今日も異様に暑く、人災だと思います
昨夜は涼しい風が吹いてきて、少しましでしたが、
朝になると、火傷しそうな日差しです
曽野綾子の自己犠牲について、前から脅迫のようなものを感じていたのですが
それについて、漠然と思っていただけで、しかも
多分、少し私が後ろめたかったから?(私にはできませんから)
真面目に考えた事はなかったのですが、今回調べてみたら
それも、ちょっとだけですが、そのちょっとだけで、
既に「キリスト教の自己犠牲」なるものが出てきて、あれまぁ、と思ったのです
曽野綾子はキリスト教だから、自己犠牲に拘るんですかぁ、、と
じゃ、キリスト教の人はいい人ばかりになるじゃございませんか
でも、違いますよね
じゃ、神父さんだから?
どうなんでしょうね?
ちょっと主人に聞いてみたんです、曽野綾子の自己犠牲について、
そうしたら答えは「あれは、マゾだよ」
ふーーーん、マゾかぁ・・・
で、ネットで「曽野綾子 マゾ」で調べたら、何も出て来ませんでした、はい。
自虐的?
マゾなら、わかります
でも、あの人、その自己犠牲を人に「暗に」強要していませんか?
そうしない人間はダメだ、みたいに
私のような「偉人伝の世界の人」には、それはきついんです
曽野綾子さんは、自分のマゾは構いませんが、それを人に「強要」すると
マゾの押し付け、つまり、「サド」になりませんか?
結論
曽野綾子はマゾだった
主人の言葉で結論を出してしまうのは、何か、みたいですが、
これは、ずっと私も感じていた事です
しかし、ここで比較?に出してみたいのが、遠藤周作とキリスト教
「踏み絵」の話が印象的ですが、これは自分の弱さのために裏切る話ですね
これも、私は詳しく知らないんですが、書物を読んでもいないのですが
確かそういう話です
転びバテレンの話でしょうか?
そして、遠藤周作は、それを「許される事」として扱っていたように思うのです
曽野綾子の自虐的壮絶な自己犠牲と、それをなし得る人の話
そして、弱さゆえ信仰しているものすら裏切らざるを得ない遠藤周作の話
両方の主題は対極にあります
曽野綾子の方にはキリストは出てこない(ような気がします)
遠藤周作の方には、その弱さを許す「キリスト」が出てくるような気がします
ここで、疑問
キリストは、そのような壮絶な自己犠牲を人に説いたのでしょうか?
又主人で申し訳ないですが、
主人はキリストはそのような自己犠牲を説いていない、と言うのです
マグダラのマリアの話だったか、別のマリアの話だったか
(ちょっと検索してきます)
ありました。マグダラのマリアではなく、「マルタとマリア」の話とかでした
「イエスが彼女らの家を訪れたとき、迎えた姉マルタが接待のことで忙しくしていたのに対し、妹マリアはイエスの語る言葉に聞き入っていた。この姉妹の態度の違いは、伝統的に「活動的生活」と「観想的生活」を表すものであると考えられてきた。教会、とくに修道の伝統のなかでは観想的生活を重視する論述がなされるが、エックハルトは、その説教のなかで、活動的生活を通して神に奉仕するマルタの態度をキリストはよりよいものとして嘉したとする独自の解釈を提出している。また東方教会においては、「観想的生活」と「活動的生活」はそれ自体において優劣をもたないが、マルタはマリアに対する不平を述べた点で誤りをおかしたとする理解もみられる。」
話は逸れますが
>マルタはマリアに対する不平を述べた点で誤りをおかしたとする理解もみられる
これは、ないね
マルタも話を聞きたかったかもしれないのに、すべき事(接待)を優先して(好むと好まざるとに拘らず)やっていたのにね
不平を述べるな、というのなら、マルタも一緒に接待放置して話を聞いたらよかったと思いますよ
当然、「誤り」と「見做された「不平」を言わずに済みましたとさ
「主はお答えになった。『マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。』」
これで、日常生活済むでしょうか?という感じですが。
キリストがこう言ったから、と言って「解釈する人達」は皆マルタを非難がましく言いますが
はてねえ・・・。
>エックハルトは、その説教のなかで、活動的生活を通して神に奉仕するマルタの態度をキリストはよりよいものとして嘉したとする独自の解釈を提出している。
でしょ。
これ、曽野綾子氏得意の「自己犠牲」の話にしてごらんなさいよ
マルタこそが自己犠牲の一種みたいなものではないですか?
