夢から慈しみの世界へ

神と自然と人間の共生
神一元・善一元・光明一元の生活
人間の生命の実相は『仏』であり、『如来』であり『神の子』である

應神天皇壱千七百年祭と現代を思う

2010年05月07日 22時57分47秒 | 歴史

東京杉並の大宮八幡宮に参拝の折、今年2010年4月1日が應神天皇壱千七百年祭であり宮中皇霊殿、應神天皇陵で厳かに斎行されたと知りました。

『仲哀天皇と神功皇后の第4皇子、200年12月14日ご生誕、310年新暦4月14日崩御より261年後八幡大神として顕現国家の重大事に数々のご神威を発揮され、国家鎮護の神として神威を発揚される。』

應神天皇の御陵の体積は我が国において最大であり、この事が示す通り帝が国家制度、社会基盤の整備の確立に甚大な力お果たされ長い歴史のなかでも国威が大いに輝いた時代でした。

和をもって尊しの、美風が損なわれ国論が分かれ、我が意見を述べるだけで帝の御心に添い公の国家繁栄と平和に真心尽くす御心思いだし、今一度住吉大神と八幡大神の神威の発揚を願い、共に一致団結し日本の美しい姿を取り戻したいと思うこの頃です。


有喜の白髭神社

2010年02月28日 02時14分51秒 | 歴史

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創建は伝説に因りますと西暦

200年(仲哀9103日神功皇后、新羅に出兵する。()

1214日 新羅の遠征より帰還され、筑紫において誉田別皇子(応神天皇)を生む。()

神功皇后が新羅に遠征され帰還された西暦200年(仲哀9103日から1214日の間の時期と考えられます。新羅の遠征より帰還の途中(注1)武内宿禰(現在の総理大臣にあたる)の軍船が難破され今の有喜に漂着され、有喜の人々から大切に扱われ。また武内宿禰公から漁業、農業、医術等などを献身的に教えられ、人々もたいそう喜んだそうです。武内宿禰公を尊敬し、神功皇后の元へ帰還される時には大変名残り惜しんだと云われています。武内宿禰公を偲びその功徳を讃え白髭神社を創建されたそうです。

(注1)(景行・成務・仲哀・応神・仁徳天皇5代の天皇に棟梁之臣・現在の総理大臣として仕える。古事記に因れば仲哀天皇が熊襲討伐のため博多の香椎で大本営を築かれる。神功皇后が神懸りになられ中臣烏賊津使主(なかとみいかつおみ)中臣雷大臣(注3)とも云う、武内宿禰が審神者(さには)を務めて住吉大神から新羅の遠征のお告げをうける。仲哀天皇が住吉大神の神意に背き、この地香椎で崩御(仲哀92月6日)なされる。神功皇后は中臣烏賊津使主、武内宿禰・ 藤大臣(高良大神)・安曇磯良等共に新羅の遠征に出る。

   (注1) 博多の官幣大社香椎宮(注2の中に武内社があり現在でも武内宿禰の 末裔の方が毎年4月15日にお祭りを為されています。

         

      (注2)仲哀天皇、神功皇后が御祭神で日本四宗朝のひとつ、平安の昔から続 く、勅祭神社。

             10年に1度は天皇陛下からの使者・勅使が直々参拝に来られます。

   

   (注3)天児屋根命(あめのこやねのみこと)を祖神とし後に藤原鎌足を創出  する。

            

私見         

古代(有喜の貝塚がありますように)から有喜の漁労に就いていた人々は、博多の綿積見神(海神)を奉斎する金印が発見された志賀島の安曇族、その対岸の那珂川流域に底筒之男神、中筒之男神、表筒之男神を祭る住吉大神を奉斎する藤大臣(高良大神)の住吉族は同様に、海神族であります。この地を一般に奴国と云われています。天皇の近い海神族は瀬戸内海、九州、日本海沿岸等より新羅遠征に共に参戦し協力したのではないかと推察されます。有喜の漁労民は新羅の遠征から帰還するまでの間に武内宿禰公の仁徳の薫香をうけ、武内宿禰公は有喜の漁労民ともに凱旋し有喜の繁栄に寄与したものと思われます。

宮岳の高台に古代遺跡の有喜の貝塚が有り、古代より海岸沿いに沢山の人々が生活していたと思われます。昭和の初期まで有喜の漁師さん達は、朝鮮海峡まで小さな小船で出漁されていたと聞いています。古代の漁師も朝鮮海峡に出漁し北九州の漁民達(博多の安曇族等)と出会い、親交があったと思えます。

