夢から慈しみの世界へ

神と自然と人間の共生
神一元・善一元・光明一元の生活
人間の生命の実相は『仏』であり、『如来』であり『神の子』である

1月30日(土)のつぶやき

2016年01月31日 04時59分10秒 | 日記・エッセイ

水は生命の源であります。

2016年01月30日 23時59分34秒 | 自然の育み・環境
水は生命の源であります。

まだ水の不便を被っています。病院の委託業者でも水道管の損傷で機能が制限されています。

災害が起きると素朴なな生活と文化的な生活の比較が顕著に現れます。
文化的な電気、水道、住居、食べ物などが不自由になり時代が逆流したかのような状態に置かれます。
現代では基本的なインフラである電気、水などは特別の会社、病院などでは自家発電の施設を設けていますが、殆どは一つの機関で合理的に管理されていますので、
是が絶たれると、夜の明かりは耐えられても、食料、生理作用、飲料水、また自家発電の施設等の施設が無い処では、緊急の手術、透析作業など生命の維持にも不都合が起こります。
食料品などの製造もオール電化が進み、電気、水が無いと製造することが出来ません。
エネルギー資源も天然ガス、石油、石炭、核燃料、水力、薪、自然の油脂等があります。
これ以外にも太陽光発電、風力等の自然エネルーギーがあります。
太陽光発電等の自然エネルーギーも送電線、機械的等が機能しなくなると使えません。
これ等のエネルギー資源も核燃料以外は自然環境からしか得ることが出来ません。
天然ガス、石油、石炭、自然の油脂等は無限に蓄積されているわけではありません。
又再生することも出来ません。
これらのエネルギー資源でリサイクルして再生することが出来るのは薪、自然水であります。
薪は樹を植林することによって再生することが出来ます。
森を再生することにより自然水をも再生することが出来ます。
また森の清らかな水が海に流れ込むことにより海が再生されます。
日本は山頂から海までの距離が短く清らかな水を産む地形に恵まれています。
このように植林の思想を拡大することにより、
豊かな森を育て自然を大切にして行く事が瑞々しい『青い地球』を保全することになります。
自然環境を保全して後世に引き継ぐことが人間に与えられた使命であり、義務でもあります。




これも神の御心で成す業であります。

永平寺では道元禅師の言葉に『水は是生命なりと知るべし』とあります。
永平寺の(総門)表札に『杓底一残水 汲流千億人』一杓の水で使った残り水を安易にしないで、
その生命である一滴の水を他(大自然=仏)に施すと無限の人々を潤すことが出来ると説かれています。
また一滴の生命の水を通して仏の教え(小さな愛)を流布せとの教えでもあります。

水は生命の源であります。



空間とは、エネルギーの運動範囲である。
だから現代の新しき天文学が説いているいるように空間はひろがりつつあり、
宇宙はつくられつつあるのである。
無限の空間と云う容れ物があって、その中にエネルギーが走っているのではなく、
エネルギーが運動する範囲が空間であり、エネルギーの運動の持続が時間である。







癒しと赦しの本質

2016年01月30日 15時25分10秒 | 健康・病気・精神分析・心理学・先祖供養・霊的実在・心霊の諸相
癒しと赦しの本質

今日は久々に温かくて天気に恵まれました。

癒す事とはどのようなものであろうか。
『癒す』、『癒される 』、とは主観(心)と客観(対象)との関係と同じようなものである。
その主観(心)と客観(対象)が互いに相合うことが必要である。
対象(客観)にどんな形、事情があっても、それを感ずる心(主観)がなければ、それを癒しと云う訳にはいかないのであります。
熊は花の美を感ずることは出来ない。熊の世界では花の美は無いと云わなければならない。
感じられないものは無いと同様である。
しかし人間の世界で美と感じる源泉は主観的感情や鑑賞作用ではなく、そのものの内在に美を感ずる本質というようなものがあります。
ものそのものに内在する美を感ずる心によって、意識の世界に浮かびあがらせたのが美である。
即ち美は客観に属し、主観に属し、主観と客観とが合一したところにその美の本質を心が認識して顕わしたものである。
この主観と客観が合一した美は神に属するものであります、
観る心と観られるものはとは相分かれているようであるが、本来それは一つであると云うことである。
是と同じように癒すと癒されることとは本来一つものであります。
自分の悩み、思いを相手が心より理解し行動するならば、眞に心が癒され相手との一体感が深くなり相手を心より愛することが出来ます。
心の癒しは表面的で義務的なものごとを理解するのではなく、自分自身でも気付かない深い心の願いを理解することにあります。
癒して上げたい心と癒されたい心が相寄って一つになるときにそこに癒しが成就するのです。


