ひと筆めぐり 【新発見・再発見・摩訶不思議・唯一無二】への楽しみ…

地域に息づく歴史のひと幕にふれ、…遥かなる往時に思いを馳せる

園部町船岡の隔夜地蔵

2021-09-26 | 石仏
園部町船岡の隔夜地蔵尊


街道や古道歩きをしていると、石造物に刻まれた銘文に目が止まる…読みたくなる!
JR山陰線船岡駅の東北、徒歩10分程のところに安養寺(廃寺)がある。その山裾を少し上がった所に、内藤一族の墓地がありここに隔夜信仰』にかかわる『地蔵尊一基(石造物)』が建っている。
隔夜信仰とは穴太寺(亀岡市)と玉岩地蔵堂(南丹市日吉町)間を一夜交代で参詣(往来)する。隔夜参りの際は念仏を唱えながら歩く事、約35km。宿は双方の宿坊で泊まる。この修行に入れば連続300日間つづく…念仏修行の一種である。修行僧を隔夜僧・隔夜聖等とも呼ばれていた。
今昔の参詣路(往来路)・古道もあったと思われるが…今は、分からない? 一度、トライしてみたい!…


舟形厚板状地蔵一尊板碑

花崗岩製で造られ上部で折れ損しているが奇麗に修復されている。セメント修復の為、銘文の一部が読み取り不可となる。
全体を舟形に造られ、形状は高さ110㎝、幅48㎝、像の厚み6㎝の舟形光背をもつ。地蔵立像は右手に錫杖・左手に宝珠を捧げている姿は一般的なスタイルであるが、注目は光背部に刻まれている銘文が非常に珍しい文化財級の逸品である。


正面右【海老□□蔵 穴太寺□音 三百日隔夜】
左【享保七年壬寅十月廿四日 願主極心】

銘文はかなり風化が激しく解読不可も多い為、一部、【丹波5】を参考させて戴いた。
【この銘文の意味は『玉岩地蔵堂(海老谷地蔵)』と『穴太寺観音』の間を三百日間にわたって毎日隔夜修行を行う、その満願記念に安養寺の僧「極心」が、享保七年(1722)十月廿四日に地蔵石仏を建立したようです。】

南丹市日吉町四ツ谷に『玉岩地蔵堂(海老谷地蔵)』が鎮座。第45代聖武天皇の天平18年に創建する古刹。現在無住です。隔夜参りの寺玉岩地蔵堂⇒穴太寺

亀岡市穴太寺(西国三十三観音第二十一番札所)、本尊は聖観世音菩薩です。隔夜参りの寺穴太寺⇒玉岩地蔵堂








出雲神社の小宮に『八坂神社』さん 其②

2021-09-22 | 神社仏閣
出雲神社の小宮に『八坂神社』さん 其②…疫病の歴史
(園部町埴生倉谷9)

世界中で新型コロナウイルス感染拡大している…怖い。3蜜状態の回避、新しい生活様式へと…やっと出口が見えてきたようだ…油断大敵。
はるか昔より、日本ではさまざまな疫病が流行してきた。そのたびに多くの人々が苦しみ大きな犠牲者をだした。過去を振り返り見えない疫病と、先人たちは…どう向き合ってきたのだろうか…今回は其②です。


近世
江戸時代、一生に一度はかかる三つの疾病(天然痘・はしか・水ぼうそう)はお役三病と呼ばれていた。
「はしか」は、約20年に一度のペースで流行、文久2年(1862)、江戸では数万人の犠牲者がでる。人々は予防や疫病退散を願って「はしか絵」を買い求めた。はしかの神様がこらしめられている様子や、はしかで損をした商売人たちがもうけた人かたちと戦っている風刺画が瓦版となる。入浴・散髪・酒や魚、野菜の飲食を100日間断つ。守らないと病気が再発すると信じられ、多くの人が生活困窮となり、経済的混乱も起きている。
疫病を予言し妨ぐとされる妖怪「アマビエ」「姫魚」等の絵が流行した。江戸後期、瓦版等で疫病の怖さを知らせていた。
緒方洪庵は、欧州で確立されていた天然痘のワクチンを広め、病気にかかる前にワクチン接種で予防に貢献する。日本の近代医学の祖と言われている。
安政5年(1858)、コレラが日本で大流行、かかると三日でコロリと死ぬと云われ、「虎狼痢治準(ころりちじゅん)」の治療手引書を医療者に配っている。
このようにして日本の近代医学が発展して行く礎が築かれてきた。
新型コロナウイルス感染拡大予防に向け、過去を振り返り疫病の怖さを知り教訓としたい。

                                          (参考資料/朝日新聞)

八坂神社末社の前に手水石(鉢)がある。石碑文の正面に『奉納 御宝前 諸願 成就』右側面に『文化十三庚寅年 夏六月十四日』
と刻まれている。この地の八坂さんは1830年に埴生の地に勧請したのではないだろうか?