有喜の白髭神社の神功皇后伝説のように瀬戸内海、九州、日本海沿岸等にたくさんの神功皇后伝説があります。

芽出度い時に謡われている謡曲「高砂」に登場する白髭の翁は、竜宮(極楽)の世界に海神族の安曇磯良を遣わし如意宝珠を持ち来たした住吉大神の化身(現人神)でもあります。

神功皇后と武内宿禰が後の應神天皇を擁く姿は人形、京都の祇園祭り等全国のお祭りに登場し大切に伝承されています。

小高い処に薬師堂がありますが、奈良の薬師寺のなかに、大分の宇佐から勧請された休ケ岡八幡宮に国宝三神像が祀られています。『僧形八幡神(そうぎょうはちまんしん)を中心にし、向かって右に神功皇后(じんぐうこうごう)、向かって左に仲津姫命(なかつひめのみこと)』を配した三神一具の像として安置されています。このように薬師寺、神功皇后とは縁が深い関係にあります。故に、武内宿禰も薬師寺と関係が深いものと思われます。また薬師如来は医王如来ともいい、医薬兼備の仏様と云はれていますが、 “極楽は西にもあれば東にも 来た「来た」(北)道さがせ 皆身「みなみ」(南)にぞある”のように、薬師様は謡曲「高砂」と同様に極楽(竜宮)の世界を顕していると思えます。

この由縁からも元白髭神社の跡に神功皇后、武内宿禰と縁が深い薬師如来を祀ったと考えます。

また向い側の中通りに八幡神社(應神天皇)が存在しています。

地名にも天神、古場、氏名にも宮の前(さき)のように宮崎があるようにこの付近を大切な場所として扱ってきたようであります。

元々氏子が漁労民(海神族)が多いが故に、海岸線が後退するに従い漁労民が生活している海岸に近い現在の場所に移転鎮座されたと思えます。

これ等をひも解いてゆきますと白髭神社の御祭神は住吉大神と現人神(あらひとがみ)として顕現されている白髭公である武内宿禰だと思えます。この地に神功皇后の仁徳を広めこの地域の振興のため尽力を注がれ、繁栄の道へと導かれたのは武内宿禰だと考えられます。古代の人々もこれらのご恩に、末永く報わんがために白髭神社を創建し、永代にこの仁徳を伝え現在に至ったと思えます。


藤原 秋依(ふじわら あきより)

2010年02月27日 17時56分18秒 | 歴史

一説には阿比留秋依、平安末期・建仁(1200年~)の頃一説には文治8年(1189年)大宰府より対馬の国司に任じられる。対馬の藤氏の祖である。天正15年(1586年頃)以後藤 慶円が嶋井氏(注1)に変わり対馬の総宮司職となる。孫の藤 斎延(とう なりのぶ)が藩主に取り立てられ全島の神社を調査し祭神を定め、全島の神社の祭式等をまとめ統括し独自の神学を藤 斎長(注2)、孫藤 仲郷等に伝授した。“藤神道”と云われている。

(注1) 博多の豪商 嶋井 宗室、藤原北家の血筋をひき、代々藤氏を名乗ったが次郎右衛 門茂久の代に、嶋井姓に改 める。

(注2) 藤 斎長は本居宣長に国学を学び、本居宣長は対馬の資料を藤氏から得たと云われている。


安曇氏・阿曇氏(あづみうじ)

2010年01月30日 11時13分49秒 | 歴史

海神綿津見神の子宇都志日金折命の後とも、同じく海神の子穂高見命の裔(すえ)とも傳へる。筑前國糟谷郡安曇郷に據(よ)つて居た大豪族で志賀島に海神社を祀り、その對岸住吉に底筒之男神、中筒之男神、表筒之男神を祭り海部の民を率い、航海通商漁業等の當つて居た。其処で漢史に見ゆる奴國王というのも恐らく此の氏を指すのかと考えられている。神功皇后の新羅遠征の際には、安曇磯良(あづみのいそら)なるものがあつたと傳へられ、應神天皇朝には安曇連大濱宿禰が海神の率となつて居る。かくして一族各地に蔓つたが、阿波、信濃の安曇氏が最も名高く、又中央なる宗族は天武天皇朝に宿禰姓を賜うた。子孫は上古以来の例によつて、内膳司に司へ高橋朝臣(あそん)と共に奉膳であったが、神事に仕ふるに當り、二氏は光後を争ふ事厲ゝであつた。

安曇連(あづみのむらじ)

轉じて安曇、安積とも書く。筑前國糟谷郡安曇郷を本居に、廣く肥前、豊後、阿波、淡路、隠岐、河内、三河、信濃等に分布、「日本書紀」一書に「底津少童命、中津少童命、表津少童命是安曇連等所レ祭神矣」『古事記』に「是三柱綿津見神者、安曇連等之祖神以伊都久神也」とある。『姓氏録』には「安曇連、綿積神皃穗高見命之也」として血統的関係を説く連姓を宿禰と改めたのは天武天皇の十三年十二月二日である。

