ひと筆めぐり 【新発見・再発見・摩訶不思議・唯一無二】への楽しみ…

地域に息づく歴史のひと幕にふれ、…遥かなる往時に思いを馳せる

観音堂の鬼瓦 園部町

2020-09-29 | 神社仏閣
観音峠の観音堂 【瓦遍】
鬼瓦は面白い! 二本の角(つの)が付いた鬼面(きめん)はお寺に多くみられる。厄除け、無病息災、疫病退散等を祈る。眼光鋭くにらみつけられると身が引き締まる。邪気を払ってくれそう…。
その鬼瓦の歴史は古く…室町時代、法隆寺の瓦大工の橘国重が始まりと云われる。
ここ観音峠に観音堂が建つ。お堂の大棟・降棟の鬼面(鬼瓦)に時代・瓦大工銘等が彫られ、瓦文化が楽しめる。但し、肉眼では…文字の読み取りは難しい。カメラの望遠で撮る。その後、拡大して…この方法がベストです。

大棟の端に付く足付鬼(あしつきおに)、破風の拝み部につけられる。

<嘉永三年戌三月> 降棟の鬼瓦は切据鬼と呼ばれ足は付けない

<きざ木瓦屋 □ 万助> 降棟の切据鬼です。瓦大工は地元の木崎村の人のようです。

<瓦屋内 札右衛門> 大棟の足付鬼瓦に銘が入るが、…下からでは限界。

観音峠の『観音堂』

2020-09-28 | 神社仏閣
~観音峠の『観音堂』~ (南丹市園部町上木崎)
京都府を南北に分ける分水嶺が「観音峠」と言われている。ここに『観音堂』が建つ。
この峠(標高270m)から北の川は由良川水系として日本海へ、南は桂川水系として大阪湾へ注ぐ。気候風土・生活文化風習などもこの峠が境となっているようだ。昔から重要な峠である。

古い文献には三戸野峠とも呼ばれていた。江戸時代は旧山陰街道として賑わい、参勤交代の時は藩大名達も通っていたと…。峠道は狭く四尺道(約1.2m)が一般的、今も一部現存する。ここに観音堂が建っている。峠の語源も手向(タムケ)で、峠の神に手を合わせ往来安全祈願を祈ったところでもある。一般的に神を祀るが、時代は神仏習合のころ、この峠では仏が神となり疫病等もここで防いでいたようです。観音堂の由来はここからきたようですね。
南丹市園部町上木崎に位置する観音堂に、旧山陰道・手水石・石灯籠等に思いを馳せ…283年前にタイムスリップ。温故知新。

瓦葺の入母屋造り、方二間の造り。妻側に主屋(もや)から突き出た向拝を持つ。正面には見事な龍の彫物が施され、貫・肘木・虹梁の鼻に付けられた装飾彫刻の木鼻は獏(バク)である。蟇股(かえるまた)や欄間の細かい彫り物は一見に値する。お堂の創建は不詳であるが、お堂前の手水石(ちょうずいし)は元文二年(1737)の銘が、石灯籠には延享二年(1745)と読み取れるところから、この頃に建立されたと推察できる。屋根瓦は過去二度、葺き替えされているようです。鬼瓦には葺き替えた時代と職人銘等が入る。賽銭箱横に台座が不自然に置かれているが!…以前、左手に薬壺を持っ仏(賓頭盧尊さん)が、置かれていたとおもわれる?が…、今はない。お堂内に入られたのか…と思われます。


観音堂の前に一基、お堂の起こり、証の灯籠が
<延享(1745)二乙丑 九月 吉日(今から275年前)> 花崗岩製、風化が進み判読不可に近いが、かろうじて読み下す。

正面に<奉寄進>と彫られ、右側面に<丹波船井郡>と力強く彫られている。

手水石にお堂の建立時期が!… <願主 元文二(1737)丁巳年十二月吉日 敬白>この手水石が観音堂の建立時期と推察しても…大きな誤りはない。

南陽寺(曹洞宗) 園部町

2020-09-22 | 古文書
~南陽寺の起こり~
南陽寺観音堂にこの寺の起こり(由緒)がわかる。堂内の長押(なげし)いっぱいに書かれている。文書は変体仮名交じりで比較的解読しやすいが…難解だ。難しい字にはルビーが付く、解読すれば当時の園部の様子がわかる。一部、解読不可の個所はあるが…お許しを。

