ひと筆めぐり 【新発見・再発見・摩訶不思議・唯一無二】への楽しみ…

地域に息づく歴史のひと幕にふれ、…遥かなる往時に思いを馳せる

『入母屋造りの塩屋館門』 園部町塩屋

2020-11-29 | 歴史
園部町高屋の『入母屋造りの館門』
園部町高屋集落の右端に見える入母屋造りの館門(高屋宅)が見える。その背後の頂に、中世の山城「蜷川城跡」がある。室町幕府の政所の役職についていた蜷川親心の三男親朝が、被官として船井郡桐野河内村につき、高屋集落の山頂に蜷川城を築いたのが始まりとされる。
南北朝以後、荘園は有名無実化となり幕府の力は弱体。そのような中、織田信長の荘園没収が始まり…豊臣秀吉の太閤検地で荘園制度はなくなった。村人は戦国騒乱で田畑は荒らされ混迷する。そんな中、現地の代官より百姓である高屋を村側(百姓)の代表と任命し村の統制に入っている。この館(写真)は高屋の本家宅であり、村には分家・同苗字を名乗る家が数件ある。館の周りは水田となっているが、今も少なからず当時の面影を残している。その昔は見果たす限り水田で…、そのほとんどが高屋の所有地であったとか…。村百姓は高屋の小作者であったようです。

入母屋の破風に揚羽紋(あげはの蝶紋)が付く。
園部町高屋集落に「春日神社本殿」が鎮座する。その由緒には、平 清盛(たいらのきよもり)の進言により社殿を建立すると記す。平氏の家紋は「揚羽紋」(蝶紋)です。入母屋造りの平入り(入口)で棟には千木(ちぎ)が9本、茅葺仕様であるが、今は鋼板で覆っている。母屋は取り壊され当時を知ることはできない…、世の栄枯盛衰を感じます。
(昭和9年生、地元古老&館管理人談)。



<揚羽紋(あげはの蝶紋)>

園部町の古墳(塚)

2020-03-11 | 歴史
千種姫古墳(塚) 【普済寺】
平安時代に天台宗寺院として創建、足利尊氏が夢想国師を開山とし、その弟子となったのが尊氏の妹(千種姫)である。千種姫を寺の開基として創建したと伝えられ、緑の里を愛し一生を終えた千種姫が眠る古墳(塚)を再度訪ねた。
普済寺の観音堂から階段を上がり本堂へ…境内から真っすぐ南へ歩くと、地域の共同墓地にでる、この墓地の一角に土を高く盛った場所があります。径10-15㍍の大きさの古墳(塚)です。真ん中付近で落ち込んで双円状になっているが、もとは一つの独立した古墳(塚)(埋葬された墓)であった。この中央に『千種姫の五輪塔』が置かれ、横穴式室構造になっていると言われている。又近くに″にわとり古墳(塚)″などもあり、その時代の高貴な人の墓も点在する。(花園大、吉田清先生のふるさと探訪、日本地名辞典参考)





