釣れづれNickey

時々行く釣りや身近な出来事などのレポートです。つれづれなるままに、心にうつりゆくよしなし事を・・・。

自分の心と直感に従う勇気を持て!

2022年11月13日 | いい話
 Your time is limited,so don't waste it ・・・
スティーブ・ジョブズではないですか!思わず買ってしまった!電波時計でもないのに少々高かった!😵私が昨年教えてたクラスの生徒はスティーブ・ジョブズのこのページみんな暗唱しました。多分今でも言えるはず!

 Your time is limited, so don't waste it living someone else's life. Don't be trapped by dogma , which is living with the results of other people's thinking. Don't let the noise of others' opinions drown out your own inner voice. And most important, have the courage to follow your heart and intuition. They somehow already know what you truly want to become. Everything else is secondary.

 あなた方の時間は限られています。だから、他人の(本意でない)人生を生きて時間を無駄にしないでください。

ドグマ(定説)にとらわれてはいけない。それは他人の考えに従って生きることと同じです。

他人のあれこれ言う意見に、あなた方の内なる声がかき消されないように。

そして何より大事なのは、自分の心と直感に従う勇気を持つことです。

あなた方の心や直感は、自分が本当は何をしたいのかもう知っているはずです。

ほかのことは二の次なのです。

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支えられ頂点「感謝」・・・内川聖一外野手の手記  

2011年10月02日 | いい話
~西日本新聞10月2日朝刊より~
ホークスを勝たせるためにここに来た。それくらいの覚悟だった。ホッとしたというのが正直な気持ち。我慢しようと思っていたのに、9回裏、こみ上げるものを押さえきれなかった。胴上げをしてもらったのは本当に驚いた。仲間として認めてもらえたのかな、と。

2008,09年と横浜で2年続けて打率3割を残した。その頃から、違う環境に身を置くことに興味が出た。チームが勝つ中で自分自身の活躍、存在を見てみたい。そう感じるようになっていた。「横浜なら間違いなくレギュラー。引退しても指導者として球団に残れるだろう」。そう言ってくれた人もいたが、やらなくて後悔するならやって後悔する方がいい。移籍してチャレンジしない手はないと思った。

大分工高1年の夏、大分県内の医大で骨のう腫にかかった左かかとの手術を受けた。サッカーをしていた中学時代の同級生も同時期に入院していた。彼は、骨肉腫で亡くなった。ショックだった。そのときからだ。頑張れるのに頑張らないのは失礼だ、と。迷ったら前に進む。何事もそう考えるようになった。

妻(元フジテレビアナウンサーの翼婦人)は「仕事を辞め、ついていく覚悟がある」と言ってくれた。アナウンサーという仕事も頂点を目指してやる仕事。それも理解して結婚したつもりだった。まだやりたい、というなら、単身赴任でと思っていた。だからそう言ってくれたとき、心から安心できた。

6月には太もも肉離れという初めてのけがもした。秋山監督からは「終盤の一番大事な時期にいないのは困る」と言ってもらったが、内心では「今も大事なのに」と葛藤があった。復帰後、思うような打撃が出来なかった。下を向きかけたところで支えになったのはみんなの背中だった。

首を痛そうにしていた小久保さんがダイビング捕球していた。1点ビハインドの九回無死走者なし、涌井(西部)から四球を選んだポン(本多)はガッツポーズしていた。新鮮だった。このチームの選手たちはこういう思いで野球をやっているのか、と思うと、愚痴を言ったり落ち込んだりする暇はなかった。

好機で打席を回してもらった。自分自身のことに全て責任を持つ。その思いでやってきたけれど、周りが作ってくれたものに僕は生かされたと思う。リーグ優勝した今、まず支えてくれたみんなに伝えたい。「感謝」。この言葉しかない。(福岡ソフトバンク外野手)
 


*何かを成すひとはやっぱり違うなあ。私自身はあまり野球には興味はありませんが、偉業をなしても周りのお陰だと感謝するところなど、あくまでも謙虚ですね。ファンになりそう^^







