ひと筆めぐり 【新発見・再発見・摩訶不思議・唯一無二】への楽しみ…

地域に息づく歴史のひと幕にふれ、…遥かなる往時に思いを馳せる

逸話を追って…にわとり塚

2020-04-16 | 伝承
にわとり塚 雨乞嶽 (園部町若森)
園部町の逸話を追い続けている…。世にあまり知られていないが…興味深い話である。普済寺観音堂は船井郡西国三十三所観音霊場巡りの二十二番の霊所で知られている。お堂正面の鰐口上に御霊歌(和歌)が掲げられている。『大慈山 民をあまねく すくうなる 御寺ふりにし雨乞嶽』とある。さて、歌の中の雨乞嶽は何処なのでしょうか!気にかかる?。
園部町南大河内に雨乞嶽があるが…離れすぎている。郷土古書類を調べていくと…どうも普済寺観音堂の裏山の峰(181m)が、雨乞嶽らしいことが判明。京都府立農芸高校の住所が南大谷下芝雨乞嶽になっている。その数百メートル東に観音堂が建つ。小松林の峰の一部に昭和24年頃、船南中学校が開校、38年頃廃校、その後、園部高等学校船南分校となり…現京都府立農芸高等学校となっている。
この山は地元では「にわとり塚」とも云われ、いろいろの伝説・言い伝えが今に残っている。『この塚(古墳・墓)には金の鶏がいけてあると云われ、正月元旦早朝に、此のところから鶏の声を聴いた人は大金持ち(幸せ)になると言う。いい話ではあるが…いまだに一人も聞いた人はいない』とか…(昭和18年生、地元の方の話)
塚(古墳・墓)は誰のものかは今のところ分かっていない?が、高貴な人…に間違いない。墳墓地は平滑地にされ管理が行き届き塚とおぼしき処に、五輪塔の笠のみが残されている。かってはこんもり築山になっていたように思われる。今は天井が落ち少し窪みが出来ている。この塚より西へ少し歩くと普済寺観音堂の大屋根が見える。


<大慈山 民をあまねく すくうなる 御寺ふりにし雨乞嶽>


<『にわとり塚』の全景、奥の木の根元に五輪塔の笠(径24㎝)のみ確認、供養塔であろう>


<府立農芸高等学校の看板、奥右の山がにわとり塚>


<農芸高校が飼育する牛が、遠景に望む>


層塔(五重層塔)

2020-04-10 | 石仏
層塔(五重層塔) 盛光寺 園部町大河内
【逓減率は0.95】

盛光寺(せいこうじ)の本堂境内、薬医門左側に三界萬霊碑と並んで建っている。『層塔(五重層塔)』を紹介します。
塔身の各部には「如来仏」が彫られている。基礎部の格狭間には室町期(1336~1573)の蓮華が刻まれていところから、室町末期頃の作であろう。各部欠損は無く完璧な園部町の石の文化財の一つである。【 総高165㎝ 相輪高40㎝ 笠高75㎝ 塔身25㎝ 基礎台25㎝ 】
石材は地元の花崗岩を使い薬研彫りで、四面に仏を彫るが尊名までは…難しい、印相からして大日如来のみ判明するが、他は?…。
境内地に大日如来と銘が入った手水舎があり。又大日如来仏の石仏も安置され、地元の信仰心が篤く、この仏には¨よだれ掛け¨がいく重にもかかっている。
層塔は平面が方形(四角形)で、層数五層。この塔の逓減率は0.95のようです。逓減率(ていげんりつ)は層塔をつくる上で大切なもので、層の笠は上に行く程横幅が小さく造ることでバランスの取れた塔(黄金比)になるのです。初層の横幅は34cmですので、2層目は34×0.95=32.3となり順に上層に上がる。塔には必ず逓減の言葉が出てきます。(逓減とはだんだん減ると言う意味です)知ると、分かると面白い……。