それを特に良しとしないキリストが、他の者に自己犠牲を、と言うでしょうか?
「キリスト 自己犠牲」で検索して、ちょっとだけつまんで読んでみました
なるほど、「キリストは自己犠牲によって、人々を救おうとした」
ですが、それを「人にそうしろ」と、キリストが言っていたのか、という事ですが
そういう記述はあるのでしょうか?
さすがに、それを探すのは大変そうで
とにかく、「曽野綾子と自己犠牲」について書いてきて
そのまま放置は良くないと、取り敢えずの結論を出してみようと書いているわけです
例えば「汝の敵を愛せよ」これ=自己犠牲ではないと思いますが
私はあのキリストが人に自己犠牲を説いたとは思えないですけどね
で、ウィキペディアを見ると、自己犠牲はある意味自分の為だとか書いてある
これを間違って解釈すると怖いんですね
つまり「自己犠牲を好きでやっている、自分の為にやっている」
とかいう、ずるっこい解釈をして
「自分が楽になりたい人」の心を満足させてしまう
これはしてはいけない事だと思います
今の一部の若い人(時にはあまり若くない人も)
多分そういう意味では「ずるっこい」のかも
曽野綾子さんが、コルベ神父の事や、その類の事を書けば書くほど
人に強要しているように感じるのはおかしいですか?
コルベ神父の話はとても辛い話です
逆に言ったら、人間の残酷さの裏返しのような気がします
こんな事を起こさせてしまった人間の性悪というか残酷性
何故、あんな事が起きたのか(国家によるユダヤ人大量殺人)
今の日本みたいに、安倍「暴走」を指を咥えて見ている「私達」
又、それに賛同する「人達」みたいなものでしょうかね?
結論 2
曽野綾子氏は、その独自のキリスト教的マゾヒズムを人に押し付けるな
こんなんでどうでしょうか?
で、ヘブンリーブルー「天上の青」の小説とまだ繋がってませんね
昨夜は涼しい風が吹いてきて、少しましでしたが、
朝になると、火傷しそうな日差しです
曽野綾子の自己犠牲について、前から脅迫のようなものを感じていたのですが
それについて、漠然と思っていただけで、しかも
多分、少し私が後ろめたかったから?(私にはできませんから)
真面目に考えた事はなかったのですが、今回調べてみたら
それも、ちょっとだけですが、そのちょっとだけで、
既に「キリスト教の自己犠牲」なるものが出てきて、あれまぁ、と思ったのです
曽野綾子はキリスト教だから、自己犠牲に拘るんですかぁ、、と
じゃ、キリスト教の人はいい人ばかりになるじゃございませんか
でも、違いますよね
じゃ、神父さんだから?
どうなんでしょうね?
ちょっと主人に聞いてみたんです、曽野綾子の自己犠牲について、
そうしたら答えは「あれは、マゾだよ」
ふーーーん、マゾかぁ・・・
で、ネットで「曽野綾子 マゾ」で調べたら、何も出て来ませんでした、はい。
自虐的?
マゾなら、わかります
でも、あの人、その自己犠牲を人に「暗に」強要していませんか?
そうしない人間はダメだ、みたいに
私のような「偉人伝の世界の人」には、それはきついんです
曽野綾子さんは、自分のマゾは構いませんが、それを人に「強要」すると
マゾの押し付け、つまり、「サド」になりませんか?
結論
曽野綾子はマゾだった
主人の言葉で結論を出してしまうのは、何か、みたいですが、
これは、ずっと私も感じていた事です
しかし、ここで比較?に出してみたいのが、遠藤周作とキリスト教
「踏み絵」の話が印象的ですが、これは自分の弱さのために裏切る話ですね
これも、私は詳しく知らないんですが、書物を読んでもいないのですが
確かそういう話です
転びバテレンの話でしょうか?
