先生の自己犠牲話は、それも辛いものがある
私が思うには、自己犠牲というものが、選民意識になっていはしないか、という話
自分だけが清くなければならない
自分だけが潔くあらねばならない

これって、もしかして自分は・・・何者なんでしょうか、という話
私もそれに気づいて、おかしな話はおかしな話だと
そう思うようになってきた
私は聖人君子ではない
なのに、何故自分だけがいつも正しくあらねばならないのか
自分だけは清廉潔白であらねばならないのか
そして、他の人にはこちらの寛容さを出さなければならないのか
何故だ?
それは、自分が特別な人間なんだからか?
自分だけは、汚くずるくあってはならないのか

言い方はどうにも変だけど、こんな書き方しか出来ないのは
頭が今一立派(頭脳明晰)ではなく、纏まらないからだとは思うけど。

そういう事なんです
三浦朱門という人は、男の頭で奥さんにアドバイスをした
「独りよがりの自己犠牲」というものについて

それと似たようで、反対の経験をした事がある
短大に行っていた頃の事
あまり好きではない短大だったけど(高校の時、全く勉強しなかった)
その教室があまりに散らかっていた為、授業が終わった後何となく
下に落ちていた「ゴミ」を少し拾っていた
何気にその散らかりが情けなくなったからなんだけど
そうしたら、傍にいた同級生?名前もよく知らない
私の行動を何気に咎め立てするような事を言った
つまり「いいこぶりっ子」であるかのような
ん?と思った
私はいいこぶりっ子で拾っていたわけではなく、物を学ぶ場にしては
あまりに情けないと思っただけなのだけど
その時の事が未だ忘れられない
あの人の心境って何だろう、という事

そこでゴミを拾われると何が困るんだろう?
何が不快なんだろう?
考えてみて下さい
意味、私にはすぐにわかりましたが

もう、肩が痛くなって限界


今頃、やっとヘブンリーブルーの芽が出て、双葉です
これから育って花が咲くまで大変・・・
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自己犠牲について ブログのタイトルと話が違ってますが、

2014-08-04 12:55:18 | 自己犠牲について
このまま、人間の弱さと自己犠牲などについての話を続けます

「こうあらねばならない」に疑問を感じてきたのは何年前くらいからだろう
私はもう少しで老人の域に達するらしいけど、
肉体と精神は見事に調和せず、頭の(心の)中は、未成熟らしい
けれど、成熟した大人がどれくらいいるだろうかと思うと
それも昨今いささか疑問に思うけど
私は団塊の世代よりは少し下だけど、ほぼその辺の年齢でって
この辺りで肩が痛くなって書けない、やっぱ年です
又後で

13:50
少し痛みが減った所で再開
あちこちに話が飛んでいるので、長々キーボードを打っていると
頚椎症が悪化するので、簡潔に

いきなり結論
自己犠牲について
まず、人は平等である
あなたも、私も同等の位置にある
ただし、生まれ持った能力は同じではない
性格・頭脳・才能、能力・体力・健康等など
で?(又長くなりそう、の説明癖

例えば能力の優れた者は、劣った者をカバーする必要性があるか
必要性という言葉がおかしければ、義務?
例えば包容力について、狭量な者の冷酷さを包容力のある者がカバーすべきか
責めるべきではないか、許すべきことか、指導すべきか

コルベ神父の場合、自分の身を投げ出し、代わりに人一人の命を救った
この場合、「自己犠牲すべきである」と信じている者にしたら
コルベ神父の行いは崇高なもので、真似できることではなく
その勇気は賞賛されるべきである
では?それの出来ない者は、己の不甲斐なさを恥じ入るべきなのか
同じ行為を勧められるのか?責められるのか?
では、逆の立場に立って考えると、コルベ神父が反対側にいた人間であったとしたら
身代わりを申し出た人物に対して、有難うと言って代わりに死んでもらうのだろうか?
神父という特殊な職業だからこその考え方で、逆の立場であったなら
身代わりの申し出を有難く気持ちだけ受けて、自分が死んだのだろう
では、自己犠牲とは何なのだ?
身代わりに生きた人はずるいのか?人の犠牲の元に生き延びたと言われるのか?

はい、書いていて大混乱

つまり、コルベ神父の場合、身代わりになった人よりも
コルベ神父は、自己犠牲においてより強くあらねばならない
人の命は同じだ、平等だ
では、何故コルベ神父は、身代わりとなって死んだのか
ここで、命は平等ではない、という思いが生じる
あるいは、命ではなくその人の考える「こうあらねばならない」の基準

私は以前、このコルベ神父の自己犠牲に対して、絶対に自分は死の恐怖から
人の身代わりを申し出るなどという事はできないから、
自分はそういう、「卑怯で情けない人間だ」と思っていた
果たしてそうだろうか、といつからか思うようになった
「自分は相手よりも崇高である、だから相手の立場を慮って自分を犠牲にしよう」
この考え方は、そう思っているのではなかろうか、と思うようになった

自分は相手よりも上の心にある?
言葉によっては汚くなってしまうので、言葉が中々見つからないけれど
少なくとも同じとは思えない
皆命は惜しい
生きたいというように、動物は作られている
そうでないと、種が絶えてしまうからではないか、と最近思っているけれど

で?
遠藤周作の「踏み絵」の話
弱さによる裏切りの話

つまり、強さと弱さを、人の心を計る?