<層塔には三・五・七・九・十三重層塔がありますが、すべて奇数の数でつくられる>
<よく見てください、印相に注意! 智拳印は金剛界の大日如来!>
<本堂の扁額には盛光禅寺、見事な書体>

三界萬霊等碑 

2020-04-09 | 石仏
三界萬霊等碑 盛光寺(園部町大河内)
南丹市園部町をひと筆で巡り…只今、園部町大河内に入っている…
集落の高台に盛光寺(せいこうじ)曹洞宗が建つ。境内には二本の松があり、寺のシンボルとなっている。樹齢数百根は経つ老松は、寺とともに栄枯盛衰をくぐり抜けてきたのであろう…。その根元に中世から近世前期に造られたと言われている『三界萬霊碑』『層塔』を建っている。
境内薬医門の左横に二基が並ぶ。三界萬霊碑は高さ87㎝、横33㎝、厚さ20㎝、花崗岩で造られている。正面に『三界萬霊等』と彫られ、上部に月輪、下部には蓮華が彫られており、造った時期銘はない。長年の風雪で判読が困難。
推察域であるが江戸初期の作とみて…大きな誤りはない。
一般的には三界とは、一切衆生の生死輪廻する世界で、欲界・色界・無色界を指すと言われている。萬霊とはありとあらゆる精霊を指すので、これを回向することで有縁無縁の供養となる。
天正三年(1575)明智光秀は丹波平定に入る。地元の土豪波多野秀治(八上城主)が激しく抵抗する。戦いは一進一退を繰り返す。その戦いは5年に及び大河内も古戦場となり巻き込まれ、神社仏閣は焼かれ壊され、両軍の多くの命は大河内で露となっている。歴史を直視し仏教の教えから察すると、萬霊の霊魂を鎮めるために碑を建てたのであろう。現在は無住寺であるが、京都市東別院から法事があれば来られていると聞く…地元古老に聞く。





※明日は三界萬霊碑の横の″層塔″を紹介予定!

鎌掛峠 園部町口司(こうし)

2020-04-06 | 伝承
『峠』には歴史ロマンが漂う。物事の勢いの最も盛んな時を『峠』とも云う。
以前、口司(こうし)の「絹掛松」を紹介した。この府道454を八木町(池ノ内)へ至途中、峠に指しかかります。この峠を『鎌掛峠』と呼ばれています。峠道拡幅工事完了後に新しく峠道碑が建てられたようです。「鎌」は字の画数が多く解読は…中々厄介です。鎌で間違いないでしょう。
一般に「峠」は人・物流・信仰・文化等の経済活動の要を担い多くの人が峠を越え都へ又丹波へと…。その昔、峠道には道の神がいると信じられていた。ありがたくない疫病まで運んでくるので、峠には道祖神(歳の神)を祀り村に禍・病気が入らないようにするところが多かった。
室町時代以降「たむけ」が「たうげ」に転じ、さらに「とうげ」に変わっていく…。諸説あり。
さて、南北朝時代、建武の新政の後の建武二年(1335)足利尊氏は幕府から離反し、九州へ下っています。後再度、尊氏は九州から京(洛中)へ攻め上る。時は(1336)、後醍醐天皇の第一皇子(尊良)親王は、新田義貞と共に、尊氏を迎え撃っが戦力不足、劣勢とみた義貞一行は丹波へ落ちのびます…。その時、旧絹掛村(現口司(こうし))の絹掛松で休憩し、『鎌掛峠』をするのです。この峠の「道祖神」や境の神に手向け(たむけ)、京までの身の安全を願った…『鎌掛峠』伝承が残っています。


<正面には鎌掛峠道路改修碑 (縦・横・高さ) 25*34*60*2.65=135150 約135kg>


<ここより前は八木町の池ノ内へ至>

<峠、鎌掛峠碑の前山に道祖神が祀られている>

<側面(右)には西口司(にしこうし)の銘入>