そして、遠藤周作は、それを「許される事」として扱っていたように思うのです
曽野綾子の自虐的壮絶な自己犠牲と、それをなし得る人の話
そして、弱さゆえ信仰しているものすら裏切らざるを得ない遠藤周作の話
両方の主題は対極にあります
曽野綾子の方にはキリストは出てこない(ような気がします)
遠藤周作の方には、その弱さを許す「キリスト」が出てくるような気がします
ここで、疑問
キリストは、そのような壮絶な自己犠牲を人に説いたのでしょうか?
又主人で申し訳ないですが、
主人はキリストはそのような自己犠牲を説いていない、と言うのです
マグダラのマリアの話だったか、別のマリアの話だったか
(ちょっと検索してきます)
ありました。マグダラのマリアではなく、「マルタとマリア」の話とかでした
「イエスが彼女らの家を訪れたとき、迎えた姉マルタが接待のことで忙しくしていたのに対し、妹マリアはイエスの語る言葉に聞き入っていた。この姉妹の態度の違いは、伝統的に「活動的生活」と「観想的生活」を表すものであると考えられてきた。教会、とくに修道の伝統のなかでは観想的生活を重視する論述がなされるが、エックハルトは、その説教のなかで、活動的生活を通して神に奉仕するマルタの態度をキリストはよりよいものとして嘉したとする独自の解釈を提出している。また東方教会においては、「観想的生活」と「活動的生活」はそれ自体において優劣をもたないが、マルタはマリアに対する不平を述べた点で誤りをおかしたとする理解もみられる。」
話は逸れますが
>マルタはマリアに対する不平を述べた点で誤りをおかしたとする理解もみられる
これは、ないね
マルタも話を聞きたかったかもしれないのに、すべき事(接待)を優先して(好むと好まざるとに拘らず)やっていたのにね
不平を述べるな、というのなら、マルタも一緒に接待放置して話を聞いたらよかったと思いますよ
当然、「誤り」と「見做された「不平」を言わずに済みましたとさ
「主はお答えになった。『マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。』」
これで、日常生活済むでしょうか?という感じですが。
キリストがこう言ったから、と言って「解釈する人達」は皆マルタを非難がましく言いますが
はてねえ・・・。
>エックハルトは、その説教のなかで、活動的生活を通して神に奉仕するマルタの態度をキリストはよりよいものとして嘉したとする独自の解釈を提出している。
でしょ。
これ、曽野綾子氏得意の「自己犠牲」の話にしてごらんなさいよ
マルタこそが自己犠牲の一種みたいなものではないですか?
それを特に良しとしないキリストが、他の者に自己犠牲を、と言うでしょうか?
「キリスト 自己犠牲」で検索して、ちょっとだけつまんで読んでみました
なるほど、「キリストは自己犠牲によって、人々を救おうとした」
ですが、それを「人にそうしろ」と、キリストが言っていたのか、という事ですが
そういう記述はあるのでしょうか?
さすがに、それを探すのは大変そうで
とにかく、「曽野綾子と自己犠牲」について書いてきて
そのまま放置は良くないと、取り敢えずの結論を出してみようと書いているわけです
例えば「汝の敵を愛せよ」これ=自己犠牲ではないと思いますが
私はあのキリストが人に自己犠牲を説いたとは思えないですけどね
で、ウィキペディアを見ると、自己犠牲はある意味自分の為だとか書いてある
これを間違って解釈すると怖いんですね
つまり「自己犠牲を好きでやっている、自分の為にやっている」
とかいう、ずるっこい解釈をして
「自分が楽になりたい人」の心を満足させてしまう
これはしてはいけない事だと思います
今の一部の若い人(時にはあまり若くない人も)
多分そういう意味では「ずるっこい」のかも
曽野綾子さんが、コルベ神父の事や、その類の事を書けば書くほど
人に強要しているように感じるのはおかしいですか?
コルベ神父の話はとても辛い話です
逆に言ったら、人間の残酷さの裏返しのような気がします
こんな事を起こさせてしまった人間の性悪というか残酷性
何故、あんな事が起きたのか(国家によるユダヤ人大量殺人)
今の日本みたいに、安倍「暴走」を指を咥えて見ている「私達」
又、それに賛同する「人達」みたいなものでしょうかね?
結論 2
曽野綾子氏は、その独自のキリスト教的マゾヒズムを人に押し付けるな
こんなんでどうでしょうか?
で、ヘブンリーブルー「天上の青」の小説とまだ繋がってませんね