< 全文 >


『抑(そもそも)これに安置し奉る
馬頭観音の由来を申奉るに
昔此辺に斗(十)倉長者と以へる人あり
けるが常に此
観世音を尊崇(そんすう)し奉りしに
彼(かの)若狭の国松尾寺ハ世の人
普(あまね)く知所の西国三拾三所の内
弐拾九番の札所にして
本尊ハ則(すなわち) 馬頭観音にて
ましませは一日(あるひ)長者松尾寺へ
詣でけるついで鴻の浦といふ
処に船を浮めあなたしなたと
一見せし所に俄に大風吹来りて
数十艘の船四方八面に漂流し
或ハ破損し或ハ行方知れず
なりけるに此長者の乗し船も
何地とも分難き嶋に吹着ら
れしかはいかせんと憂へ衰
しむ所に夢ともなく現
ともなく観世音現れ出給ひ
て長者に告給ふよらば此処ハ
鬼界ケ島とて世に恐懽し
き処なれハはやばやと爰(ここ)を去
へしと告給ふなれど何地へ
出へき方を知らす憤然とし
て居たおしに後の方に白馬
なく其馬に乗よと呼聲あり
因(よって)馬に打乗しに遥かに雲
を凌(しの)ぎ峰を掛ると思ひしが
忽(たちま)ち此故郷に帰りぬ又此

馬を村落に繋置しに
不思議なる哉(かな)其馬一の枯木
と化しけれは長者奇異の
思ひをなしいよいよ信心肝に銘
じ其木を以て
馬頭観音の尊像を刻ミ此処に
一宇の小堂を建立し是を安置し
奉る其後世々の主君修復を加
られ又寛政年中
泰盛院御殿御代に此堂を再造
し給ふ則三面二臂の御像にして
頭上に白馬の頭を載き給ふゆへ
馬頭観音と名け奉り中興船井
郡三拾三所の内拾九番の札所にし
て最も□□□あらゆる
安楽を請め給ふ人々一心に信仰
し奉れハ身に病難釼難なく
家に盗難災難なく誠に霊験
新にして人の欲する処成就せすと云
事なし又古より三拾五年或ハ五拾
年毎に諸人結縁ため御忌の
法会を執行し来るに今慈又其
巡り年に当り依て旧例に
随(したが)ひ御扉開き尊像を拝せ』

























































桐ノ庄村の記念碑

2020-09-06 | 伝承
桐ノ庄村(きりのしょうむら)の今昔
(南丹市園部町千妻)
その昔、京都府船井郡に桐ノ庄村があった。現在の京都府南丹市園部町の北部一帯をさすと聞く。この内に千妻村(せんづまむら)が、小さな集落である。1889年(明治22年)4月1日に町村制施行により村が誕生、そして1929年(昭和4年)に村が廃止となり園部町へと合併した歴史を持つ。村中に朝倉神社が鎮座、その境内に神木杉の巨木が聳えたつ。
今、千妻から船岡へ至、町道筋(旧若狭街道)に、往時の村の証が残っている。
この道は平成15年度に地方特定道路整備事業として町道船岡千妻線道路として改良されている、この傍らに石標『西南桐ノ庄村』が建っている
その昔、この石標は千妻村の誕生記念か、村廃止町合併(編入)記念として建立されたのではないだろうか?!…今は昔、地元の古老(翁)に石標の元の場所・起こり等聞くが……忘却となる。ただ「旧若狭街道と呼ばれていた頃は、道は狭く四尺(約1,2m)程で荷車・台八車がどうにか通るぐらいであった。道は村の要の生活道・産業道・文化道等であったと、古老は懐かしそうに話す」…今は立派な町道になる、…令和二年、幾星霜を感じる。130年前にタイムスリップ、先人は素晴らしい文化財を残したものである。

<西南桐ノ庄村と銘刻 高さ100cm 幅20㎝ 奥15㎝ 花崗岩製の延べ石使用>

<もともとはこの様な狭い山道に設置、新道完成後に移設ようです>

<町道船岡千妻線道路、石標から千妻集落が一望>