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インマヌエル宇都宮基督教会牧師 山田 隆・勢津子
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人生のかぎ

2015年03月14日 06時43分44秒 | メッセージ
輝く生涯  ―エミ・カーマイケル― 
彼女の著書については何を言うべきであろう。その3、4をあげれば、「あるがままの物事」「たるの中でのできごと」「黄金の紐ひも」「山々は震うとも」などがある。
「黄金のひも」においてエミー・カーマイケルは、インドの元気な子どもたちが9月の暑い日に、水源を求めて山間の川をたどって行く旅について、物語っているかれることのない泉を見つけ出すまで、谷を上り下りしながら行くことは、彼らにとって困難とは思われなかった。沢に沿って行く登り道は長かったが、興味を覚えさせるものであった。水辺にはひずめの跡があり、虎の足跡さえあった。
「子どもたちは新しい喜びを見出した。」と彼女は書いている。そして、続けて述べている。「美しい滝や美しい池、それに洞穴、かれんな草花、大きなしだの類、こけのクッション。しかし、水源は見つからなかった。ちょうど堤が登るには高すぎるようになっているところで、森の一本の木が倒れていた。倒れた木の下にはえているものがあまりにもからみあっていたので、突き抜けていくこともできなかった。木の幹には蘭がおおっていた。蘭は美しくはあったが、道を阻んでいた。その下にはよく澄んだ深い池があった。子どもたちは森のはずれのはるか上のほうに本当の水源があり、孤独な美しさをもって空の下に横たわっているに相違ないと思っていた。そこには水源の水に、下界で起きたさまざまのことを告げ知らせるかのような風と、ささやく燈心草や湿原の花だけがあるのをしっていた。しかし、彼らはそこへ行くことはできなかった」。
エミー・カーマイケルについてのたとえ話は、ちょうどこのようである。彼女のあふれ出るいのちの究極の源泉は、行き着くことのできないはるかかなたの目には見えないところにある。彼女のいのちが注ぎ出された池は、ベルファーストの雨降りの道路における主イエスとの出会いである。そこでいのちの価値のすべてを変えるみことばの挑戦があったのである。
ある人の建てた仕事がそのまま残れば。


V・レイモンド・エドマン著『人生のかぎ』―信仰生活に秘訣を見いだした人々―より引用しました。A.O

十字架の奥義

2015年03月13日 05時05分15秒 | メッセージ
 【十字架に釘付け】
「いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。」
(コロサイ2:14)

私たちが、だれかにいくばくかの負債でもあるなら、それを完全に返済するまでは絶えずられ、取り立てられるのです。その契約は完全に履行されねばならないのです。
 私たちが罪を犯したとき、それは借金したのとおなじようで、その罪の償いをしなければならないのです。罪の償いをしない間、自分の良心の呵責に悩むのです。また、神のきよい律法に照らされて、神の御前に罪人としてさばかれねばならないのです。
 しかし、イエス・キリストが十字架にかかられたとき、この罪の償いを十字架の上で果たし、神の御前になだめの供え物となってくださったのです。
 十字架は、私たちの責める良心の、また律法のいっさいの証書を釘づけにしていると、使徒パウロは言っています。これは、また何と大きな喜びではありませんか。私たちの良心も、神の律法も、もはや私たちを責めることはできないのです。私たちは十字架によって、新しい解放を受けているのです。
 第一に、私たちを責めるものを無効にされたのです。
 罪の債権書とも言うべき、罪に対する償いの要求書を無効にされました。私たちの良心が、また、神の律法が、ときにはサタンが、私たちを責め、訴えてきても、それは、キリストの十字架によって、無効にされました。
 キリストご自身が、私たちの罪のためにご自身のいのちを代価として支払われているからです。
 第二に、私たちを責める証書を除去されました。罪の呵責、罪の償いはあくまで追求してきますが、それを取り立てる証書、すなわち追求請求は、主イエス・キリストの代価によって支払われたことにより、私たちの目の前から取り除かれたのです。その証書は、すでに十字架に釘づけにされているのです。
 第三に、私たちを責め立てている権威を解除されました。
 主イエス・キリストは十字架において、勝利を得られたとき、神に逆らうこの世の支配力と権威は、神に御前に武装解除されたのです。それは無能、無力にされたということです。
 今や、クリスチャンは、いつまでも、自分の過去の罪、あやまちを悲しみ、悩んでいるべきではないのです。主イエス・キリストの十字架によって、罪がゆるされ、肉と世の力より解放されたことを知り、大いに感謝すべきなのです。

  
本田弘慈著「十字架の奥義」より引用・要約しました。A.O

牧師・聖書に学ぶ会(要約)