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神様からのメッセージ

2010年10月07日 | いい話
大野勝彦 詩画集より

神様からのメッセージ

それでも生きるんじゃ
それだから生きるんじゃ
何だ偉そうに
「格好悪い。ああ人生はおしまいだ」
なんて、一人前の口を叩くな

あのな、お前が手を切って
悲劇の主人公みたいな顔して
ベッドで、うなっていた時なー
家族みんな、誰も一言も
声が出なかったんだぞ
ご飯な、食卓に並べるのは並べるけど、
箸をつける者はだぁれもいなかったんだぞ

これまで一度も、神様に手なんか
合わせたことがない三人の子供らなナ
毎晩、じいさんと一緒に、正座して
神棚に手を合わせたんだぞ

バカが
そんな気持ちも分からんと
「何も生きる夢がのうなった」
「他の人がバカにする」
そんなこというとるんだったら
早よ、死ね
こちらがおことわりじゃ
お前のそんな顔見とうもナイワイ
どっか行って、メソメソと
遺書でも書いて、早よ、死ね

なー体が欠けたんじゃ
それでも生きるんじゃ
それだから生きるんじゃ
考えてみい、お前の両親いくつと思う
腰曲がって、少々ボケて、もう年なんじゃ
一度くらい、こやつが、私の子供で良かった
「ハイハイ、これは私達の自慢作です」って
人前でいばらしてやらんかい
もう時間がなかぞ

両手を切って、手は宝物だった
持っているうちに、気づけば良かった
それに気づかんと、おしいことをした
それが分かったんだったら
腰の曲がった、親の後ろ姿よー見てみい
親孝行せにゃーと、お前が本気で思ったら
それは、両手を切ったお陰じゃないか・・・・・・
今度の事故はな
あの老いた二人には、こたえとるわい
親父な、無口な親父な
7キロもやせたんだぞ
「ありがとう」の一言も言うてみい
涙流して喜ぶぞ、それが出来て
初めて人ってもんだ

子供達に、お前これまで何してやった
作りっぱなし、自分の気持ちでドナリッパナシ
思うようにならんと
子育てに失敗した、子育てに失敗した
あたり前じゃ
お前は、子育ての前に
自分づくりに失敗してるじゃなかか

あの三人は、いじらしいじゃないか
病室に入って来る時ニコニコしとったろが
お前は「子供は俺の痛みも分かっとらん」
と俺にグチ、こぼしとった
本当はな、病室の前で、涙を拭いて
「お父さんの前では楽しか話ばっかりするとよ」と、確認して
三人で頭でうなづき合ってからドアを開けたんだぞ
学校に行ってもなー
「俺の父さんは手を切ってもすごいんだぞ。
何でも出来て、人前だって平気なんだぞ」
仲間に自慢しているっていうぞ
その姿思ってみい
先に逝った手が泣いて喜ぶぞ

しゃんとせにゃ
よし、俺が見届けてやろう
お前が死ぬ時な
「よーやった。お父さんはすばらしかった。父さんの子供で良かった」
子供が一人でも口走ったら俺の負けじゃ
分かったか
どうせまた、言い訳ばかりしてブツブツ言うだろうが
かかってこんかい!
歯をくいしばって、度胸を決めて
ぶつかってこんかい
死んだつもりでやらんかい
もういっぺん言うぞ
大切な人の喜ぶことをするのが人生ぞ
大切な人の喜ぶことをするのが人生ぞ

時間がなかぞ・・・・・・・・・・・
時間がなかぞ・・・・・・・・・・・




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あさがくると・・・・25回忌にて

2010年02月07日 | いい話
土曜日は父親の25回忌法要でした。早いなあ!!
この写真は、お坊さんのお経のあとのお話の一こまです。
赤の線の所には何という言葉が入るでしょうか?(全部同じ言葉です)(少々長めです)
ちょっと考えて見て下さい。

