ひと筆めぐり 【新発見・再発見・摩訶不思議・唯一無二】への楽しみ…

地域に息づく歴史のひと幕にふれ、…遥かなる往時に思いを馳せる

皇紀二千六百年記念 徳雲寺

2021-02-14 | 古文書
『皇紀(紀元)二千六百年記念』の標石

おなじみの徳雲寺(園部町小山東)を訪ねた。梅の花が一輪…ちらほら、春近し。
境内入口に立派な標石(花崗岩)が参道両側に建つ。裏面に崩し字で…超難解な文字が刻まれている。解読しないと小骨が喉にささったようである。ここは古文書の出番「くずし字用語例辞典」に頼るしか、解読不可…。興味のある方は一度、挑戦してください。

『皇紀二千六百年記念』
昭和15年(1940)が神武天皇即位紀元(皇紀)2600年にあたります。(注)年は「秊」とする方が正しいが、ここでは年と読む。
当時、日本は日中戦争の戦時下で戦争に明け暮れ…、国民の生活は苦しくなっていました。当時の政府は疲弊した国民を元気づけ勇気づけるために各村に交付金を出し、資金不足分は浄財・寄付等を募り事業を進めている…。
ある村では神社の玉垣を、社寺階段の整備、神田開発にと…、事業を展開しています。
徳雲寺ではこの標石や参道整備等の事業として…。花崗岩の材に昭和十五年二月、施主森利三郎と刻む。
尚、園部町には紀元(皇紀)2600年記念の標石がよく見かけます。

徳雲寺参道入口に建つ【皇紀二千六百年記念】

梅の開花、寺に春を呼ぶ一輪



南陽寺(曹洞宗) 園部町

2020-09-22 | 古文書
~南陽寺の起こり~
南陽寺観音堂にこの寺の起こり(由緒)がわかる。堂内の長押(なげし)いっぱいに書かれている。文書は変体仮名交じりで比較的解読しやすいが…難解だ。難しい字にはルビーが付く、解読すれば当時の園部の様子がわかる。一部、解読不可の個所はあるが…お許しを。

< 全文 >


『抑(そもそも)これに安置し奉る
馬頭観音の由来を申奉るに
昔此辺に斗(十)倉長者と以へる人あり
けるが常に此
観世音を尊崇(そんすう)し奉りしに
彼(かの)若狭の国松尾寺ハ世の人
普(あまね)く知所の西国三拾三所の内
弐拾九番の札所にして
本尊ハ則(すなわち) 馬頭観音にて
ましませは一日(あるひ)長者松尾寺へ
詣でけるついで鴻の浦といふ
処に船を浮めあなたしなたと
一見せし所に俄に大風吹来りて
数十艘の船四方八面に漂流し
或ハ破損し或ハ行方知れず
なりけるに此長者の乗し船も
何地とも分難き嶋に吹着ら
れしかはいかせんと憂へ衰
しむ所に夢ともなく現
ともなく観世音現れ出給ひ
て長者に告給ふよらば此処ハ
鬼界ケ島とて世に恐懽し
き処なれハはやばやと爰(ここ)を去
へしと告給ふなれど何地へ
出へき方を知らす憤然とし
て居たおしに後の方に白馬
なく其馬に乗よと呼聲あり
因(よって)馬に打乗しに遥かに雲
を凌(しの)ぎ峰を掛ると思ひしが
忽(たちま)ち此故郷に帰りぬ又此

馬を村落に繋置しに
不思議なる哉(かな)其馬一の枯木
と化しけれは長者奇異の
思ひをなしいよいよ信心肝に銘
じ其木を以て
馬頭観音の尊像を刻ミ此処に
一宇の小堂を建立し是を安置し
奉る其後世々の主君修復を加
られ又寛政年中
泰盛院御殿御代に此堂を再造
し給ふ則三面二臂の御像にして
頭上に白馬の頭を載き給ふゆへ
馬頭観音と名け奉り中興船井
郡三拾三所の内拾九番の札所にし
て最も□□□あらゆる
安楽を請め給ふ人々一心に信仰
し奉れハ身に病難釼難なく
家に盗難災難なく誠に霊験
新にして人の欲する処成就せすと云
事なし又古より三拾五年或ハ五拾
年毎に諸人結縁ため御忌の
法会を執行し来るに今慈又其
巡り年に当り依て旧例に
随(したが)ひ御扉開き尊像を拝せ』

























































江戸時代の往来手形(通行手形) 

2020-03-06 | 古文書
西国三十三巡礼の『往来手形一札』
江戸時代、人の移動は厳しく制限されていました。そんな中、神社仏閣を巡る信仰目的の旅であれば概ね許されていたが、身分を証明する往来手形(通行手形)が必須であった。庶民の場合は村の檀那寺が身分の証明をしています。ここに『往来手形』の文書を解読してみましょう。
往来手形一札
『一 丹波州桑田郡春日部村 男二人 女五人〆て七人   宗旨は代々禅宗にて当寺旦那にまぎれ御座なく候 しかる処 この度心願につき西国順礼 神社順拝に罷り越申し候 所々御関所相違なくお通し遣わされくださるべく候 万一病気死等つかまつり候節は 御国村方にてもお世話なし下さるべく候 同行のもの共より願いの通りおとりはからい頼み入れ申し候 依って往来手形一札件の如し  
安政三年辰年  丹州桑田郡春日部村 三月日   曹流寺 国々 所々御関所 御役人中 村々宿々 御役人中』
(新修亀岡市史 資料編第二巻より)
<殿谷の西国三十三所巡礼碑は、死を覚悟した旅であり無事成就が出来た喜びの碑でもある>

埴生(はぶ)街道

2020-02-17 | 古文書
篠山街道はその昔、参勤交代に使われた旧街道で、武士・商人・旅人が利用した街道であった。

『埴生はむかし 宿場として 栄えた ところである 本陣・脇本陣その他 宿屋は数件あった 老の坂を無事越えられても 埴生の 宿場が無事に越えられるか どうか……埴生の宿場は 旅人にとって おそろしい町であったとか』(原文を解読してみました。当時の埴生の宿場の様子がうかがいしれます。園部町図書館郷土コーナーより)
埴生の宿場、「本陣・脇本陣・米利・竹屋・丸屋・ます屋・糀屋」などがあった。当時の面影が残っていますね…。

園部町 普済寺の歌額【御詠歌】

2019-12-10 | 古文書
園部町若森に大慈山普済寺が佇む。この寺はかっては平安時代、天台宗の寺院として創建されたと伝えられている。足利尊氏の妹千種姫が開基となり、夢窓疎石(むそうそせき)を開山とする。当然、初代寺の住職は千種姫が務めている。後に寺は改宗され今の曹洞宗になっている。
旧・丹波船井郡(南丹市園部町・八木町・日吉町、船井郡京丹波町)に分布する観音霊場。 廃寺になり観音堂だけが残る所もあるが、かろうじて観音霊場としての実態が維持されています。随時、このブログにて紹介していきたい。

普済寺は丹波船井郡三十三ケ所観音霊場の第二十二番の札所です。御詠歌額は仏殿の正面、鰐口の上辺りに掲げられるが幾星霜を感じます。文字の剥離が進み、数か所解読は難しくなっている。何時頃、誰の書かは今のところ不明。額裏に書かれているかも知れませんね。

【22番 大慈山普済寺 大慈山民を あまねく 救ふなる 御寺ふりにし 雨乞が嶽 普済寺】