ひと筆めぐり 【新発見・再発見・摩訶不思議・唯一無二】への楽しみ…

地域に息づく歴史のひと幕にふれ、…遥かなる往時に思いを馳せる

園部町船岡の道標

2021-10-01 | 街道
園部町の道標 ~船岡編~

(南丹市園部町船岡)


現在の小浜市から京都を結ぶ街道を総称して若狭街道(鯖街道)と呼ばれている。郷土歴史文化の香り高い旧街道を探し楽しんでいる…。
足は園部町千妻(せんつま)から諏訪山峠を越えて、JR船岡駅に向いている。船岡集落には若狭街道が通り、街道は四尺道(約1.2m)で狭いが当時の面影が随所に点在する…マツの木や漆喰の家屋、土塀等が…200年前にタイムスリップできる。また船井郡三十三観音霊場の第十一番札所の慈眼寺(筆子塚の寺)より東に大堰川(桂川)が流れ、往時の街道は川に沿って続いている。…日吉町へそして海老谷峠を越え玉岩地蔵堂へ…小浜へと。(注)玉岩地蔵堂は隔夜信仰の寺でもある(ブログ参照)。




船岡集落の街道筋に愛宕信仰の石灯籠が一基建っている。その下に『道標』があり、歴史街道の落穂を拾ってみた。
自然石の中央『左』『とのた』『わかさ』の銘が刻まれている。
(タテ:45㎝  ヨコ:32㎝)


愛宕山石燈籠前は、若狭街道筋、道標を確認し、わらじの紐を締め直し、日吉の海老谷峠へと歩いたのでしょう…

園部町の道路元標を訪ね…

2021-09-19 | 街道
園部町船岡の道路元標

(南丹市園部町船岡大将軍)

道路元標探しは面白い…! 園部町船岡に歴史の落穂を発見!

その昔、船岡は大堰川水軍の拠点として栄え、小浜と園部を結ぶ若狭街道や山陰街道が通り、鍛冶屋・酒屋・魚屋・木挽屋・料理屋等々があった。また鳥羽宿場として旅籠が街道沿いにあり旅人で大いに賑わったところである。
今、南丹市園部町船岡大将軍の四叉路 の角に『川邉村道路元標』が建つ。園部町内で二基目の確認である。



これは道路元標(どうろげんぴょう)で、道路の起点・終点を示すものです。正面に「川邉村道路元標」と刻字されています。
 1919年(大正9年)に施行され、市町村に道路元標が設置された。各市町村を通る主要道路の交差点や役場等、公共施設内に置かれることが多い。
当時、市町村間の距離を示すものであったが、昭和27年に新道路法ができ、旧道路法は無効となる。
時代は高度経済成長期に入り道路拡幅工事等が進み、いつの間にか処分されてゆく…・? 今、道路元標としての役目を終えた。…忘却となりつつある。

形状・寸法は決められ、花崗岩製の石を使う。高さ63cm、幅25cm、奥行25cmで頂部が弧を描くように丸く削られる。埋設部(土の中)100cm必要。なので全長は170㎝程となります。※旧船井郡(園部町、八木町、丹波町、日吉町)に13ケ所現存する。
大堰川


国宝普済寺観音堂道の碑 園部町若森

2020-03-21 | 街道
『国宝普済寺観音堂道』の碑
園部町の南大谷、若森、埴生(はぶ)の集落の中を国道372号線が東西に走るが、この線はかっての山陰古道(丹波古道)と呼ばれていた。その中でも埴生は街道の宿場町として大いに栄えたところであった。
この山陰古道(丹波古道)沿いの南大谷と埴生との境に『国宝普済寺観音堂道』の碑が建っていた。旧法の時代であったので国宝となっているが、現法では″国重要文化財″と変更されている。昭和10年に現在地に移転されたようです。
道標(碑)の大きさは、高さ155cm・幅28㎝・オク24㎝、材は地元産の花崗岩を使っている。碑の裏面には『昭和10年建』と刻む。
石の重さを計算すると1.55*0.28*0.24*2.65=0.276 約276㌔(埋設除)
(高さ・幅・オク・石の比重)
国寶と冠に付く碑は非常に珍しい!…園部町では他に類例はない。当時を知る上での貴重な文化財である。
現在は亀岡から姫路を結ぶ国道372号線は、時代の要請に応えきれなくなり、交通の円滑化等に向け、国道のバイパス建設が本梅川に沿い進められ、開通(平成26年部分開通)し…時代の役目を終えた山陰古道は静かな生活道となっている。


<国宝普済寺観音堂道、この碑から左へ行くと普済寺へ>


<碑の裏には昭和10年建と刻まれる>


<時代の役目を終えた山陰古道は静かな生活道になっている…>

園部町天引峠の今昔

2018-03-22 | 街道
天引の薬師堂
園部町の埴生からR372号を西へ、天引峠を越えると天引の集落が目に飛び込んでくる。村は山裾に寄り添うように点在している。ここに小さな薬師堂が風景に溶け込んでいる。



この薬師堂には薬師如来像が祀られ、病気・ケガや苦悩を癒して下さる慈悲深い仏がおられる。このお堂の前には往古から道があった。さかのぼること646(大化2)年に山陰道となり、大和から丹波、丹後、但馬、因幡、伯耆、出雲、岩見、隠岐を結ぶ国造りの道となる。
江戸時代は篠山街道として往来が盛んで、天引は宿場として栄えた歴史を持つ。
薬師堂は村の人々や旅人の無病息災と旅の安全を願って建立されたもの伝えられている。これを証すものとして、薬師堂の鰐口(わにぐち)に寛文8(1668)年戊甲と刻まれている。この頃にお堂が建立たれたのでしょう。歴史は古い。


篠山街道の〝蔵〟

2018-03-19 | 街道
旧宿場町埴生の〝蔵〟に引かれ…
街道に蔵(くら)がよく似合う。埴生は人・物・文化等が行きかう宿場町として繁栄した。宿場の中心部街道沿いに米嘉(屋号)と呼ばれる酒造元があった。創業は嘉永元年(1848)、今から170年前のこと、銘酒「瑠璃乃誉」は爽やかな辛みに仕上げ上撰・蔵出しは癖になる。口いっぱいに広がるまろやか感は広く庶民に親しまれていた。顔を赤らめ…酒談義に商談に花を咲かせたことだろう。…明治を乗り越えた蔵は幾星霜である。

土蔵(どぞう)また蔵(くら)は日本の伝統的な建築様式で、切妻造が一般的。柱間は三尺(90cm)で柱の間に貫(ぬき)という材料を横に入れ、格子状に竹を細かく入れシュロ縄で下地をつくる。ここに壁土を何回も塗り重ね、20cm程の厚さに仕上げる。仕上げにその上に漆喰(しっくい)を塗る。蔵は防火・防湿・防盗構造に優れた建築物である。