5.海へ
「あ、海」
海岸線を車で走らせていると、陽子はシート横の並んでいるボタンを押して窓ガラスを開けた。
すると心地よい風とともにほのかな潮の香りが鼻をくすぐった。
「いい匂い・・・」
陽子は窓側に身体を預けて、海の景色を眺めた。
私はそんな陽子の様子を見るにつけ、連れてきて良かったとつくづく感じた。
陽子と3度目の再会を果たしてから私たちは急速に親しくなった。
私たちは毎晩のように電話でやりとりをして、日曜日には決まってデートをした。
デートと言っても待ち合わせ場所は文教堂書店裏の駐車場で、朝10時に待ち合わせると近くの小高い山の上にある芝生が敷き詰められた比較的大きな公園に行き、レジャーシートを広げて並んで座っていただけだ。
公園では大抵近くの子供たちがサッカーをしていて私たちはそれをただ、眺めていた。
電話で話す時と違って、会話はそれほど盛り上がらない、思いついたときにどちらかが言葉をかける程度。昼になると陽子お手製のおにぎりやら唐揚げやらの弁当を広げ、口にほう張り、そしてまた遊んでいる子供たちを眺める。
そんな一日を過ごし日曜日が終わってしまうのだった。
毎週そうでは詰まらないということで、あるとき私は陽子にどこか遠出をしてみようかと提案したことがあった。
すると陽子は困った顔をして、「母さんの具合が良くないので、遠出はしたくないの」というのである。
私は、母さんのことを出されても・・・、と思ったがそのときは黙って引き下がった。
私が再度その話を持ち掛けたのはそれから二週間ほど経ったころであろうか。
文教堂書店の駐車場で待ち合わせ、彼女が私の車に乗り込んだ瞬間に私は言った。
「海を見に行こう」
「海?」
「海ならここからなら二時間くらいで行けるよ」
「でも・・・」
「大丈夫、大丈夫。ここには夕方には戻ってこられるから」
「夕方には?」
「うん、間違いなく」
半ば強制的に陽子を誘い、車のエンジンをかけた。
それからの車中、陽子はずっと黙ったままで私は少し気まずい思いをしたが、県境を超え、海岸線を走るころになると陽子の表情も明るくなった。
「潮風って本当に感じるのねえ」
「海、来たことないの?」
「うん、ない」
陽子は自信を持って言った。
「もしかして、遠出ってしたことないの?」
「遠くっていえば、小学生のころ東京、鎌倉。・・あとは中高と京都に行ったくらいかしら」
私は飽きれた。陽子は29歳である。その年齢なら普通は仲間とスキーに行ったり、旅行に行ったりするのは当たり前じゃないか。“お嬢”といわれる由縁はそこにあるのかと思った。
「うちは母さんが病気がちでそんな余裕なかったから・・・」
私が呆気に取られていることに気付いたのか陽子はそう弁解した。
それからしばらくして街中に入り、左手にある海が見えなくなると途中で私は左折し、目的の地へ向かった。
もうすぐ、浜辺だ。私は陽子の喜ぶ顔を目に浮かべ、嬉しくなった。
「わあ、波が押し寄せるぅ」
波のリズムに合わせて陽子は行きつ戻りつしていた。
彼女は裸足だ。
砂浜に足を踏み入れた途端に彼女は靴を脱ぎすて、ジーンズの裾をまくりあげると一直線に波打ち際まで走って行った。途中砂に足を取られそうになったがなんとか辿り着き、寄せる波には体を引き、ひく波を追いかけていた。
丁度昼食時だったので、私が適当なところにレジャーシートを敷きながら「メシ、食おう」といったが「あともうちょっと!」と彼女はその行動をやめようとはしなかった。
辺りは誰もいない。もう11月も半ばに入っているのだから、当然だった。
私は腰を落ち着け、ひとり波と戯れる陽子を見ていた。
子供のようにはしゃぐ陽子。
付き合い始めてそんな陽子を見るのははじめてだった。
ふと、自分は陽子のなにを知っているのだろうかと思った。
毎日のように電話をし、他愛無い話を交わす中で陽子のことを知った気になっていたが、いざ直接会ってみると会話がない。
住所、氏名、年齢、好きなもの、嫌いなもの、そんなことを知ったところで陽子の心に踏み込んで行っている訳ではなかった。
例えば母親のこと。病気がちなのは分かるが、一体彼女はどういった病気なのか、重病なのか、それともそこまでではないのか。自分を頼ってくれてもいいのではないかと思ったりもしていた。
付き合って一か月半、そろそろ本気の“樋口陽子”を見せてくれてもいいじゃないか。
私はそう考えていた。
メシにしよう。メシに・・・。
波打ち際から引き揚げてきた陽子がおどけた風にそう言ってきたので、私は「言葉遣いが悪いなあ」と顔をしかめた。
「言葉遣いが悪い?あたしは、いつもはそうよ」
陽子は膝をつき、作って来た弁当を広げながら私を見上げた。
「いつもはって・・・、俺と会っているとき、今まではそうじゃなかった」
「ああ、そうかしら。あたしAB型だから二面性があるのかもね」
陽子は笑っていた。それは屈託のない笑顔で嘘とも本当ともつかなかった。
海に連れてきたことで、陽子の心に変化が現れたのだろうか?
私はある意味期待し、陽子に思っていることを素直に打ち明けようと思った。
「俺さ、本当のことを言って君のことが未だ分からないことだらけなんだ」
「分からない?」
「そう、君が俺のことを本当はどう思っているのか、どうして付き合っているのか・・・」
「・・・・・」
「・・・・・会っても話もしない・・・」
陽子は私を凝視した。それは私を見ているというよりは私を通り越して、後ろの影をみているようだった。
「・・・馬鹿よね・・」
陽子はそう一言呟くと、さあさ、食べましょうと微かな笑顔で私をせかした。
・・・馬鹿よね?私はせかされ、陽子の握ったお結びを頬張りながら考えていた。それは私に向けられた言葉なのか?それとも陽子自身が自分のことをそう思って言った言葉なのか?
陽子に尋ねようにも陽子はもう殻に閉じこもったように、いつもの無口な彼女に戻っていた。
私たちは昼食を終えると、どちらともなく帰ろうかということになり、帰途に就いた。
帰りの車中、陽子は景色を見るばかりでひとこともしゃべろうとはしなかった。
地元に戻り、別れ際、陽子はまたね、と言った。
またね、か・・・・。私はその言葉が寂しい響きに聞こえた。
後悔の一文字が頭にこびりついて離れなかった。
馬鹿だなと思った。
あの時私は未熟者だった。
未熟者故に陽子に向けるべき言葉の選択を誤った。
そしてこれは後で気づいたことなのだが、あのとき、持って回った言い方をせずただひとこと言えばすむことだったのだ。
君が好きです・・・・、と。
I´m not in love -The Pretenders- (Sub español)