お坊さんの法要のお話ですから、生きることに関する言葉です。
我々が今生きているのは、周りのいろんな人や物のおかげであると。
なかなか奥の深い詩です。自分の周りの万物に感謝です。

食事をする時に“いただきます”と言ってますか?
命をいただきます、と食べ物に対し感謝する言葉です。
明日から食事の前には忘れずに言うようにしましょう。
自分が生きるために他の命を犠牲にしているのですから。


答えは “ぼくが作ったものでもない” です。




法要の後は宴会(^^)です。
父の姉妹は一人亡くなりましたが二人はまだ元気に暮らしています。
父の一番上の姉が今年91歳です。足は少し不自由ですが全くボケなしです。


やっぱり龍門の鯉は美味いなあ。鯉にも感謝です。
これは鯉のあらいです。よく冷えてます。
鯉こくも美味しかった。“ご馳走様でした”

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おすすめの本・・・奇跡のリンゴ

2010年01月10日 | いい話
大変感動しました。一度木村さんのリンゴを食べてみたいです。

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感動しました・・・・・理想の授業

2009年12月17日 | いい話
ちょっと目にしたいい話・・・私もそう思います。
 
 早いもので、冬の三者面談が近づいてきた。夏の面談で思い出すのは、こう訴える保護者が数名いらっしゃったことだ。
「先生、うちの子をびしびし鍛えて下さい」「(息子を)たたいてやってください」
 その都度答えに窮し、私は「はあ」とお茶を濁した。そうしながら、私はいつか見た伯母の夢を思い出していた。

 私の母方の伯母は、一言でいうと情け深い人だ。私ががんを患い、初めの抗癌剤治療を終え、抗菌室から一般病室に移ったとき、母は伯母を病室に連れて来てくれた。伯母は、髪がすっかり抜け落ちた私の頭を見て、「辛い思いしたね」と手を強く握りしめ、私の手の上に涙を落とし続けた。
 私の母が亡くなったとき、病室でも葬儀場でも伯母はずっと押し黙っていたが、火葬場で母の棺がまさに火葬室に入れられるとき、伯母は棺にすがりついた。
「てるちゃん、てるちゃん、てるちゃん・・・・」
 伯母は、何度も何度も母の名を繰り返して、号泣した。伯母と母は年がやや離れており、母はよく伯母に可愛がってもらっていた。

 教員をしていると、必ず授業の壁にぶつかる。校務分掌が増え、責任が増え、いつしか授業が片手間になったりする。
 私が20代、嘱託講師でまだ担任を持たなかったとき、理想の授業を自分なりに追い求め教壇に立ち続けた。1分前に廊下に立ち、チャイムと同時に授業。年間で1秒も無駄にしない。徹底した授業準備。秒単位のリズムある指示・授業展開。生徒の予習不備を叱責し、立たせる。徹底した宿題の督促。宿題回収率100%死守。持ちクラスの英語成績の良し悪しや外部模試の偏差値に一喜一憂していた。
 ところが30代になり、担任を持ち、部活顧問を務め、授業準備が後手になり始めた。私は理想とかけ離れた授業を展開し悩み始めた。

 そんなある日、私は伯母の夢を見た。それは、伯母の葬儀の夢だった。伯母は健在なので、大変不謹慎な夢である。その架空の葬儀中、伯母の生前ビデオというものが上映された。伯母はなぜか、数学の教師になっていて、教壇に立っていた。
 穏やかな笑みをたたえて、生徒を、私を見つめた。それは、笑顔という範疇を超えていた。大仰な物言いかもしれないが、全人類の優しさを一つの顔に集約したような、仏というものが実在したら、あのような笑みになるのだろうか、というような、清廉で、吸い込まれるような笑顔だった。
 伯母は計算をいくつかして、授業の終わりに次回の連絡を板書した。字の誤りがあり、生徒がどっと笑った。
 伯母は、生徒と一緒になって笑った。目じりをいっぱいに細めて、笑った。

