ひと筆めぐり 【新発見・再発見・摩訶不思議・唯一無二】への楽しみ…

地域に息づく歴史のひと幕にふれ、…遥かなる往時に思いを馳せる

南丹市園部町殿谷の西国巡礼碑二基

2020-01-30 | 石仏
園部町殿谷の西国巡礼碑二基
南丹市園部町殿谷の集落の南端に小山田墓地がある。墓地の脇道を登ると立派な石造物(板碑二基)が建っている。
写真(左)『延宝(えんぽう)九年(1681)八月十八日 奉西国三十三所観世音菩薩  殿谷村同行拾四人』
(右)『元禄四年(1691)□□月、奉供養西国三十三所 同行□人』の紀年銘が入り、何とか解読できるが一部、解読不可有り。この板碑は当時の歴史を知る上で大切な文化財(資料)である。
西国三十三所巡礼は、第一番青岸渡寺(和歌山県東牟婁郡那智勝浦町)から始まり第三十三番華厳寺(岐阜県揖斐郡揖斐川町)まで、巡礼距離はなんと900k㍍を超えるという。巡礼者が霊場で氏名・願文を書いた札を巡礼先の寺に納めます。成就するには数ケ月かかる…。功徳を積む覚悟の巡礼であったと思われます。この板碑はこの人たちが満願成就した記念として建立したと思われます。
江戸前期の頃、村人は自由に他国へ移動することは許されません。この板碑をみているとその時代、社寺参詣をする人については藩主(領主)・庄屋も容認していたようですね。
あくまでも巡礼が目的とした旅であるが、巡礼者は道中各地の景勝地を訪ねたり、その土地の文化に触れたり…巡礼の喜びを旅を楽しんだと思われます。



斎藤別当実盛 (南丹市園部町若森)

2020-01-28 | 伝承
園部町の斎藤別当実盛の居住と虫送り…伝承
文治元年(1185)平家滅亡、平家の大将斎藤別当実盛(さいとうべっとうさねもり)が難を逃れ、孫実房を伴って丹州船井郡若森村に住居する。園部町の古文書有り。(私たちの郷土西本梅より)

平家物語に登場するお話が若森に残っている…
さて『時代は、平安時代末期の平氏の御大将・斎藤実盛(斎藤別当実盛)は、篠原の戦い(1183)に行く途中、乗っていた馬が田の稲株につまずき、バランスを崩し実盛さんは落馬してしまいました。泥だらけになった武具を脱ぎ、近くの小川で洗っていた…その時、隠れていた源氏方の敵兵に後ろから槍で突かれ、討ち取られてしまいます。実盛はその恨みを稲虫(稲につく害虫の事)に化け、稲を食い荒らすようになったという』。実盛の居住説と共に伝承が若森に残っている。かっては百姓衆は実盛の怒りを鎮め又田の虫(害虫)退治をしています。村人は手に手に松明を持ち鐘・太鼓を鳴らし勇壮な虫送りをしていたのでしょう…遠い話の事です。  (注)時代考証をすると、伝承話と年代がかみ合わないことお許しを…。(写真は本文とは関わりなし)