2015年03月12日 05時47分15秒 | メッセージ
・新来会者のための祈り
・学んだ聖書の個所。ルカ7:36-50「パリサイ人シモンと香油を塗った女」
7:36 さて、あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたい、とイエスを招いたので、そのパリサイ人の家にはいって食卓に着かれた。
7:37 すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油のはいった石膏のつぼを持って来て、
7:38 泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。
7:39 イエスを招いたパリサイ人は、これを見て、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから。」と心ひそかに思っていた。
7:40 するとイエスは、彼に向かって、「シモン。あなたに言いたいことがあります。」と言われた。シモンは、「先生。お話しください。」と言った。
7:41 「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。
7:42 彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」
7:43 シモンが、「よけいに赦してもらったほうだと思います。」と答えると、イエスは、「あなたの判断は当たっています。」と言われた。
7:44 そしてその女のほうを向いて、シモンに言われた。「この女を見ましたか。わたしがこの家にはいって来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この女は、涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました。
7:45 あなたは、口づけしてくれなかったが、この女は、わたしがはいって来たときから足に口づけしてやめませんでした。
7:46 あなたは、わたしの頭に油を塗ってくれなかったが、この女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。
7:47 だから、わたしは言うのです。『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』」
7:48 そして女に、「あなたの罪は赦されています。」と言われた。
7:49 すると、いっしょに食卓にいた人たちは、心の中でこう言い始めた。「罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう。」
7:50 しかし、イエスは女に言われた。「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。」


(問)「このイエスとの交わりをどう思いますか。」

牧師・余白余録

2015年03月11日 05時31分15秒 | メッセージ

三浦綾子著「この病をも賜物として」角川文庫PP129、130より
○月○日
「シューマンの言葉に〈みんなが第一バイオリンを弾きたがったら、管弦楽は成り立たない〉という言葉がある。みんなが最も座りたい場所、それはどんな世界にもある。小学生の世界でも、大学教授の世界でもそれはある。神が置いてくれた場所、その場所を喜ぶ時、私たちの人生は、思いもよらぬすばらしいものになるかもしれない。」
 それはともかく、東京交響楽団の第一バイオリンになった小林三吾氏(小林多喜二のご舎弟)の才を思う。

牧師・ミニチャーチ集会(兼祈祷会)(要約)

2015年03月10日 06時05分36秒 | メッセージ
・祈り  課題の中で闘っている方々のためのとりなし
・聖書:主牧 ヨハネの福音書10章30節
「わたしと父とは一つです。」
この前節でご自分を「わたしはよい羊飼い」とも言われます。
 私たちは主イエスに集中する「羊」です。これを生涯かけて経験して学ぶのです。羊飼いであるイエスさまは、「私」を親しく目をかけてくださっていることを知りましょう。


牧師・礼拝説教(要約)

2015年03月09日 06時04分49秒 | メッセージ
【先週の礼拝説教回想】 3月1日
・説教者 山田 隆牧師
・引照聖句ローマ人への手紙2章6~11節
・説教題 神のえこひいき?
▼2:11「神にはえこひいきなどはないからです」とまずお断りします。ユダヤ人が立派な律法の文字と割礼があると言いながら、それに背く心と生き方をするなら、それらがないが、キリストを信じて、罪を悔い改め、神の義に生きるなら、それらの人によってユダヤ人はさばかれます。ユダヤ人だからと言って、戒めに反しても大目に見過ごしたりはなさらない。律法なしに罪に生きてきた異邦人もキリストを見過ごすなら、罪の律法にさばかれてしまうというものです。1~11に、
 信仰によって人は義とされることを、ユダヤ人の祖先アブラハムを通して語られています。不義については、1:29~32、2:21~27にまとめて出ています。アブラハムはまだ律法がない時代に、神を信じる信仰によって神に受け入れられ、尊ばれ、愛され、祝福され、それが世界の祝福の基とされました。2000年間キリストに至るまで、信仰によって義とされる道の祖先とされたのです。
▼今日、キリストによって愛と希望と信仰によって生きることができる時代も2000年経てきました。ユダヤ人はやがてメシヤなるイエス・キリストを信じて神に回復されます。異邦人世界に福音時代を許してこられた時代も終局を迎えます。御子をお与えになり、異邦人の中に、教会を与え、福音の時代を赦しを公平に神は異邦人を祝福なさいました。特選の民として教会時代も締めくくられる時が定められています。神の公平さです。頑固で不信仰に閉じ込められていたユダヤ民族が艱難を通して受け入れられる時代が到来します。今度、心すべきは、私たちが生かされるのも、御子を信じて生きるかどうかにかかっています。神はどちらも祝福もし、さばきもされるのです。
▼この世の塩、光とされた私ども、警戒すべきことは、主が天から再度来られるときが近いことです。花婿が花嫁をお迎えに来られるのです。油断して信仰の火を点して、主のため、救われていない人々のため活動してなければなりません。聖書の戒めに助けにより、恵みによって生き主の戒めに生きなければなりません。できるだけ多くの人の救いに役立たなければなりません。神は、お互いの涙の谷の道を、十字架の道を歩ませなさいましたが、それはご自分に似せて造ろうとしてきた、愛と光栄への道であったことを、なお深く理解してまいりましょう。
▼神はえこひいきはなさいません。ただし信じ従う人には「えこひいき」をされます。チャンスをみすみす見過ごさないでください。