  


名島辯才天社

2010年01月25日 23時11分36秒 | 歴史

祖母が44年程前(1966年頃) 父が商いを始めるとき実家で先祖代々お祀りされている名島神社の祭神と名島辯才天の祭神 『共に宗像神の比売神であり元々一緒に祀られていたそうで神功皇后が三韓遠征のおり祈願されたご縁で勧請されたそうです』 を祖母より勧請していただいたご縁で御神体の御印をお祀りしております。

名島辯才天社

今の社の東いと高き山を神宮が峰と云う。此山則いにしへ社ありし所也。一説、神宮皇后ののぼらせ給ふ峰なる故に、神功が峰と云う。小早川隆景、名島の城を築れし時、今の所にうつさる。神宮峰の南を鳥居峰という。是鳥居を建たりし所なり。城ありし時は南の丸という。元禄年中、國君より社を又むかしのごとく山上に移され、神殿をも綺麗に改め作りて、石の鳥居を立給う。其鳥居の額は、元禄年中、篤信が乞に依りて、花山院前内府定誠公書給ふ。むかしは大社なりしが、中ごろより衰けるにや。此神も宗像三神の内を勧請せしなるべし。天正十四年、秀吉公筑紫に下り給ひし時、此社に詣でゝ、社の衰へたるを見て、辯才天は福神なるに、荒てさびしき貧神なりとて笑いたまふと也。六月二十日祭あり。参詣の人多し。社僧の寺は、名島村にあり。神宮寺と云、名島山と號す。天台宗なり。國君より社領二十万石餘寄附せらる。又其西北辯才天の社に近き所に寺あり。宋榮寺と云。向春山と號す。社の側なる海際に、砧板瀬とて岩あり。民族傅へて云、神功皇后三韓より凱旋の時、此所に於て祝饗し故、砧板瀬の名ありと云。 筑前國續風土記


名島弁財天を尋ねて

2007年12月09日 20時15分33秒 | 歴史

Tourou_019 先日諫早より、マリンメッセでの講習会の帰りに永年の念願でありました、名島弁財天へ尋ねようと思い地下鉄、西鉄と乗り継ぎ神功皇后の御縁であられる名島神社、宗栄寺に祀られている名島弁財天へと、心弾み尋ねました。

名島弁財天は祖母が40年ほど前、私達家族の繁栄と幸福の為に御印を受けて頂いたご縁です。

当時は交通が不便な時節に足を運ばれたご苦労を思い、有りがたく胸詰まる思いでした。着いて参拝を済ませご住職にお会いしたいと思いましたが、不在のようで、すぐ近くの名島神社へ足を運び宮司さんにお話を伺いましたところ、宮司さんは以前は長崎の諏訪神社に奉仕されていたそうです。

名島神社と名島弁財天のご縁を話して頂きました。

それに因りますと以前は同じ場所に祀られていたそうです、豊臣秀吉時代に今のように別々に祀られたようです。

宮司さんのお蔭で宗栄寺の方に連絡していただきお坊さんとお会し、当時のことを伺いましたら現在は当時の御印を造る職人さんがいないとのことでした。又お札も受けることが出来ました。ありがとうございました。

名島弁財天社

今の東いと高き山を神宮が峯云。此山則いにしへ社ありし所なり。一説、神功皇后ののぼらせせ給う峯なる故に、神功が峯と云。小早川隆景、名島を築れし時、今の所うつさる。神功峯の南を鳥居峯といふ。是鳥居を建たりし所也。城ありし時は南の丸といふ。元禄中、国君より社を又むかしのごとく山上に移され、神殿をも綺麗に改め作りて、石の鳥居を立給ふ。其鳥居の額は、元禄年中、篤信が乞に依て、花山院前内府定誠公書給ふ。むかしは大社なりしが、中ごろより衰けるにや。此神も宗像三神の内を勧請せしなるべし。天正十四年、秀吉公筑紫に下り給いし時、此社に詣で、社の衰へたるを見て、弁財天は福神なるに、荒てさびしき貧神なりとて笑いたまふと也。六月二十日祭あり。参詣の人多し。社僧の寺は、名島村にあり。神宮寺と云。名島山と號す。天台宗なり。国君より社領二十石餘寄附せらる。又其西北弁財天社の社に近き所に寺あり。宗栄寺と云ふ、向春山と號す。社の側なる海際に、砧板瀬(まないたせ)とて岩あり。民俗傳へて云、神功皇后三韓より凱旋の時、此所に於て祝饗有し故、砧板瀬の名ありと云。 

                                     筑前風土記より