 そこで目が覚めた。私は泣いていた。呆然として、しばらく寝床から起き上がれなかった。
 その日を境に、私は変わった。教科研究をほどほどに、私は生徒と接し、生徒を想うようになった。また授業は、素のままの私を、未熟な人間を晒すようになった。
 やがて、生徒がたくさん話しかけてくるようになった。授業中、生徒から学ぶことが多くなった。生徒からプレゼントや手紙をもらうようになった。授業後や掃除時間、生徒が私を囲むようになった。そして、生徒と腹いっぱい笑うことが増えた。


実際威張っている教員が多いです。自戒したい。
kちゃん素晴らしい文をありがとう。私はこの文を読むたびに涙がでます。


そんな中、灘中学校の木村先生と出会う機会があり、また初心に戻って頑張りたいと思い始めている。木村先生が言われていることで、ハッとした文があった。

「灘でも『家でやってこい』では通じない。だから僕の目の前で暗唱させて、できたら帰ってもらう。できないならできるまで残ってもらう。妥協しなければ結果はでる。」   肝に銘じたい。




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キムタツ・・・キムタクじゃないよ。

2009年11月11日 | いい話
キムタツブログ
今週末我が社に来て講演していただくキムタツ先生のブログ。
ためになること一杯です。中・高校生に読んでもらいたいです。
極めたいという情熱があれば

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Nick Vujicic - - 希望、勇気と感動の人生 (日本語字幕)

2009年06月21日 | いい話
Nick Vujicic - - 希望、勇気と感動の人生 (日本語字幕)


「腕無し、脚無し、心配なし」そして、「限界無し」

とても素晴らしいです。これを見ると、努力というのがどんなものかよくわかります。

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これは面白い本です。

2009年05月13日 | いい話
450ページ以上ある大作ですが、大変面白い本です。お薦めします。
最後は涙まで出ました。(単純なものですから・・・・・・ ;;)

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ちょっといい話(卒業式で聞いたものです)~人の心の痛みが理解出来る人になりたいものです~

2009年03月13日 | いい話
小学校で5年生の担任をしていた教師の話です。
その先生は、小学校5年生の担任になった時、自分のクラスの中に一人、
どうしても好きになれない少年がいました。服装が不潔でだらしなく、好き
になれなかったのです。先生は、中間記録に、少年の悪いところばかりを
記入するようになっていました。

ところが、ある時、少年の1年生からの記録が目に止まりました。

1年生の時は、
「朗らかで、友達が好きで、親切。勉強もよくでき、将来が楽しみ」
と記録されていました。

「間違いだ。他の子の記録に違いない。」と、先生は思いました。

2年生になると、
「母親が病気で世話をしなければならず、時々遅刻する」
と記録されていました。

3年生では、
「母親の病気が悪くなり、疲れていて、教室で居眠りする」

3年生後半の記録では、
「母親が死亡。希望を失い、悲しんでいる」

4年生になると、
「父は生きる意欲を失い、アルコール依存症となり、
 子どもに暴力をふるう」

先生の胸に激しい痛みが走りました。

ダメと決めつけていた子が突然、深い悲しみを生き抜いている生身の
人間だと感じられたのです。先生にとって、目を開かれた瞬間でした。

放課後、先生は少年に声をかけました。

「先生は夕方まで教室で仕事をするから、あなたも勉強していかない?
 分からないところは教えてあげるから。」

少年は初めて笑顔を見せました。

クリスマスの午後、少年が小さな包みを、先生の胸に押しつけてきました。
あとで開けてみると、香水の瓶でした。

亡くなったお母さんが使っていたものに違いない。
先生はその一滴をつけ、夕暮れに少年の家を訪ねました。

一人で本を読んでいた少年は、先生に気がつくと飛んできて、先生の胸に
顔を埋めて叫びました。

「ああ、お母さんの匂い!きょうは素敵なクリスマスだ!」

6年生の時、先生は少年の担任ではなくなりました。
卒業の時に、少年から一枚のカードが届きました。
「先生は僕のお母さんのようです。
 そして、今まで出会った中で、一番すばらしい先生でした。」

