ひと筆めぐり 【新発見・再発見・摩訶不思議・唯一無二】への楽しみ…

地域に息づく歴史のひと幕にふれ、…遥かなる往時に思いを馳せる

普済寺の開山『天外梵舜』

2022-09-05 | 神社仏閣
普済寺の開山
~普済寺の開山は『天外梵舜(てんがいぼんしゅん)』~

(京都府南丹市園部町若森庄気谷76)

寺の開山は、信州全久院の住持『天外梵舜(てんがいぼんしゅん)』和尚を招き来てもらっている。江戸時代前期の曹洞宗の僧で、普済寺の中興開山の和尚です。(注)開山とは衰えた寺を復興させた僧をいいます。
 寛永17年(1640~1653)、この時、丹波亀山城主菅沼定芳は黒印状を出して、高四石六升を与えている。寺地は園部領地の中にありながら、亀山藩領の相給地となっている。
寛永年間、亀山城主になった菅沼織部正定芳(江州膳所より転封)によって援助を受けます。普済寺は亀山城藩主の菩提寺となっている。
 令和4年9月3日、天外梵舜和尚没後、369回目の法要が執り行われていた。本尊は聖観音であるが、この日だけは須弥壇中央に開山「天外梵舜」和尚が座する。儀式が終われば須弥壇奥に鎮座する。

 幸いにも法要儀式終了時に寺に行き、開山「天外梵舜」和尚像を拝見させて戴いた。ラッキーな´ひと筆めぐり´ができた。

【開山『天外梵舜』和尚像】


【本堂は入母屋造り・平入り、随所に曹洞宗の建築様式を堪能できる。普段は正面扉は閉まっています。】

【今年は栗の豊作年? 品種/丹波栗?】





玉岩地蔵堂の組物 南丹市日吉

2022-09-01 | 神社仏閣
社寺建築『玉岩地蔵堂の組物』❷
(南丹市日吉四ツ谷海老坂)


山深い所にポッンとお堂が建つ。静寂の中に蝉しぐれを聴き社寺建築を見る。悠久の郷土歴史に思いを馳せ…´ひと筆めぐり´を楽しんでいる。
今回は南丹市日吉町の玉岩地蔵堂の須弥壇の組み物(彫刻)にスポットを当ててみた。古の宮大工の匠の技、発想、創造力に、至福のひと時を味うことができる…。
 本堂・須弥壇に主尊の地蔵菩薩が安置され、社寺建築の真骨頂の匠の技が堪能できる。禅宗様の様式を用いた詰組は格天井までぎっしり組まれ、立体パズルの高度な組み合わせである。基本的には『三斗』『出三斗』『肘木』の組み合わであるが、これらには一切の金具(クギ・ボルト等)は使っていない。
 この寺へ訪れたのは8月23日、お盆の施餓鬼法要が営なわれていた。飛び入りで法要に参加させて戴いた。コロナ禍の為、寺関係者のみ。お坊様(1人)と寺役員さん(6人)。仏教の真髄となる教えが凝縮した般若心経に、線香で邪気は消えてゆく…

「はんにゃーはーらーみーたー」「ぎゃーてーぎゃーてーはーらーぎゃーてー」(般若心経の一説)
日吉町の案内板には『三斗栱 (さんときょう) の形式で、大斗 (だいと) の上に肘木 (ひじき) を乗せ、その上に巻斗 (まきと) を三ツ並べている』と説明が入っている。これらの建築様式から見て、江戸時代中期頃と云われている。一度、訪れてみては…

本堂の地蔵堂

出雲神社の小宮に『八坂神社』さん 其②

2021-09-22 | 神社仏閣
出雲神社の小宮に『八坂神社』さん 其②…疫病の歴史
(園部町埴生倉谷9)

世界中で新型コロナウイルス感染拡大している…怖い。3蜜状態の回避、新しい生活様式へと…やっと出口が見えてきたようだ…油断大敵。
はるか昔より、日本ではさまざまな疫病が流行してきた。そのたびに多くの人々が苦しみ大きな犠牲者をだした。過去を振り返り見えない疫病と、先人たちは…どう向き合ってきたのだろうか…今回は其②です。