癒しは神より来る



精神的。霊的な領域はわたしたちの直感を通し、『聖なる瞬間』となって、その内側をかいま見せてくれます。
そのとき世界は突然静止、私たちは『偉大な精神・霊』と結びつき、愛によって、
人と人の間に魂の交流の橋がかけられるのを感じます。
私たちはこの領域を、夢として、神話という人類の魂の成長の記録の集まりとして、
あるいは個人の幻視や神秘体験としてかいま見ます。
宇宙のエネルギーとは愛であり、失敗とは人間失格の宣言ではなく、
むしろ学ぶ機会であり、人生の最も暗い夜は、愛を知るための機会となるうるのだという知覚が『自分の内側』起きるからです。

人間関係は、それが慈しみに基づいている時は、心理的であると同時に霊的な機会です。
そこでは『私』と『他人』という二元性にかわって、一つに結びついた『私たち』という存在を互いに共感し、理解し合う絆がつくられます。
そしてその結びつきは、それが『今』を中心にすえた『赦し』とよばれる生の中で行われるとき、
心理的に、または霊的に、かつてなく深い英知へと向います。
私たちはすでに赦されている。
あなたは独りで闘っているのでないし、かって独りだったこともない。
時の始まりから、人の心は愛のなかに自らの源を探し求めてきた。
罪悪感はその源え帰るためのたくさんの道案内の一つ、私たちはお互いに愛しあい、助け合える、自分自身を愛することができたその時にだけ。
目覚めるための旅とは、真の自分が誰であるかを思い出すこと。
そこでは恐怖が愛によって癒やされる。
そして、私たちが愛を購うために被った仮面は、心からの歓喜のなかに、
光のなかに、影のなかに、溶けて消える。
その時はじめて、私たちは自分の力で前に進み、いたわりの心
慈しみと愛とに結ばれる。
そこで、私たちは喜びと感謝をこめて自分の歌を歌うだろう、
神の子としての、自分の価値に歓喜しながら。

                      ジョージ・ポリセンコ


赦しは人生最大の大事であり、善業の最たるものである。

恨んでいると、相手から受けた失礼や不幸や障害をなかなか消し去ることが出来ない。
そこでどうしても相手の『神性・仏性』なる人間を心で観、
その人を愛し赦すことを実行する練習が大切な人生課題となる。
すべての人々は結局この一点にたどりつき、神の子らしい喜びと平安を得るものである。








1月29日(金)のつぶやき

2016年01月30日 05時04分05秒 | 日記・エッセイ

こうして勝利いたる幸運の運命が扉を叩く・・・音楽療法について goo.gl/uceVsa


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こうして勝利いたる幸運の運命が扉を叩く・・・音楽療法について