それから6年が経ち、またカードが届きました。
「明日は高校の卒業式です。
 僕は5年生で先生に担当してもらって、とても幸せでした。
 おかげで奨学金をもらって医学部に進学することができます。」

さらに10年が経ち、またカードが届きました。

そこには、先生と出会えたことへの感謝と、父に叩かれた体験があるから
患者の痛みがわかる医者になれると記され、こう締めくくられていました。
「僕はよく5年生の時の先生を思い出します。 あのままダメになってしまう
僕を救ってくださった先生を、神様のように感じます。大人になり、医者に
なった僕にとって最高の先生は、5年生の時に担任してくださった先生です。」

そして1年後、届いたカードは結婚式の招待状でした。

「母の席に座ってください」
と一行、書き添えられていました。

(「到知」12月号 到知出版社より)
コメント (2)
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超一流の人間の共通点

2009年03月13日 | いい話
 私はさまざまな方とお会いしてお話をしますが、学者でも経営者でも作家でも、どんなお仕事をされている方でも、超一流と言われる方たちはみなさん謙虚でいらっしゃいます。その道では大家とか大御所と言われるような方たちが、自分の能力や地位に驕ることなく、「私などは、まだまだ未熟です」とおっしゃるのです。自分の才能や実績を誇示するようなことは、一切おっしゃいません。その慎み深いものごしに接したときに、私は深く感銘を受けるとともに、自分自身の小ささを自覚して、襟を正す思いになります。
 『老子』の中に、「上善は水の如し」という有名な言葉があります。上善とは、最上の生き方のことですが、それは水のようなものだというわけです。私たち人間は、自分を上に見てもらいたいと焦ったり、人と接するときも、自分のほうを上の優位なポジションに持っていこうとすることがあります。一方、水は自ら低いところへと流れていくので、他と競争することがありません。自ら低いところへ身を置こうとするこの謙虚さと、どんな形にも変化する柔軟さが水の特長であり、それこそが私たち人間にとっても最上の生き方だと、老子は教えてくれるのです。