『筆子中の塚』は寺子屋だ!

2021-09-21 | 石仏
『筆子中』は昔の寺小屋だ!
(園部町船岡堂坂 慈眼寺)

旧船井ごおり三十三観音霊場所の第十一番札所『大法山慈眼寺』がある。この寺の境内に寄せ墓(供養墓)があり、その傍らに『塚』が置かれている。この塚は『筆子中』の文字が刻まれ、寺子屋の教え子(筆子中)たちがお寺の住職を偲のんで建てた塚であろう! 江戸時代末期、寺が地域の子供たちに初等教育である手習いを担っていた。寺が場所を提供し、住職が「読み・書き・算術・ソロバン」を教えます。寺子屋と呼ばれるゆえんである。船岡はその昔、若狭街道が通り大堰川は水軍の拠点地、また鳥羽宿場として賑わったところ。この地域の子どもの教育習得率は高かったことが想像されます。日本の小学校の開始は寺小屋から…1872年(明治5年)より始まり今に至る。このことを覚えておきたい。
園部町にはこの一基のみ!…石造物文化財指定に準ずる逸品である。


碑文(正面)『塚』


碑文(横)『一滴洞水首』(下にデフォルメが刻まれている)


(裏)『筆子中』『江戸 広瀬新蔵 直純』

慈眼寺の境内に寄せ墓(供養塚)があり、その横に塚がある。(写真右)


園部町の道路元標を訪ね…

2021-09-19 | 街道
園部町船岡の道路元標

(南丹市園部町船岡大将軍)

道路元標探しは面白い…! 園部町船岡に歴史の落穂を発見!

その昔、船岡は大堰川水軍の拠点として栄え、小浜と園部を結ぶ若狭街道や山陰街道が通り、鍛冶屋・酒屋・魚屋・木挽屋・料理屋等々があった。また鳥羽宿場として旅籠が街道沿いにあり旅人で大いに賑わったところである。
今、南丹市園部町船岡大将軍の四叉路 の角に『川邉村道路元標』が建つ。園部町内で二基目の確認である。



これは道路元標(どうろげんぴょう)で、道路の起点・終点を示すものです。正面に「川邉村道路元標」と刻字されています。
 1919年(大正9年)に施行され、市町村に道路元標が設置された。各市町村を通る主要道路の交差点や役場等、公共施設内に置かれることが多い。
当時、市町村間の距離を示すものであったが、昭和27年に新道路法ができ、旧道路法は無効となる。
時代は高度経済成長期に入り道路拡幅工事等が進み、いつの間にか処分されてゆく…・? 今、道路元標としての役目を終えた。…忘却となりつつある。

形状・寸法は決められ、花崗岩製の石を使う。高さ63cm、幅25cm、奥行25cmで頂部が弧を描くように丸く削られる。埋設部(土の中)100cm必要。なので全長は170㎝程となります。※旧船井郡(園部町、八木町、丹波町、日吉町)に13ケ所現存する。
大堰川


出雲神社の小宮に『八坂神社』さん

2021-09-18 | 神社仏閣
出雲神社の小宮に『八坂神社』さん 其①…疫病の歴史(園部町埴生倉谷9)
埴生出雲神社の境内に『八坂神社』の小宮があります。京都の八坂神社を祇園さん、八坂さんと親しみをもって呼ばれている。新型コロナウイルス退散の祈願を願い手近な八坂さんを訪ねた…

左…八坂神社の小宮(末社) 右…火皇産君神社の小宮(末社)


古代
「日本書紀」には、疫病は社会に禍(わざわい)を与える神や怨霊(おんりょう)のしわざとされた。人々の対処法は″まじない″や″神頼み″だった。
737年、藤原四兄弟が次々に亡くなっている。天然痘らしい。聖武天皇は恩赦や読経をさせるも収まらない。朕(天皇)の不徳で災厄を生じたと天を仰いだ。

中世
疫病をしりぞける神として信仰を集めた京都・八坂神社の牛頭天王(ごずてんのお)だ。都の夏の祇園祭は疫病退散を願って行われたもの。天神祭(大阪)や神田祭(東京)は疫病退散を願っての祭りである。日本各地の都市祭礼の原点は疫病退散がもとになっている。
これら疫病は海のかなたの異国からもたらされるものと信じられていた。天平の天然痘は外交の最前線(窓口)の太宰府(九州・福岡県)で大流行、全国へ拡散する。朝鮮半島の新羅から九州に侵入したとも…。
海は海外の多くの冨や文化をもたらすが、併せて未知の疫病も運ぶのであった。


遠い先人たちが疫病と戦い、大災難を乗り越えてきた災厄歴史を思い出し、彰往考来することも、時には…いいものです。…新型コロナウイルス退散収束を願っている。


社頭前にヒガンバナ…バックに愛宕神社の石燈籠