偉人伝の人である私は、自己犠牲の究極まで出来ない自分をダメな人と思っていた
私は強くはなく、場合によっては卑怯な事もする人間だと知っている
できる限りそういう事はしたくないけれど、
で、これら曽野綾子先生の究極の自己犠牲話が、どうもカチンと来るのである
この話を度々する曽野綾子先生の意図や如何に?なのである

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雑感 作家について 浅学ではありますので

2014-08-04 10:48:01 | 自己犠牲について
昔、私は主人に言わせると「偉人伝の人」なんだそうだ
これをどう解釈するかというと、例えば馬鹿正直で
こうあらねばならないとし、そう教え込まれたら、そう信じ込むタイプというか
私は伝記物語を信じた

そして、記憶にあるのは、教育委員会の視察?
確か小学5年生か6年生の頃、私は一冊の伝記本を先生から渡され?
それを読んで、その感想を教育委員が視察に来た時に発表?するようにと言われた
本は何だったっけ?
もしかしたら野口英世?もう昔の話なので忘れてしまった
数年前なら覚えていたかも。
で、言われるがままに、きっと先生や教育委員に都合のいい感想を述べたに違いない
授業も私だけその為に割いていいと言われていた
確か6年生だったかもしれない

キュリー夫人、野口英世、それが印象に残っている
実際の人物像は、子供が読む「聖人君子」とはわけが違っていたにも拘らず
そんな事はつゆ知らず

又、例え教師や親がどんな風に教育しようと、クラスの殆どの子はずるかった
または自分勝手だった
または、意地が悪かったし、言うことなんか聞かなかった。。裏で
で、私は決して優等生ではなかったが、一部いい子だった

それが、どう作家と繋がるかって言うことなんですが

遠藤周作のキリストとの関係
曽野綾子のキリスト教との関係
そして、天上の青との関係、に少しだけ繋がってきます

曽野綾子さんの「コルベ神父」の話
遠藤周作の「踏み絵」の話

人間の弱さと自己犠牲について
曽野綾子さんが、いつも気にしているのは、その事ではないのかなぁ
完璧主義という言葉が浮かぶ
けれど、曽野綾子さんは最近その完璧主義を否定しつつ生きる方法を提示している?

曽野綾子さんの自己犠牲への拘りは、人にそれを強要しはしまいか
いつも、そう思っていた
曽野綾子の小説は殆ど読んだ事がない、というか
小説自体をあまり私は読んでない
罪と罰1ページ?カラマーゾフの兄弟1,2ページ?
読んだ本は、北杜夫の面白いシリーズ、とか
推理小説 エラリー・クイーンとか、シャーロックホームズ、怪盗ルパン
そうだ、今NHKテレビ小説「花子とアン」の赤毛のアンシリーズは大好きで
オルコットとか、バーネットとか、所謂少女小説はよく読んだ
けれど、本格派?は読んでない
そういう人ですが
だから、この間アマゾンで「イエスの生涯」を買ったけれど一ページも読んでないし
そういう人ですが

で、こうあらねばならない、の究極の姿は「自己犠牲」
そして、身代わりとなっ亡くなった「コルベ神父」は自己犠牲の人
で、誰がそれをできるのか?
私は出来ないと思う
では、出来ない事はいけない事なのか?

12:40

ここに「私はいい人であらねばならない」という命題が出てくる
誰がどうあろうと、自分はいい人であらねばならない、のか?
ちなみに私の血液型はAB型で、平衡感覚というか、公平をモットーとするというか
できれば、ダイナミックな嘘はつきたくない、嘘は基本的に嫌いだ
で、人は自分を守るための嘘をつく
最近とみにその傾向を目にする
何かあった時に、「自分は悪くない、誰それ、何々のせいだ」と思う
無理にでも思う
明白に自分が悪い場合でも「自分は絶対に悪くない」と
他への「なすりつけカード」を使う
自分までをも騙して、自己正当化に走る人をとても多くみかけるようになった
何故だ?
多分、自分の非を認める強さがなくなった、減ったんだろうと思う
潔くなくなって、誤魔化せるものは皆誤魔化してやろうという心理が働く
嘘をついて、悪事を隠そうとする子供のような心境に
今は大人が子供のように平気で嘘をつくようになった
そんな気がするけど、もしかして昔からそうなの?
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