 ふつう私たちは、何かで成功を収め、それなりの地位や実績を手に入れると、「自分がすごいから成功したのだ」と驕ってしまいがちです。そして、才能や地位や実績を誇示したくなります。しかし、このように謙虚さを失った状態では、自らの生き方を深く反省することがないので、人間として成長できません。一方、超一流のレベルにまで到達する人は、謙虚さがあるからこそ、常に自らを省みることができ、人間としてどこまでも深く大きく成長していけるのです。この謙虚さはどこから生じるのでしょうか?
 私は、謙虚さの源になるものは次の二つだと思っています。一つは、“ おかげさまの精神” です。おかげさまの精神とは、「自分の力で生きている」と考えるのではなくて、「自分は、水や空気や太陽のおかげで、大自然のおかげで、ご縁あるたくさんの人々のおかげで生かされている」と考えることから生じる、“ 慎みをともなう深い感謝” です。これは、「何かいいことがあったから感謝する」という条件つきの感謝ではなく、「今こうして生かされているだけでありがたい」という無条件の、最上級の感謝です。
 この精神を内に持つ人は、どんなに成功しても、それを自分の手柄と考えて自己満足するのではなく、それを自分の役割や使命と考えて感謝します。「おかげさまで、ここまで来させていただいた。自分の役割があるというのは幸せなことだ。さらに自分の役割を全うして、世の中にもっと恩返ししたい」という心境になるのです。
 こうなると、競争相手を意識することもないし、仮にナンバーワンの状態になったとしても、それに満足して止まってしまうことがありません。このような心境になった人が、どこまでも高みに上っていかれるのは当然かもしれません。謙虚さの源となる二つ目のものは、“ 本物の自信” です。私たちは、自分に自信をもてないときに、才能や地位や実績によって自分を飾ろうとします。そのままの自分ではだめだと思うから、自分を他人から認めてもらうための証拠を集めたくなるのです。
 そしていつのまにか、その証拠( 才能や地位や実績) と自分を同一視してしまいます。つまり、自分のアイデンティティ( 自分が自分である証) を、才能や地位や実績に置いてしまうのです。だからこそ、自分の価値を証明するために才能や地位や実績を得ることに必死になり、それらを手に入れた結果、「自分はすごい人間になった」と錯覚するのです。この場合、「才能や地位や実績を手に入れたからこそ、自分には価値がある」という考えになってしまうので、まだそういったものを手に入れていない人を見下げるようになり、謙虚とは程遠い、傲慢な人間になってしまいます。
 一方、本物の自信を持っている人は、「能力や地位や実績に頼らなくても、自分の存在はそのままで素晴らしい」と感じているので、自分を能力や地位や実績と同一視することがありません。成功して能力や地位や実績が手に入っても、「自分が偉くなった」と錯覚することはなく、むしろ「たくさん与えられてありがたい」と感謝するようになるのです。また、本物の自信があるからこそ、謙虚ではあっても決して卑屈にはならず、つつましさの奥から輝きが感じられるような、そんな存在感を周囲に放つのです。
 ナイチンゲールが書簡の中で、「人間は賞賛を勝ち得ているときが、最も危険なときである」と語っています。また、『菜根譚』にも、「順調にいっている時ほど、慎みを忘れないようにしなければならない」という意味の言葉が出てきます。
私たちは、人生が順調なときで、まわりから高い評価を得ているときに、謙虚さを失ってしまいがちなのです。心しておきたいものですね。
 一方、人生で大きな困難や逆境に直面したとき、私たちは謙虚になるチャンスを与えられていると言えます。それは、順調にいっていたときのありがたさに感謝するチャンスであり、また、自らの生き方を深く反省して、人間として大きく成長するチャンスなのです。
 順調なときこそ謙虚になり、また、逆境に出合っても謙虚になる。そんな生き方を実践していった先に、私たちは超一流と言われる人間になるようです。

※ この文書は、拙著 『心眼力 ~ 柔らかく燃えて生きる3 0 の智恵~( C D 付)』
( 野口嘉則 著、サンマーク出版)の中から、その一節を抜粋したもので
す。この内容を誰かに教えてあげたいと思われたら、このファイルをメ
ールに添付して転送することも、コピーして配ることも、自由にやって
いただいてO K です。 野口嘉則