2016年01月29日 22時44分19秒 | 健康・病気・精神分析・心理学・先祖供養・霊的実在・心霊の諸相
音楽療法について

病院の玄関ホールでピアノとヴァイオリンのアンサンブルが演奏されました。
毎月一回程ピアノが演奏されています。
昨日ピアノの調律者が見えられていました。
クラシック音楽は人間の深い潜在意識を揺り動かし、痛みの軽減、ストレス、不安等の解消に利用されています。
手術室等で流されています。
それは民謡しか知らない老人でもクラシック音楽は意識の底まで影響を及ぼします。
それは人間だけでなしに植物、動物等までも影響を及ぼします。
音楽療法として芸大の桜林仁先生が提唱されました。
日本での草分けの存在でありました。
一九七九年福永洋一騎手が落馬して意識不明になりアメリカのグレン・ドーマン博士のところで音楽療法の治療を受けました。
其のときの曲がバロック音楽のアルビノーニアダージョであり、人が囁く程の小さな音量で治療を受け奇跡的に意識が回復しました。
その頃音楽の媒体もレコードからビデオデスク、コンパクトデスクへと変換の時期でした。
オランダのフイリップス社がコンパクトデスクプレーヤー所謂CDプレイヤーを開発して、デジタル音楽の先駆けでした。
アナグロからデジタル音楽の夜明けの時代でした。デジタルの良さは曲の立ち上がりの良さでした。
反面音と音の間の微妙な繋がりの表現が今ひとつでした。
当時若い私もドイツのグラマフォン、アルヒーフ、イギリスのEMI等のヨーローッパのレーベルのクラシック音楽の輸入盤等の仕事をしていました。
芸大の桜林仁先生監修の音楽療法のクラシック音楽が丸善から出されその音楽療法のお手伝いをしました。
大学の教授、ピアノ先生、教会の神父さんなどを訪問した懐かしい思い出です。


クラシック音楽の中でもバロック音楽は日本の古典音楽の雅楽のように単調で繰り返し、繰り返し、
まるで波が緩やかに引いたり満ちたりするように雄大な音楽であり、
またチエンバロのように歯切れの良い音でもあります。

バッハの何処までも深遠なる音楽、
モーツアルトの一音たりとも無駄の無い、すべて美しい旋律に満たされた天才的な音楽、
ショパンの叙情的な華麗で繊細な音楽、
ヴェートベンの力強い人間味に溢れた深い哲学的で霊感に溢れた音楽
まさにクラシック音楽を完成したと云うべき音楽家であります。




こうして勝利いたる幸運の運命が扉を叩く(交響曲第五番運命)
                                ヴェートベン

美というものは、前ぶれなしにやってきて、勇気と熱意をもつ人々の足もとから表われる。

人間の心は、一方で、思想と直感とを通して、絶対的な真理と本源的な交渉をもちながら、
他方では、同様の必然性により、自分の思想の発表と具体化を心がける。

眞とともに善を其の本性としている絶対的な精神から発しているために、
偉大な作品は、いつも道徳的な性格をおびている。

                                               エマソン



1月28日(木)のつぶやき

2016年01月29日 05時02分57秒 | 日記・エッセイ

水と火との無限性

2016年01月28日 22時41分22秒 | 自然の育み・環境
水と火との無限性

豪雪に因る影響で此の地区でも一万世帯程が断水しました。
地下水を利用している我が家でも管が破損しました。水道業者より雪がまだ融けない状況であり、天気が良くなり地面が乾燥しないと破損箇所が特定できないと言われました。
長期戦の模様になりました。
今ではコインランドリー等があり便利であり、
また温泉、浴場などの施設が無料で提供するなど福祉活動が活発であります。


此処で水の事について考えてみたいと思います。


環境問題でも水のことはよく取り上げられますが、専門的なことは学者さんにお願いすることにして。
幼いときには、水は自然の湧き水か、渓流、小川、井戸、などの身近に存在している水が生活として使用されていました。
ですから水の源の大切さを良く理解していました。
その源を注連縄などで浄め、竜神さんと崇め大切にして来ました。
奇蹟のルルドの泉を聖泉と崇めたように、
一年または一日の最初である早朝の清らかな自然の水を『若水』と称して神様、
閼伽(あか)、功徳水として仏様に供養して来ました。
禊(みそぎ)、神社の参拝、潔斎、洗礼などの時は滝、川、井戸などの自然の水で身と心を浄めました。