<若森の入母屋造り門の平入りとして造られている> 

<保存状態良好、破風も立派>

宝篋印塔【隅飾角軸有段搭】 園部町若森

2020-01-27 | 石仏
宝篋印塔【隅飾角軸有段搭】 園部町若森
若森の中央に本梅川が流れ、昭和15年に河川改修され、右側は山手、左側に新田(耕作地)が造成された。今回は山手側の石造物を訪ねた。
基礎・搭身・屋蓋(おくがい)・相輪の四部よりなり、屋蓋を上・下段形に造り、軒の四隅に馬耳状の隅飾と呼ぶ突起を立てる。この様な石塔を「宝篋印塔」と云う。
この種の塔は鎌倉中期(1284)ころより供養塔として始まり、この時代の後期頃が宝篋印塔の黄金時代を形成している。注目は隅飾りの装飾文の有無、基礎に格狭間が入るか否か、塔身に月輪や梵字(種子)を配置しているかを見る。宝篋印塔は宝塔と並び、中世の搭中で最も形式や手法が複雑である。故高価な石塔と云える。中世の地方史研究上、注目すべき宝篋印塔である。
若森の宝篋印塔は二段の小石垣積、周りには石造物の破損残欠が寄せ集められ、その中央に「宝篋印塔」が建っている。この塔は閃緑岩(花崗岩製)で造られ、相輪の伏鉢・請花と九輪の7.8.9輪目が欠失しているが、残っている各輪形は克明に造っている。屋蓋の隅飾は二弧輪郭なのか一弧輪郭なのか…?長年の風雨天災等による剥離が大きく一弧輪郭となっている。
塔身には輪郭・月輪を造らず直接金剛界四仏の「阿閦(あしゅく)東」「宝生(ほうじょう)南」「阿弥陀(あみだ)西」「不空(ふくう)北」を配置、種子(梵字)は端正な刷毛書きで、光の当たり具合で浮き上がり解読可。基礎には反花を付けていないのが大きな特徴である。生駒市往生院墓地の正元元年の宝筐印塔によく似た造りである総高は四尺五寸(135cm)塔として造られ多と思われます。過去幾度ともなく自然搭壊・災害搭壊等に合っている。そのつど壊れ又組立られ管理されています。各部の摩耗損傷で判断できる。各部に古い形態の様式をみる。無銘塔なので正確な時代は推測域となるが…鎌倉後期~室町前期頃に造られたものか…。


<宝篋印 四尺五寸塔(135cm)>

<塔身に梵字、阿閦(東)・宝生(南)・阿弥陀(西)・不空(北)>

<屋蓋(おくがい)、相輪の上部欠失>

 春日神社の石灯籠

2020-01-22 | 自然

南丹市園部町口入(くちうど) 春日神社の石灯籠
園部町の自然、歴史、社寺等のふところにつかっている。四季を通じてよく訪れる馴染の「春日神社」、私の癒しの場所でもある。ここに立派な灯籠が一基建つ。今回は石灯籠をウォチング。
地元に産する自然石(堆積岩)を使っている。灯籠は無銘であるが地区(口入)の方の愛宕信仰の石灯籠で、火袋は木で造られているが全体整った灯籠である。園部町のどの地区でも普通に見られます。その昔は愛宕講が盛んにおこなわれていたようで…今も信仰が続いている。
石は本梅川流域に広く存在する堆積岩で礫岩(レキガン)・砂岩(サガン)・チャート・泥を含む。古生代に堆積しできたもので非常に硬い岩石(石)です。チャートは火打石とも呼ばれています。よく見ると鳥居の礎石、神社本殿の礎石にも使われている。裏山全体が堆積岩であるようですね。


「弁慶のたて石」(伝説・逸話)

2020-01-16 | 伝承
 
園部町南大谷 「弁慶のたて石」 (伝説逸話)
 
園部町南大谷の道沿いに『弁慶のたて石』がある。地元に残る興味深い話を起こしてみましょう…。
寿永三年(1184)冬、源義経に仕えた、武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)。弁慶には様々な伝説がありますが、ここ園部町大谷地区にも残っています。
寿永三年(1184)冬、源義経は神戸福原に陣を構えていた平家を攻めています。
義経本隊は摂津路を正面から洛中→老ノ坂→亀岡→本梅→天引峠→福住→三草→三木を経て一の谷を急激しています。
この義経に従っていた武蔵坊弁慶は一個の巨石を背負い戦っていました。巨石は戦いが終わったら義経公の庭にたて石として使う為に背負っていたものですが、あまりにも重いので、あきらめて大谷に置いていったと言われています。

石の重さは約2.1t  【タテ×ヨコ×高さ×比重 (注)石の比重は2.65として計算する】