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ある店で見つけたいい話

2009年03月06日 | いい話
「心の中のふるさと」---天草島--- 荒木忠夫
 先日、会社の定期歯検診で、私の歯を見た医者が「この年齢で虫歯が一本もなく、しかも歯並びがきれいな歯は珍しい」と感心し、生まれはどこかと聞いた。私が、「九州の天草島だ」と答えると、「やはり、そうですか」とうなずいて納得していた。その医者の話では、島育ちの人は、海草などの食べ物の影響で、統計的に、歯が強いのだそうである。なるほど、私は38歳の現在になるまで、虫歯の痛さというものを全く知らないし、歯医者にかかったことが一度もないのである。
 しかし、私は、医者のいとも簡単な納得に、何か物足りなさを覚えたのである。私には、38歳の現在の強さよりも、歯が強くならざるを得なかった幼少年時代の、ふるさとでの貧しい生活、しかしその中でも、常にほのぼのとしたぬくもりを感じさせてくれた母の、心の匂いが大切に思えるのである。
 私のふるさとは、熊本県の天草島である。島原の子守歌に「おんのいけ(鬼池)の忠助どんの連れにこらるばい」と歌われている天草下島の最北東にあたる、五和町鬼池という港のある半農半漁の小さな町である。
 五和町は、昭和30年頃、五つの村が合併して出来た町であり、私はその中の鬼池村で育ったのであった。私は昭和23年に鬼池小学校に入学した。私の家は、いわゆる五反百姓の農家で、八人の子供を養うのは楽ではなかった。米飯を食べるのは、盆と正月と村祭りに限られており、日常はさつまいもか麦飯であった。しかし当時は鰯(いわし)が豊富で、地引き網でいくらでもとれたため、食べきれずに田畑の肥料(いわしごえ)にするほどであった。私たち兄弟は、厳しい父に、この鰯を魚のまま食べさせられており、父の目を盗んでは、そっと、骨をおぜんのしたに隠して、捨てたのを覚えている。芋と鰯が当時の私たちの常食であり、お菓子や飴など甘いものなどめったに食べず、鰯を骨のまま食べて腹を満たしていたから、歯医者などいらないのである。終戦から何年かは、日本中どこでも同じような食糧難の状態が語られているが、私の家では、零細農家のうえに、八人兄弟という子沢山で私が中学に行くようになっても、あまり生活水準の向上は見られず、相変わらず同じような状態であった。
 当時のように、姉や兄は中学卒業と同時に口減らしの為、ちょっとしたコネでも頼って島から出ていったのである。
 私は、姉や兄が小さな連絡船で港から出ていくたびに、突堤の先端の赤い灯台の下で、いつまでも立ち続けていた母の姿を、今でもはっきりと思い出すことができる。海の上に約200メートルも延びた防波突堤と、その先端にあるこの赤い灯台の物寂しさは、8月15日の夜の幾重にも重なって、その灯台の沖を流れる精霊(しょうろう)船と共に、私の心の中にあるふるさとの一つの風景である。
 鬼池には、天神山という富士山に似た形の山がある。天神山は鬼池で一番高い山で、海抜171メートルあり、その山頂からは、村中が見渡せ、海の青さと小さな島々の松の緑、波の白さなど、その眺めは素晴らしいものであった。天神山は鬼池村の守り神で、山頂には、ほこらが建てられ、7月25日がその祭りであった。祭りには、村中が仕事を休みダゴ(田子)を作って祝い、山頂で子供達の相撲大会が行われるのであった。私は一度だけ、その相撲大会で関脇をもらったことがあった。
 中学一年生に入学した年の春の遠足は、私にとって、一生忘れられない遠足であった。遠足の楽しみは弁当であり、私の家でも、遠足の時だけは母がいつも、米飯の大きなにぎりめしに、卵焼きを添えてくれるのであった。その遠足の朝、母は、私に弁当を手渡しながら、悲しそうな目で、中身が芋であることを、告げたのであった。そして、私の手を強く握って、しばらく離そうとはしなかったのである。私は大声で母をののしり、その手を振りほどいて、泣きながら走ったのだった。弁当の時間、天神山のつわぶきの、芽吹いた藪の中で、私を探す友達の声を遠くで聞きながら、私は空腹に勝てず、私はその芋を、泣きながらかじったのであった。中学生の私には、そのときの母のつらさがどんなものであったのか理解できるはずもなく、帰ってからも、母をせめ続けたのであった。
 昭和36年の夏、天草地方は未曾有の干ばつに見舞われた。水の出そうな場所は、至る所で井戸が掘られ、水探しが続けられたが、水田は大きく干割れし、稲は白くなって枯れようとしていた。しかし、雨は、いっこうに降らなかった。