お湯でなく水であることが大事なことです。
水を火で熱して火が勝ちますと蒸発して水が消えてしまいます。
反対に火に水をかけ水が勝ちますと火が消えます。
この陰なる水と陽なる火の陰陽をつなぎ合わせ天地宇宙の創造を成し給う神である『水火津霊(しおつちのかみ)』、
亦の名を鹽竈神社などに祀られている塩土老翁、『鹽土大神(しおづちのかみ)』、
上津瀬、中津瀬、底津瀬の秩序を整え給う、住みよい世界即ち龍宮世界の神である『住吉大神』と称しています。
『水火津霊(しおつちのかみ)』、『塩土老翁』、『鹽土大神(しおづちのかみ)』、『住吉大神』は別名でありますけれども御一体の神であらせられます。
樹木、植物、水が半分程占めている人間などは水の影響が甚だ大きいといえます。
水も一箇所に停滞すると濁り腐敗します。
動くと清らかな清水となります。
例えば水が氷点下になると氷になり、温められえると水になり更に熱せられると雲となり、
やがて雨となり川となり地面を潤わし、全ての地球上のものに恩恵を与え、海に還り、丸い円の如く輪廻転生します。
火は真っ直ぐに立ち上がり、水は横に広がりをみせます。
この火なる縦と水なる横と交差した姿が十字架であり、その交わった処が絶対的な無であり、無限を顕わします。
即ち神であり、仏であります。

水は地球環境、あるいは肉体的な生命の維持にも必要でありますけれども、
水を通して宇宙的な生命、宗教的、哲学的な思考など、私達に深い影響と思索を与えています。



行雲流水の心

太陽はただ照っているのである。
雲は唯たたずまい、
又川は流れている。
山は唯そびえ、
川はただ流れ、
空の鳥はただ飛び、ただ謳う。
それは実に『無心』の展開である。
無心をを破ったところに人間の悲劇がある。
智慧の樹の実は人類をしてついに楽園をより追放せられたのである。
そのままにいたら人間は幸福であるものを、
ついに禁断の果実に手を出したが故に不幸に陥ったのである。



1月27日(水)のつぶやき

2016年01月28日 05時03分04秒 | 日記・エッセイ

煩悩そのまま悟りなり (眞の自由) goo.gl/NNZ11c


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煩悩そのまま悟りなり (眞の自由)

2016年01月27日 21時57分46秒 | 真理の言葉

眞の自由



醜い煩悩が付きまとうのが世の常でありますが。
この煩悩から抜け出し眞の自由はを得るには如何にすべきであろうか。
眞の自由を獲得するには、自己を放棄することが必要である。
自由を得んとしてもがけばもがくほど奈落の底に落ちていくあり地獄のようなものである。
眞の自由は十字架(自己否定)と復活とのみによって得られるということをキリストは教えたのである。
『みこころならばこの苦き杯を吾より放ちたまえ。されどわが意を為さんとには非ず』と
イエスはゲッセマネに於いて祈っているのである。
このゲッセマネの苦悩ののちイエスは敢然として自己を神のみこころの中に投げ捨てたのである。
かくてイエスには『此の世の創めぬ先より神とともに有たりし栄光』が復活したのである。

何故『自己を棄てなければ眞の自由が得られないのであろうか。
それは『自己と』と思ったところのものは、眞の自己ではなく、業の流転であったからである。
『自己』という仮面をかぶった、業の潜在力が、『眞の自己』(神性)を引き摺り回し、その自由を奪っていたのであったからである。
先ず人は真に自由を得るには、業を本質とする此の仮面をの『自己』を克服しなければならない。
『自己』に打ち克ったとき、人は自由である。

だから眞の自由をかち取るには、自己を放棄して神に無条件に一切のものを委ねることである。





煩悩そのまま悟りなり

唯物論者には復活も生まれ変わりもないのである。
すべて我々の見ている世界は、自分の心の見る世界である。
唯物論者の心にはそれだけの世界しか見えざるなり。
自分が仏になって見れば見られる世界が悉く仏の世界に変貌すれど、仏にならぬ人には此の世界は穢土である。
自分が仏になれば、恋すれどもそれが其の儘、天国浄土の姿なり、
自分が仏にならねば恋はただ煩悩なり、肉欲の化身なり。
赤い眼鏡を掛けて見れば赤く見えるなり。
青い眼鏡を掛けて見れば青く見えるなり。
その人々の力量なり。
みずから仏となるとき此の世界は眞清浄、無垢の天国浄土なり。
煩悩と見えるものその儘に菩提なり。住む世界悉く美しい 巌飾せられたる仏の浄土なり。
先ず自分自身が生まれ変わることが必要なり。『七度を七十倍度び赦せ』とイエスは教えたり。
されど赦す罪もなしと知ることこそ最後究極のさとりなり。

