8.クリスマスイヴ②
「わぁ、すごい」
目の前で大きなステーキ肉を焼いているのを見て、陽子は小さな歓声をあげた。
肉の色がみるみるうちに茶褐色に変わってゆく。
ふたりともシェフに「焼き方は?」と尋ねられたとき揃って「ウェルダン!」と答えていた。
そのとき、なぜかお互い顔を見合わせ、思わず笑いがこぼれた。
私が陽子を連れて行ったステーキ店は、上質な赤みの肉を扱うことで知られていて、そういった店では“レア”か“ミディアムレア”で頼むのが一般的だと何かの本で学んだ。
小さいころから“生ものは火をよく通して”という教育を受けた私は、生が苦手で、それで“ウェルダン”と答えた訳なのだが、まさか陽子も同じ焼き方を選ぶとは思わなかった。
肉を焼いている間、私たちは先に赤ワインを頼み、飲んでいた。
周りを見るとクリスマスイヴにも拘らず私たちの他には客は誰もいなかった。
恐らく最近近くに出来たフレンチレストランの影響だろう。
私がそう思っていると、陽子は顔を近づけてきて私に小声で尋ねてきた。
「ねえ、大丈夫?ここ高いんでしょう?」
「大丈夫。軍資金はいっぱいあるから」
「別にファミレスでも良かったのに」
陽子は済まなそうな顔をした。
私は当初、もっと洒落たフレンチやイタリアンの店に行こうと思っていた。
姉のいうとおり、そういった店に連れて行けば陽子が喜ぶと思ったからだが、彼女は逆にそういった店は肩が凝るからいやだと拒否した。
どうやら姉の言うお洒落な店に行きたいという欲求は陽子には存在しないようだった。
私は半ば残念に思ったが、後の半分は安心した。
陽子が流行に流される女ではないことが分かって嬉しかったし、私自身もそれほど、雰囲気に拘る方ではなかったからだった。
「ねえ、見て。すごい、すごい」
職人の手さばきにいちいち感動している陽子はこどものようだ。
私は陽子のまた違う一面を発見し、つくづく陽子は楽しませてくれる娘だなあ、と思った。
ありがとうございました。
店員の威勢のいい声が店内に響き渡った。
会計を済ませ、外に出ると陽子が空を見上げていた。
私が何だい?と尋ねると、彼女は、雪、と答えた。
私も陽子につられて上空をみると白く細かい雪が舞ってきた。
「ホワイトクリスマスだ」
私がそう言うと「そうね」と彼女は呟いた。
私が陽子の方を見やると彼女はまだ上空を睨んでいる。
彼女の息は白く、息を吐くたびにそれは空を上り、夜の闇に消えて行った。
私は隣に並び、彼女に問いかけた。
「これからどうする?」
「帰る。山は雪が積もるの早いから」
「そうか、残念!」
私がいかにも残念そうに言ったことで彼女は気の毒におもったのだろうか、陽子は見上げるのをやめ、「でも」と言葉を続けた。
「でも?」
「あなたが誘うなら・・・」
「え?」
「あなたが誘ってくれるなら、どこにでもついていくわよ」
陽子はコートのポケットに両手を入れると横顔だけを私に見せて嬉しそうにそう言い、それからこう続けたのだった。
「少しでもあなたと一緒にいたいしね」
それから先、駅に着くまでのことはよく憶えていない。
気が付いたら私は陽子の手を引き、駅の階段を駆け上がっていた。
どうやら私は彼女の「一緒にいたい」という言葉に触発されたようだ。
私は改札前まで陽子を連れて行き、そこで手を離した。
「ねえ、どういうことなの?ここは駅よ」
陽子はなにをするのとばかりに攻撃的になっていた。
「ここが目的の場所。これから先は君だけに行ってもらう」
私はポケットから鍵を出し、陽子の手に握らせた。
「コインロッカーの鍵。そこに魔法の杖が隠してある」
「魔法の杖?なに、それ。なんで?私が?」
「いいから。早く。そこの角を曲がった奥にあるから」
私がせかすと陽子は不満げな顔をしてしぶしぶと角を曲がり、奥へと消えて行った。
彼女が戻ってくるまで5分とかからないだろう。
私は、時計を見、彼女が戻ってくるまで待った。
5分、10分、15分・・・・。
15分を経過しても彼女が戻ってくる気配は一向になかった。
私は心配になり、コインロッカーがある方向へと歩いていった。
角を曲がり、奥に行けば彼女はいるはずだ。
私は角を曲がると、奥の方を覗き込むようにして前を見た。
すると、コインロッカーの一番奥、行き止まりになっているところに陽子は体育座りをして俯いていた。
ロッカーは開いたままになっている。
陽子の手には私が書いたメッセージカードが握られていた。
なんだ、いるじゃないかと彼女に近づき、肩に手を掛けようとした瞬間、私は彼女の肩が微かに震えているのに気が付いた。
「泣いてるのか?」
私がそう聞くと、陽子は俯いたまま大きくかぶりを振った。
そしておもむろに立ち上がると、メッセージカードを握ったままコインロッカーの内部に手を入れ、ゆっくりと赤く見事に咲き誇った冬薔薇の花束を取りだし、自らの胸に抱いた。
薔薇の花を抱いた陽子はまるで絵画のモデルのようだった。
目の下を見ると、涙のあとがくっきりと出ていた。
うれし涙なのか?