 そして、誰が言い出すこともなく、雨乞いをすることになったのである。各農家から一人づつ人を出して、何人かづつ組になって、天神山の山頂から、雨乞いが本当におこなわれたのであった。毎日、朝から夕方まで天神山の上でうち鳴らされる太鼓の音が、村中に響き渡ったのである。私の家からは、母が出ることになり、真剣な顔をして、近所の人達と一緒に、山道を登って行ったのであった。雨乞いの結果で、雨が降ったかどうかは、はっきりした記憶がない。しかし今でも、天神山の祭りが続いているところをみると、多分、神様のごりやくがあったのではなかろうかと考えるのである。
 鬼池の守り神であるこの天神山の懐かしい姿もまた、少年時代の思い出の中で、何とはなしに母のイメージと重なって、私の心の中に、ふるさとの風景として残っているのである。
 天草の正月もまた、母を通じて、私の心の中に一つの風景を残している。それは、私が中学3年生で、高校受験を間近に控えた頃のことであった。私は先生のすすめもあって、他の二人の友人と共に、天草島を離れ、熊本市内の高校を受験することを目標に頑張っていた。市内の高校に行くことになれば、下宿が必要で、そのために要する費用は大変なものであった。八人の子供を抱えた五反農家の父母には、とうてい、そのような余裕などなかったのである。それでも父母は何とかして、私を希望通りの高校に進学させようと、いろいろ努力したようであるが、やはり、無理だったのである。
 12月のある寒い夜、父は私を囲炉裏の端に座らせ、市内の高校をあきらめて、地元の高校に進学して欲しいと私に言った。私は、泣きながら父のかいしょうの無さを、大声でののしった。日頃、厳しい父も、その時は無言で何かをかみしめているようであった。母は、何かを頼むような目で私をじっと見つめ、その目には涙が光っていた。しかし、私は、消えかけた囲炉裏の火を見つめながら、父母をののしり続けたのであった。
 それから、私は勉強もせず、家族にも口を聞かない日が続いていた。その為、家の中は、毎日、何となく重苦しい日が続いていた。そして、年が明け、元旦となった。私は、家族全員で毎年行う初詣に参加せず、一人でふとんをかぶって寝ていたのであった。
 朝、目を覚ますと、枕元に五・六枚の年賀状がおいてあった。私は床の中で何気なくそれを手にし、たいした感情もなく、一枚づつそれをめくっていった。それは、ほとんどが同じクラスの友人達からのもので、今年も頑張ろう、今年もよろしく、という内容のものであった。しかし、最後の一枚を読みながら、私は驚いた。それは、およそ、年賀状らしくない長々しいものであり、鉛筆書きで、ところどころ、なめたらしい濃い部分が残り、カタカナ混じりで書かれていた。差出人の名前はなかったが、私には、それが同じ家に住む母からのものであることは、すぐにわかった。
 「おまえに、明けましておめでとうと言うのはつらい。でも、母さんは、お前が元旦に、みんなの前で笑いながら、おめでとうと言ってくれる夢を何回も見ました。母さんは、小さい頃、お前が泣き出すと、子守歌を唄って、泣きやませましたが、今はもうお前に、唄ってやる子守歌もないので、本当に困っています。今度は、お前が母さんに、親守歌を唄って欲しい」
 14歳の私は、元旦の床の中で声をあげて泣いた。それは、中学3年生の反抗期の私に対する、母の心からの子守歌だったのである。
 この母の子守歌のおかげで、私は立ち直り地元の高校に進学し、その後、高校卒業と同時に、大学へも進学した。父は、私の大学入学の時、大切に残してあった、山の種松を売って、3万円の入学費用を作ってくれたのであった。しかし、その後は、私は父母の援助をほとんど受けず、アルバイトと奨学金で大学も卒業することが出来たのであった。
 そして、現在の会社に就職して、もう16年の年月が経ち、長男はやがて中学生になろうという年齢になってしまった。そして、昔の私と同じように、もう、親に反抗し始めているのである。
 しかし、私の心の中にふるさとの母の心の匂いのする鬼池の赤い灯台と、天神山のやさしい風景がある限り、私は、大丈夫だと考えている。
 母も、70歳となった。この母が、これからはどんな子守歌を唄ってくれるのだろうかと考えながら、同じふるさと出身の妻と、反抗期の子供達を連れて、私は母の住む天草島に、今年もまた、帰りたいと考えている。

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9の神秘

2009年02月28日 | いい話
☆9の神秘☆

9×1=9
9×2=18 (1+8=9)
9×3=27 (2+7=9)
9×4=36 (3+6=9)
9×5=45 (4+5=9)
9×6=54 (5+4=9)
9×7=63 (6+3=9)
9×8=72 (7+2=9)
9×9=81 (8+1=9)

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