『注』
穢土―・・・けがれた不浄な国土。苦悩満ちた現実の世界。




1月26日(火)のつぶやき

2016年01月27日 04時57分49秒 | 日記・エッセイ

有情非情悉く兄弟姉妹である

2016年01月26日 19時42分41秒 | 日記・エッセイ
有情非情悉く兄弟姉妹である

一月二十二日(金曜日)は長崎に出講してお話をさせて頂きました。

神は霊であり、吾々は物資的な存在では無く、霊的存在である。
また物質、植物、動物、と見えているもの、天地の万物は、本当は神のいのち、仏のいのちの顕れたものであるから
それに感謝して拝む心がなければならないのである。
人間、天地万物の一切のものは神のいのち、仏のいのちの顕れだと理解が出来るとき、
有情非情悉く天地一切のものは兄弟姉妹であることが解るのである。
それ故に兄弟である畑の大根を祝福して感謝するならば、その祝福に感応して、豊かなる美味しい大根が出来るのである。

瞑想、心を集中してお経を読誦している時などに雑念が浮かびますとの質問がありました。
道元禅師の言葉に『空手にして郷に帰る』と言う言葉があります。
これは全てのものごとに執着しないで、放ち去った時にその掌に無限世界(仏の世界)が乗るのであると云うことです。、
雑念が浮かびましたら、雑念はある意味で貴方のコンプレックスを解消するものであり、
貴方の敵ではありませんから、その雑念を握らずにまた執着せず、そのままにして本来の心に集中なされた良いと申しあげました。
雑念を握り、執着すると雑念が雑念を呼び収集がつかなくなります。
すべてのものと事との執着を捨て去ることが大切であります。
このようなお話をさせて頂きました。




一月二十三日(土曜日)は二十四日(日曜日)の大きなイベントである生長の家講習会の準備でした。
長崎市、諫早市、島原市の三ヶ所に分かれての開催でした。
諫早駅から諫早文化会館までの送迎用のシャトル便の係りでした。
明日は大寒波が襲来するとの予報でしたので三台のレンタカーを借りてガソリンスタンドでチエンの装着をして頂きました。
夕方から雪がちらつき始めました。


一月二十四日(日曜日)の朝起きて見ると車の上には雪が積もりまるで丸い亀のようになっていました。タクシーもバスも不通であり、三K先の送迎用の車庫まで吹雪く道を長靴で歩きました。
吹雪く中で講習会は開催されました。
私共のシャトル便もJR、島原鉄道、タクシー等全ての交通機関が不通になり、
開店休業の状態でした。
また午後十二時頃でも外が零下2℃と気温が上がりませんでした。


しかし私が御案内した八〇才を越えた女性の方が、この悪条件のなかでも自宅のマンションから三Kの道程を歩いて会場まで来られましたと連絡が入り。感動しました。



困難、困難に非ず

吾は目の前に起こって来る如何なる困難をも呪いはしないにである。
すべての困難は吾が魂を鍛え上げる鍵である。吾が魂を磨くヤスリである。
吾が魂が鍛えられ、磨かれ、光輝燦然と輝くようになったとき、
もはや、あらあらしい砥石は自分の魂に不必要になって来るのである。
従ってそのような困難は消えてしまうのである。









1月21日(木)のつぶやき

2016年01月22日 04時45分06秒 | 日記・エッセイ

睡眠中に働く治癒作用

2016年01月21日 22時49分02秒 | 健康・病気・精神分析・心理学・先祖供養・霊的実在・心霊の諸相
睡眠中に働く治癒作用

良く寝る子は良く育つと云われます。

私共の子供で、幼い頃兄弟の中でも風邪などで熱を出し時、
一晩ぐっすりと熟睡する子は不思議にも翌朝完全に癒されていました。
怪我などでも同様でありました。
吾々が生を享けたとき、母の胎道を通るトンネルからの記憶が延々と現在まで潜在意識の引出しに完璧に録画されています。
唯思い出さないだけであります。
時々記憶の引き出しからフラッシュの如く蘇ります。
ですから過去の出来事、心の思い、抑圧、などが潜在意識に蓄積されています。
また潜在意識は夢などで予知作用を起したりします。
茶碗を無意識に落として割る失策行為などは現在意識では割る認識はありませんが、
潜在意識の心は明らかに割る意識を知っているのであります。
潜在意識から見ると無意識的ではなく認識してから茶碗を割っているのであります。
心に抑圧した感情が飽和状態になりそれを緩和するために、
巧妙に罪の意識を軽減させるために無意識的に行動し自らの抑圧した感情を隠すのであります。
このように潜在意識は普段の行動を目に見えない導き、働きをするのであります。