私の目的はともかく彼女を泣かせるのではなく、喜ばせることだったので、これではいかんと矢継ぎ早に言葉を投げかけた。
「ちょっとしたドッキリのつもりだったけど、びっくりした?」
「・・・うん」
「俺、軽い男かな・・」
「・・・うん」
「ガキみたいなことして、呆れてるだろ」
「・・・うん」
花を抱えた陽子は少し俯いたまま返事を返した。
私はなにか気の利いた言葉を陽子に投げかけようとしたが、どうもうまくいかなかった。
考えれば考えるほど、私が本当に伝えたいことが口からでてこない。
どうしたらいい?
私は考えるのをやめた。
ただ一言でいい。ただ一言彼女に伝われば良いのだ。
それは一生に一度しか使えない魔法の言葉だ。
私は背筋を正して覚悟を決めた。
そして深呼吸をひとつすると、陽子に向かってゆっくり慌てずに、はっきりと言ったのだった。
アイシテイマス
I go to sleep - The Pretenders
「わぁ、すごい」
目の前で大きなステーキ肉を焼いているのを見て、陽子は小さな歓声をあげた。
肉の色がみるみるうちに茶褐色に変わってゆく。
ふたりともシェフに「焼き方は?」と尋ねられたとき揃って「ウェルダン!」と答えていた。
そのとき、なぜかお互い顔を見合わせ、思わず笑いがこぼれた。
私が陽子を連れて行ったステーキ店は、上質な赤みの肉を扱うことで知られていて、そういった店では“レア”か“ミディアムレア”で頼むのが一般的だと何かの本で学んだ。
小さいころから“生ものは火をよく通して”という教育を受けた私は、生が苦手で、それで“ウェルダン”と答えた訳なのだが、まさか陽子も同じ焼き方を選ぶとは思わなかった。
肉を焼いている間、私たちは先に赤ワインを頼み、飲んでいた。
周りを見るとクリスマスイヴにも拘らず私たちの他には客は誰もいなかった。
恐らく最近近くに出来たフレンチレストランの影響だろう。
私がそう思っていると、陽子は顔を近づけてきて私に小声で尋ねてきた。
「ねえ、大丈夫?ここ高いんでしょう?」
「大丈夫。軍資金はいっぱいあるから」
「別にファミレスでも良かったのに」
陽子は済まなそうな顔をした。
私は当初、もっと洒落たフレンチやイタリアンの店に行こうと思っていた。
姉のいうとおり、そういった店に連れて行けば陽子が喜ぶと思ったからだが、彼女は逆にそういった店は肩が凝るからいやだと拒否した。
どうやら姉の言うお洒落な店に行きたいという欲求は陽子には存在しないようだった。
私は半ば残念に思ったが、後の半分は安心した。
陽子が流行に流される女ではないことが分かって嬉しかったし、私自身もそれほど、雰囲気に拘る方ではなかったからだった。
「ねえ、見て。すごい、すごい」
職人の手さばきにいちいち感動している陽子はこどものようだ。
私は陽子のまた違う一面を発見し、つくづく陽子は楽しませてくれる娘だなあ、と思った。
ありがとうございました。
店員の威勢のいい声が店内に響き渡った。
会計を済ませ、外に出ると陽子が空を見上げていた。
私が何だい?と尋ねると、彼女は、雪、と答えた。
私も陽子につられて上空をみると白く細かい雪が舞ってきた。
「ホワイトクリスマスだ」
私がそう言うと「そうね」と彼女は呟いた。
私が陽子の方を見やると彼女はまだ上空を睨んでいる。
彼女の息は白く、息を吐くたびにそれは空を上り、夜の闇に消えて行った。
私は隣に並び、彼女に問いかけた。
「これからどうする?」