牧師・エッセイ

2015年03月08日 13時44分50秒 | メッセージ
『激しく憤る者は罰を受ける。たとい彼を救い出しても、ただ、これをくり返さなければならない。 忠告を聞き、訓戒を受け入れよ。そうすれば、あなたはあとで知恵を得よう。』(箴言19章19、20節)

祈 り 
☆(月)上田教会、故深谷きみゑ牧師の告別式に夫人牧師が出席いたしました。同教会の補いのために。
☆主牧は、先日構内楢の木伐採を依頼し完了しましたが、その使える部分を椎茸栽培の原木に加工して種駒を打っております。その完了のために。
☆忌わしい宗教事件の裁判、国際的な犯罪事件などのため、チラシ配布を妨げられております。しかし、また、機会再開を願っております。


♪今週半ばの集会♪
3月10日(火)聖書に学ぶ会   10:30~
3月14日(土)公園CS      15:00~ ニュー富士見ヶ丘2号児童公園
教会028(621)8661

教会学校金言☞ 『まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。』(マタイの福音書5章24節) 神は私たちが積極的に人と和解するのを望んでおられることを学びました。

ガーデンスポット
紅梅  椿  

次聖日の礼拝説教  コリント人への手紙第一15章26節『最後の敵、死の滅び』

人生のかぎ

2015年03月07日 07時23分05秒 | メッセージ
輝く生涯  ―エミ・カーマイケル―
 打ちつける激しい風を避けさせてくださいという祈りから
 高く登るときに高きを恐れる恐れから
 さらに高くのぼるときによろめいてしまうことから
 絹のような自らを解き放ってください。
 ああかしらなる主よ。
 私たちはあなたに従おうとする兵卒です。

 ものを柔弱にしてしまう肉の欲から
 容易な道を選び、妥協して低きにつくことから
 私たちの霊は堅くされるのではないのです。

 十字架につけられたおかたは
 このような道を行かれはしませんでした。
 おお 神の小羊よ。
カルバリを曇らせるすべてのものから私を救ってください。

先だって行く愛をお与えください。
何ものにもうろたえることのない信仰を
失望によって失われることのない希望を
火のように燃えさかる熱情を。
沈んだ土くれのようなものにしないでください。
あなたのまきとし、神のほのおとしてください。


V・レイモンド・エドマン著『人生のかぎ』―信仰生活に秘訣を見いだした人々―より引用しました。A.O



 牧師・ミニチャーチ集会(兼祈祷会)(要約)

2015年03月06日 05時32分18秒 | メッセージ

・祈り  課題の中で闘っている方々のためのとりなし
・聖書:主牧 創世記13章9~18節
1 有利な条件と思ってアブラハムの甥ロトはソドムを選択した。その町の道徳的退廃でロトの家族を除き、ソドムは硫黄の火で滅ぼされた。
2 アブラハムはヘブロンの荒れ地を受けたが神の祝福を得て、格段の祝福を受けた。
3 キリスト者は得てして、一見、不利な選択をさせられているが、十字架の道で霊肉に祝されることが約束されている。

牧師・聖書に学ぶ会(要約)

2015年03月05日 05時17分33秒 | メッセージ
・新来会者のための祈り
・学んだ聖書の個所。ルカ7:36-50「パリサイ人シモンと香油を塗った女」
7:36 さて、あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたい、とイエスを招いたので、そのパリサイ人の家にはいって食卓に着かれた。
7:37 すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油のはいった石膏のつぼを持って来て、
7:38 泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。
7:39 イエスを招いたパリサイ人は、これを見て、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから。」と心ひそかに思っていた。
7:40 するとイエスは、彼に向かって、「シモン。あなたに言いたいことがあります。」と言われた。シモンは、「先生。お話しください。」と言った。
7:41 「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。
7:42 彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」
7:43 シモンが、「よけいに赦してもらったほうだと思います。」と答えると、イエスは、「あなたの判断は当たっています。」と言われた。
7:44 そしてその女のほうを向いて、シモンに言われた。「この女を見ましたか。わたしがこの家にはいって来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この女は、涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました。
7:45 あなたは、口づけしてくれなかったが、この女は、わたしがはいって来たときから足に口づけしてやめませんでした。
7:46 あなたは、わたしの頭に油を塗ってくれなかったが、この女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。
7:47 だから、わたしは言うのです。『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』」
7:48 そして女に、「あなたの罪は赦されています。」と言われた。
7:49 すると、いっしょに食卓にいた人たちは、心の中でこう言い始めた。「罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう。」
7:50 しかし、イエスは女に言われた。「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。」


(問)「イエスはこの女性に何を言っておられますか。」