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平田篤胤の幸運

2011年04月05日 | 池波正太郎 江戸時代

 篤胤は秋田藩大番組頭大和田祚胤の四男として生まれた。 秋田藩佐竹家は上杉家と同様関が原の敗者で、かろうじて改易は免れたが領地は召し取られて生きながらえた。 佐竹家は水戸を中心とした常陸国が先祖伝来の領地であったが、出羽国に移されて貧しい藩経営を強いられていた。 このころの秋田藩佐竹家は財政改善のために鉱山開発を計画し当時の藩主が江戸から平賀源内を招いている。 藩主・佐竹義敦は源内から文化、学芸を学んだのであるが、それは家臣の小野田直武の功績によるもので、 源内の親友である杉田玄白が解体新書を出したときの人体図を描いたのが、この小野田直武である。 1773年に直武が源内と出会い、翌年に解体新書が刊行、そしてその2年後に篤胤がうまれている。  佐竹義敦は篤胤が10歳まで生き、現役の藩主として活動するかたわら家臣の直武と西洋画論を書いている。  秋田藩には蘭学に対する深い理解があったことは特筆すべきことである。 ところが篤胤は20歳のときに突如秋田を出奔して江戸に向かった。 あてがあったわけでもなく国学で身を立てようと思ったわけでもない。 結局本居宣長とは接触することなく江戸で6年を過ごしている。 この間雑用をしながら学問に励んでいたという。 そしえ江戸在中の備中松山藩の軍学者・平田篤穏に見出されて養子となった。 これが篤胤の幸運の始まりといえる。 落ち着いて学問に励み、本居宣長のことを知るようになると徐々に傾倒していった。 

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