10. 陽子の家へ
「あら、ネクタイが曲がっている」
車に乗り込もうとしたとき、母がちょっとこっちに来なさいと言って私を呼び止めた。
私が母のところまで戻り、前に立つと彼女は、まったくもう、と文句を言いながらネクタイのラインを整えた。
「挨拶に行くんだからしゃんとしなきゃ」
母は頼りない息子である私を心配そうに見上げた。
「大丈夫、大丈夫。そんな心配することはないさ」
「大丈夫じゃないから言ってるの!!」
心配性の母は必要以上におろおろし、落ち着きがなかった。
「じゃあね。行ってくるよ」
私がそう言って離れかけると、待って、とまたもや声を掛けてきた。
「ねえ、やっぱり相手の方に何か持って行った方がいいんじゃないの?」
「いや、陽子がその必要がないって。却ってそんなことすると親父さんの機嫌をそこねかねないらしい」
私がそう説明しても納得のいかない顔だ。
私は逃げるようにして車のところまで戻り、乗り込むとエンジンをかけた。
目的の地まで小一時間、私はゆっくりとアクセルを踏み、心配する母を尻目に車を発車させたのだった。
あのクリスマスイヴの出来事から8か月が過ぎようとしていた。
その間に私たちはお互いの愛を確認し、ゆっくりと育んでいた。
それはいわば、暗闇の中、手探りでお互いの温もりを確かめ合うといった作業に似ていたが、目がなれ、お互いの顔がよく見えるようになると、私たちは次の段階へと進まねばならないことに気が付いた。
つまりそれは現実的に結婚を意識することに他ならないことであり、私は7月の或る夜、車中で陽子にプロポーズをした。
結婚しようよ。
それは嘘も偽りもなく飾りのない私の本心で、指輪もなにも用意してなかったが、陽子自身もそれを待っていたようで、私の目を見つめると無言で首を縦に振ってくれた。
私は喜んだ。天にも昇る様な気持ちになったが陽子の次の一言で目が覚めた。
「お互いの両親に報告しなきゃ、ね」
親、か・・・・。
私の両親は問題がなかった。そのころにはもう何度も陽子を私の自宅に招待し、父にも母にも紹介済みだった。
だが、陽子の両親にとって私はまだどこの馬の骨とも分からない存在だった。
何度か陽子を家の前まで送っていったことはあったが、私は彼女の両親に会ったことはなかった。電話で陽子の母親と話したことがある程度だった。
もしかしたら強硬に反対されるかもしれない。
私のそんな不安が顔に出ていたのだろう、そのとき陽子は「大丈夫よ。段取りは私に任せて」と笑った。
自分が動かないことに私は少しだけ罪悪感を感じたが、仕方がない、陽子の家のことだしと割り切り、ともかく私は陽子の報告を待つことにした。
陽子から「成功!」との連絡を受けたのはそれから一週間後のことである。
陽子の段取りが功を奏したのか父親は娘の報告に反対しなかったらしい。母親の方は大賛成だ。
不安が晴れた私はさっそく陽子を介して挨拶に行きたいという旨を陽子の父親に伝えた。
返事が返って来るまでまた一週間ほど時間を要したが、「お盆が過ぎたころだったら」という相手方の意向を聞き、日程を調整した。
いろいろ考えたが、結局私が夏休み中の8月22日に挨拶に行くことになった。
私と陽子はひとまず日程が決まったということで、安堵した。
さあ、あとは頑張ってよ、と陽子は私の尻をたたいた。
私は陽子に尻を叩かれながら、もうやるっきゃないなと覚悟を決めたのだった。
陽子の実家まではそれほどの時間を要さなかった。
道路が空いていたせいもあるのだろうか、国道から山に入る時間を加えても40分しかかからなかった。
車を降り、辺りを見回すと山、山、山の景色。
ミンミンゼミがうるさいくらいに鳴いていた。
私はかなり緊張していて目前にある彼女の実家を凝視し、深呼吸をした。
陽子の実家はよくある田舎のタバコ屋で、正面が店になっている。
空を見上げた。
青い空に白い雲がぽっかりと浮かんでいた。
さあ、いくぞ。
緩やかな夏の風が微かに私の頬を撫で、逃げるようにして山の木々を揺らしていた。
The Pretenders - Middle Of The Road