創建は伝説に因りますと西暦
200年(仲哀9)10月3日神功皇后、新羅に出兵する。(記)
12月14日 新羅の遠征より帰還され、筑紫において誉田別皇子(応神天皇)を生む。(記)
神功皇后が新羅に遠征され帰還された西暦200年(仲哀9)10月3日から12月14日の間の時期と考えられます。新羅の遠征より帰還の途中(注1)武内宿禰(現在の総理大臣にあたる)の軍船が難破され今の有喜に漂着され、有喜の人々から大切に扱われ。また武内宿禰公から漁業、農業、医術等などを献身的に教えられ、人々もたいそう喜んだそうです。武内宿禰公を尊敬し、神功皇后の元へ帰還される時には大変名残り惜しんだと云われています。武内宿禰公を偲びその功徳を讃え白髭神社を創建されたそうです。
(注1)(景行・成務・仲哀・応神・仁徳天皇5代の天皇に棟梁之臣・現在の総理大臣として仕える。古事記に因れば仲哀天皇が熊襲討伐のため博多の香椎で大本営を築かれる。神功皇后が神懸りになられ中臣烏賊津使主(なかとみいかつおみ)中臣雷大臣(注3)とも云う、武内宿禰が審神者(さには)を務めて住吉大神から新羅の遠征のお告げをうける。仲哀天皇が住吉大神の神意に背き、この地香椎で崩御(仲哀9年2月6日)なされる。神功皇后は中臣烏賊津使主、武内宿禰・ 藤大臣(高良大神)・安曇磯良等共に新羅の遠征に出る。
(注1) 博多の官幣大社香椎宮(注2)の中に武内社があり現在でも武内宿禰の 末裔の方が毎年4月15日にお祭りを為されています。
(注2)仲哀天皇、神功皇后が御祭神で日本四宗朝のひとつ、平安の昔から続 く、勅祭神社。
仲
10年に1度は天皇陛下からの使者・勅使が直々参拝に来られます。
(注3)天児屋根命(あめのこやねのみこと)を祖神とし後に藤原鎌足を創出 する。
私見
古代(有喜の貝塚がありますように)から有喜の漁労に就いていた人々は、博多の綿積見神(海神)を奉斎する金印が発見された志賀島の安曇族、その対岸の那珂川流域に底筒之男神、中筒之男神、表筒之男神を祭る住吉大神を奉斎する藤大臣(高良大神)の住吉族は同様に、海神族であります。この地を一般に奴国と云われています。天皇の近い海神族は瀬戸内海、九州、日本海沿岸等より新羅遠征に共に参戦し協力したのではないかと推察されます。有喜の漁労民は新羅の遠征から帰還するまでの間に武内宿禰公の仁徳の薫香をうけ、武内宿禰公は有喜の漁労民ともに凱旋し有喜の繁栄に寄与したものと思われます。
宮岳の高台に古代遺跡の有喜の貝塚が有り、古代より海岸沿いに沢山の人々が生活していたと思われます。昭和の初期まで有喜の漁師さん達は、朝鮮海峡まで小さな小船で出漁されていたと聞いています。古代の漁師も朝鮮海峡に出漁し北九州の漁民達(博多の安曇族等)と出会い、親交があったと思えます。
有喜の白髭神社の神功皇后伝説のように瀬戸内海、九州、日本海沿岸等にたくさんの神功皇后伝説があります。
芽出度い時に謡われている謡曲「高砂」に登場する白髭の翁は、竜宮(極楽)の世界に海神族の安曇磯良を遣わし如意宝珠を持ち来たした住吉大神の化身(現人神)でもあります。
神功皇后と武内宿禰が後の應神天皇を擁く姿は人形、京都の祇園祭り等全国のお祭りに登場し大切に伝承されています。
小高い処に薬師堂がありますが、奈良の薬師寺のなかに、大分の宇佐から勧請された休ケ岡八幡宮に国宝三神像が祀られています。『僧形八幡神(そうぎょうはちまんしん)を中心にし、向かって右に神功皇后(じんぐうこうごう)、向かって左に仲津姫命(なかつひめのみこと)』を配した三神一具の像として安置されています。このように薬師寺、神功皇后とは縁が深い関係にあります。故に、武内宿禰も薬師寺と関係が深いものと思われます。また薬師如来は医王如来ともいい、医薬兼備の仏様と云はれていますが、 “極楽は西にもあれば東にも 来た「来た」(北)道さがせ 皆身「みなみ」(南)にぞある”のように、薬師様は謡曲「高砂」と同様に極楽(竜宮)の世界を顕していると思えます。
この由縁からも元白髭神社の跡に神功皇后、武内宿禰と縁が深い薬師如来を祀ったと考えます。
また向い側の中通りに八幡神社(應神天皇)が存在しています。
地名にも天神、古場、氏名にも宮の前(さき)のように宮崎があるようにこの付近を大切な場所として扱ってきたようであります。
元々氏子が漁労民(海神族)が多いが故に、海岸線が後退するに従い漁労民が生活している海岸に近い現在の場所に移転鎮座されたと思えます。
これ等をひも解いてゆきますと白髭神社の御祭神は住吉大神と現人神(あらひとがみ)として顕現されている白髭公である武内宿禰だと思えます。この地に神功皇后の仁徳を広めこの地域の振興のため尽力を注がれ、繁栄の道へと導かれたのは武内宿禰だと考えられます。古代の人々もこれらのご恩に、末永く報わんがために白髭神社を創建し、永代にこの仁徳を伝え現在に至ったと思えます。