近世
江戸時代、一生に一度はかかる三つの疾病(天然痘・はしか・水ぼうそう)はお役三病と呼ばれていた。
「はしか」は、約20年に一度のペースで流行、文久2年(1862)、江戸では数万人の犠牲者がでる。人々は予防や疫病退散を願って「はしか絵」を買い求めた。はしかの神様がこらしめられている様子や、はしかで損をした商売人たちがもうけた人かたちと戦っている風刺画が瓦版となる。入浴・散髪・酒や魚、野菜の飲食を100日間断つ。守らないと病気が再発すると信じられ、多くの人が生活困窮となり、経済的混乱も起きている。
疫病を予言し妨ぐとされる妖怪「アマビエ」「姫魚」等の絵が流行した。江戸後期、瓦版等で疫病の怖さを知らせていた。
緒方洪庵は、欧州で確立されていた天然痘のワクチンを広め、病気にかかる前にワクチン接種で予防に貢献する。日本の近代医学の祖と言われている。
安政5年(1858)、コレラが日本で大流行、かかると三日でコロリと死ぬと云われ、「虎狼痢治準(ころりちじゅん)」の治療手引書を医療者に配っている。
このようにして日本の近代医学が発展して行く礎が築かれてきた。
新型コロナウイルス感染拡大予防に向け、過去を振り返り疫病の怖さを知り教訓としたい。

                                          (参考資料/朝日新聞)

八坂神社末社の前に手水石(鉢)がある。石碑文の正面に『奉納 御宝前 諸願 成就』右側面に『文化十三庚寅年 夏六月十四日』
と刻まれている。この地の八坂さんは1830年に埴生の地に勧請したのではないだろうか?




出雲神社の小宮に『八坂神社』さん

2021-09-18 | 神社仏閣
出雲神社の小宮に『八坂神社』さん 其①…疫病の歴史(園部町埴生倉谷9)
埴生出雲神社の境内に『八坂神社』の小宮があります。京都の八坂神社を祇園さん、八坂さんと親しみをもって呼ばれている。新型コロナウイルス退散の祈願を願い手近な八坂さんを訪ねた…

左…八坂神社の小宮(末社) 右…火皇産君神社の小宮(末社)


古代
「日本書紀」には、疫病は社会に禍(わざわい)を与える神や怨霊(おんりょう)のしわざとされた。人々の対処法は″まじない″や″神頼み″だった。
737年、藤原四兄弟が次々に亡くなっている。天然痘らしい。聖武天皇は恩赦や読経をさせるも収まらない。朕(天皇)の不徳で災厄を生じたと天を仰いだ。

中世
疫病をしりぞける神として信仰を集めた京都・八坂神社の牛頭天王(ごずてんのお)だ。都の夏の祇園祭は疫病退散を願って行われたもの。天神祭(大阪)や神田祭(東京)は疫病退散を願っての祭りである。日本各地の都市祭礼の原点は疫病退散がもとになっている。
これら疫病は海のかなたの異国からもたらされるものと信じられていた。天平の天然痘は外交の最前線(窓口)の太宰府(九州・福岡県)で大流行、全国へ拡散する。朝鮮半島の新羅から九州に侵入したとも…。
海は海外の多くの冨や文化をもたらすが、併せて未知の疫病も運ぶのであった。


遠い先人たちが疫病と戦い、大災難を乗り越えてきた災厄歴史を思い出し、彰往考来することも、時には…いいものです。…新型コロナウイルス退散収束を願っている。


社頭前にヒガンバナ…バックに愛宕神社の石燈籠





龍穏寺の梵鐘(大鐘・釣鐘)

2021-09-17 | 神社仏閣
龍穏寺の梵鐘(大鐘)
(園部町仁江)



昭和20年大東亜戦争に、応召の鐘として供出され…戦後、還元の鐘とはならなかった。昭和48年、寺・檀信徒力を合わせ再鋳されたもの。梵鐘、池間の銘文を一部読んでみましょう。

【古大鐘者昭和廿年春為大東亜戦之故至難供出矣爾来不得聞音至昭和四十八年檀信徒併力此再鋳為而平和妙聱三遍十方維時昭和四十年十月吉祥日 京都府船井郡園部町仁江 王宝山龍穏寺 二十三世 宝山照一代  鋳造 京都 髙橋〇肇堂】銘文から読み取れます。
次の池間には…【治工山城国洛陽三条釜座 西村新三郎、藤原昌久】の銘が読み取れます。織田信長・豊臣秀吉らの庇護下で 「天下一」を銘として梵鐘に使う事を一代限り許されたのが西村道仁である。西村家は鋳物師として代々繋がっている。