「帰る。山は雪が積もるの早いから」
「そうか、残念!」
私がいかにも残念そうに言ったことで彼女は気の毒におもったのだろうか、陽子は見上げるのをやめ、「でも」と言葉を続けた。
「でも?」
「あなたが誘うなら・・・」
「え?」
「あなたが誘ってくれるなら、どこにでもついていくわよ」
陽子はコートのポケットに両手を入れると横顔だけを私に見せて嬉しそうにそう言い、それからこう続けたのだった。
「少しでもあなたと一緒にいたいしね」
それから先、駅に着くまでのことはよく憶えていない。
気が付いたら私は陽子の手を引き、駅の階段を駆け上がっていた。
どうやら私は彼女の「一緒にいたい」という言葉に触発されたようだ。
私は改札前まで陽子を連れて行き、そこで手を離した。
「ねえ、どういうことなの?ここは駅よ」
陽子はなにをするのとばかりに攻撃的になっていた。
「ここが目的の場所。これから先は君だけに行ってもらう」
私はポケットから鍵を出し、陽子の手に握らせた。
「コインロッカーの鍵。そこに魔法の杖が隠してある」
「魔法の杖?なに、それ。なんで?私が?」
「いいから。早く。そこの角を曲がった奥にあるから」
私がせかすと陽子は不満げな顔をしてしぶしぶと角を曲がり、奥へと消えて行った。
彼女が戻ってくるまで5分とかからないだろう。
私は、時計を見、彼女が戻ってくるまで待った。
5分、10分、15分・・・・。
15分を経過しても彼女が戻ってくる気配は一向になかった。
私は心配になり、コインロッカーがある方向へと歩いていった。
角を曲がり、奥に行けば彼女はいるはずだ。
私は角を曲がると、奥の方を覗き込むようにして前を見た。
すると、コインロッカーの一番奥、行き止まりになっているところに陽子は体育座りをして俯いていた。
ロッカーは開いたままになっている。
陽子の手には私が書いたメッセージカードが握られていた。
なんだ、いるじゃないかと彼女に近づき、肩に手を掛けようとした瞬間、私は彼女の肩が微かに震えているのに気が付いた。
「泣いてるのか?」
私がそう聞くと、陽子は俯いたまま大きくかぶりを振った。
そしておもむろに立ち上がると、メッセージカードを握ったままコインロッカーの内部に手を入れ、ゆっくりと赤く見事に咲き誇った冬薔薇の花束を取りだし、自らの胸に抱いた。
薔薇の花を抱いた陽子はまるで絵画のモデルのようだった。
目の下を見ると、涙のあとがくっきりと出ていた。
うれし涙なのか?
私の目的はともかく彼女を泣かせるのではなく、喜ばせることだったので、これではいかんと矢継ぎ早に言葉を投げかけた。
「ちょっとしたドッキリのつもりだったけど、びっくりした?」
「・・・うん」
「俺、軽い男かな・・」
「・・・うん」
「ガキみたいなことして、呆れてるだろ」
「・・・うん」
花を抱えた陽子は少し俯いたまま返事を返した。
私はなにか気の利いた言葉を陽子に投げかけようとしたが、どうもうまくいかなかった。
考えれば考えるほど、私が本当に伝えたいことが口からでてこない。
どうしたらいい?
私は考えるのをやめた。
ただ一言でいい。ただ一言彼女に伝われば良いのだ。
それは一生に一度しか使えない魔法の言葉だ。
私は背筋を正して覚悟を決めた。
そして深呼吸をひとつすると、陽子に向かってゆっくり慌てずに、はっきりと言ったのだった。
アイシテイマス
I go to sleep - The Pretenders