また病気を起したりします。
病気を起して依存性を呼び寄せたり、無意識的に復讐を遂げようとしたりします。
自分自身の罪の贖いのときもあります。
しかし潜在意識には苦痛を抑止する良い能力があります。
この潜在意識は広い意味での潜在意識であり、
吾々が眠っているときにも心臓による循環作用、呼吸作用を行わしめている自律神経の無意識の力、
現在意識が眠るに従って意識の領域が広がる潜在意識。
この潜在意識に苦痛を委ねる時に、不思議にも苦痛を癒す力をもっていることである。
動物はこれを本能的に知っていて、障害を受けると野獣は遠い孤立した場所で眠り、
眠っている間に野獣は癒されます。


また深い大生命の意識が癒す場合もあります。
痛みは二十四時間一秒も隙間無く間断に続くものではありません。
自分自身が気付かない、必ず僅かの睡眠時間の時に痛みが癒されているのであります。
この潜在意識(神)に痛みを委ねることが必要であります。

眠りしなに潜在意識に対し痛みは少なくなる、痛みは消え去る、完全に消え去るなどを潜在意識に働きかけ自己暗示するか、信頼の篤い人に暗示してもらい眠りに就くと痛みが癒されます。

苦痛は本来無いものであり実在ではありませんから、必ず消え去るものであります。




1月20日(水)のつぶやき

2016年01月21日 04時42分02秒 | 日記・エッセイ

人間の本来の姿・・・・・悩みを突きぬけて喜びに到れ goo.gl/dmMVBJ


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人間の本来の姿・・・・・悩みを突きぬけて喜びに到れ

2016年01月20日 21時53分03秒 | 健康・病気・精神分析・心理学・先祖供養・霊的実在・心霊の諸相
人間の本来の姿・・・・・悩みを突きぬけて喜びに到れ
Durch Leiden Zur Freude

思い、思いながら深く内墺の世界へ、旅路の果ては何処か、
心に映る一点の世界を貫きて、観る自身の姿は真実なのか、いやそれは有無逆転の世界なのか疑いて、
もう一度その映る鏡を貫きて我を鑑みる、現象を一度貫いてその現象を裏側から観察すると真実に少し近づく、
その裏側の現象を更に貫くとそこは真実の世界である。



自分自身を鏡に映すと左右逆転の世界です。
自分が見ている現象世界は丁度この鏡に映っている左右逆転の世界であります。
この左右逆転に映っている自分自身の姿の鏡を貫いて、
左右逆転に映って姿を鏡の後ろから再度自分自身を観察すると
もう左右逆転が解消されておぼろげながら真実に近い自分自身の姿が観察されます。
しかし鏡の壁が障壁になり確信に充ちた自分自身の姿が観察されません。
更にもう一度その鏡の背後からその姿を貫き通すと自分自身の真実の世界が観えます。
所謂、現象の自分自身の姿を三六〇度一回りして観ずると本来の自分の姿である天国で生かされている平安なる真実が発見されます。
このように吾々が見たり、聞いたり、食べたりしている五感の現象世界は正に真実のように映りますが、
この鏡のように左右逆転の真実で無い現象世界を見ているのであります。




ですから現象世界の罪、病、迷い、悩み、苦しみは有るようで無いのであります。
無いから消え去るのであります。
この現象世界を三六〇度突き抜けるとそこは天国であり極楽世界であります。
ベートヴェンが晩年全く耳が聞こえない状態で名曲を創り『悩みを突きぬけて喜びに到れ』と言ったことがこのようなことです。