<天下太平 萬民普済>

中世の山城 『埴生城(砦)跡』

2019-12-26 | 歴史
園部に新名所誕生 中世の山城『埴生城』
 2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」亀岡市、福知山市等関係する行政、町は俄かに活気づく…。ここ丹南市園部町埴生も明智光秀丹波攻略の際、和睦に統治に向け奔走(活躍)した人物がいる。少し追ってみることにする…。
 その人物は野々口西蔵坊と呼ばれ、金輪寺(亀岡市)の山伏である。
当時、光秀方と行動を共にした。光秀は西蔵坊を、敵対する八上城主(篠山市)波多野秀治との和睦(仲介)交渉役に命じている。多くの丹波の兵が派遣されている。奔走の努力の結果、和睦・統治が成立すると、その証として自分(光秀)の老母を人質として波多野方へ差し出しすことになる。後に光秀は神尾山城(亀岡市)で対面するが、城内で波多野秀治を謀殺してしまう。これに激怒した八上城の家臣達は光秀の母を処刑する。その後、西蔵坊は和睦奔走の疲れから熱病発症、狂死する…。
 埴生城は本目城(神尾山城)の峰づたいに位置する山城で、埴生郷の土豪で野々口氏の居城(砦)であったという。豊臣秀吉が出した一国一城令(1615)により取り壊され、埴生城の山裾に野々口氏の屋敷があり立派な門があったと伝えられ、この門が最福寺(曹洞宗)の薬医門として移築されたと…伝えられていたが、平成七年山門改修時に棟札より、元禄十四年の冬に薬医門として建てたと記されている。
 この春頃、園部の有志住民が山頂(280m)の城周りの立ち木を伐採整備、約300坪?…。園部若森地区内府立農芸高校等一望、園部の新名所誕生、中世の山城ファンにはたまらない癒しのスポットが誕生した。
本丸地は平滑され、虎口・石垣が散在、櫓台があったと思われる高所も現存、その下に石垣が…。櫓台後方の大堀切斜面にも石垣が見られ、野面積みの自然石で組む、その一部が見られる。当時、波多野氏と対峙する最前線を固める砦(城)として担っていたのが分かる。

本丸から南を…若森地区、府立農芸高校、亀岡盆地が一望


虎口・石垣が散在、櫓台が…

最福寺の薬医門(元禄十四年の冬)



明智光秀方の五輪塔

2018-03-09 | 歴史

明智光秀方の供養塔

園部町南八田は豊かな文化財と自然が残っている。ここ「曹源寺」に明智光秀方の供養搭(五輪塔)があることは、…あまり知られていない?

天正三年(1575)頃、織田信長の家臣〝明智光秀〟の武将がいた。主君信長に丹波平定の命を受け進撃を始めた。しかしここには丹波各地域を支配する土豪波多野氏(八上城)、荻野直正(黒井城)、内藤氏(八木城)がいる。在地土豪たちの抵抗は激しく、戦いは一進一退を繰り返す。その戦いの一つが園部町南八田と言われている。光秀軍も亀山城へ総退去をする状況にもなる。…攻撃と和解を繰り返し天正8年(1580)、波多野秀治の籠城する八上城(篠山市)が落城する。ここまで5~6年歳月を要している。 

又、丹波平定の為に、光秀が軍事的拠点として整備したのが亀山城で、「亀山惣掘普請(かめやまそうほりふしん)」の城とも呼ばれている。

所在地:【南丹市園部町南八田 満流山曹源寺】

 

 

 

 

 

 


明智光秀と波多野秀治の合戦

2018-03-07 | 歴史

南八田の五輪塔
(園部町南八田)

天正3年(1575)の頃、天下統一を目指す織田信長は、家臣である明智光秀に丹波平定を命じました。光秀は亀山城を築きここを拠点として、丹波の豪族波多野秀治と戦いを繰り広げました。ここ園部町南八田が主戦場となり八田川を挟んで死闘が展開され、激しい戦いが幾日もつづく…、八田川は血の川となったと云われている。戦いは光秀軍の勝利に終わる。ここに、戦場で亡くなった悲運の武将波多野勢の供養として「南八田五輪塔」として波多野関係者が建てたものです。また八田の曹源寺には明智光秀方の供養塔が山門脇に鎮座する。八田の山裾には小さな一石五輪塔を見ることができます。何れも供養塔と思われます。
※この五輪塔は南八田の中心地、八田橋の横あたりにあります。
(一部、本梅深友会の案内より引用)
https://www.google.co.jp/maps/place/Unnamed+Road,+%E5%9C%92%E9%83%A8%E7%94%BA%E5%8D%97%E5%85%AB%E7%94%B0+%E5%8D%97%E4%B8%B9%E5%B8%82+%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%BA%9C+622-0066/@35.0614155,135.4294913,17z/data=!3m1!4b1!4m5!3m4!1s0x6000456acc9f45c1:0x700140a0af2ca10e!8m2!3d35.0614124!4d135.4310486?hl=ja