夢から慈しみの世界へ

神と自然と人間の共生
神一元・善一元・光明一元の生活
人間の生命の実相は『仏』であり、『如来』であり『神の子』である

初盆と涅槃と天国と地獄の理(ことわり)・・最終回 (菩提と涅槃と彼岸)

2019年08月19日 21時08分21秒 | 健康・病気・精神分析・心理学・先祖供養・霊的実在・心霊の諸相
心の精進は瞑想(禅定)であり、

瞑想も色々とありますが要するに

明るい積極的な想念と、天と地が一直線に結ばれているように、

正しい姿勢が保たれれば自ずから

正しい思い、

正しいことば、

正しい行い、

正しい態度がとれ、

身体も健康が保たれるものです。



菩提と涅槃と彼岸


私たちは、菩提心という、仏陀に向かって進む心を、迷いの人生の夕暮れに発(お)こし、

心の真の自由と平和、仏教の最高目標である『涅槃の境地』を、

悟りの朝に仰いで生きて行こうではありませんか。

そうしなければ、どうして、淼々(びょうびょう)とした広い

この生死の海底から抜け出て、蕩々(とうとう)として

広大な法身(みほとけ)の世界に昇りつくことができましょうか。


生死海を乗り切るためには、彼岸に至る六つのおこない(六波羅蜜)と

あるいは八つの正しい生き方である(八正道)という大船に乗り、

つとめはげみの(精進)という橦(ほばしら)を立て、

心のしずけさの(禅定)という颿(ほ)をあげて進みましょう。

前途には多くの障害や抵抗がありましょうが、

たえしのびの(忍辱)の鎧(よろい)を被(き)て、

群がる賊をたおしていき(知恵)の剣で威力を示していきましょう。

さらに悟りにいたるための修行である(七覚支)という馬に策(むち)を当て、

人々の溺れ惑う曠野(こうや)を速やかに踏み越え、

世俗を超えるための修行である『四念処(しねんじょ)』という

輪(くるま)に乗って、俗界を高く乗り越えて進みましょう。



六塵(色・声・香・味・触・法)の世界はすべて無常であり、

人々を溺らせる迷いの海であり『常・楽・我・浄』という四つの徳性を備えた涅槃の境涯こそが、

彼岸にそびえる目標の岑(みね)なのです。

                               三教指帰・・・ 弘法大師空海


 
『注』

六波羅蜜・・・布施・持戒・忍辱・精進・禅定・知恵

       布施・・・財施・法施・無畏施(恐怖を除き安心)などを与えること。

       持戒・・・戒律をまもること。

       忍辱・・・苦難に堪え忍ぶこと。

       精進・・・真実の道をたゆまず実践すること。

       禅定・・・精神を統一して、安定させること。

       知恵・・・真実の知恵を得ること。

八正道・・・正しい見解・正しい思い・正しいことば・正しい行為 

      正しい生活・正しい努力・正しい気づかい・正しい精神統一

精進・・・努め励むこと・善をなすのに勇敢であること。

七覚支・・・択法覚支・・・教えの中から真実なるものを選びとり、偽りのものを捨てる。

      精進覚支・・・一心に努力する。

      喜覚支・・・真実の教えを実践する喜びに住する。

      軽安覚支・・・心身を軽やかに快適にすること。

      捨覚支・・・対象へのとらわれを捨てる。

      定覚支・・・心を集中して乱さない。

      念覚支・・・おもいを平らかにする。

四念処・・・思念処観の略。心の存在を構成するものを如実に観ずること。

      ①身を不浄、②受を苦、③心を無常、④法を非我なり、と観ずること。

菩提心・・・さとりを求めて仏道を行なうとする心。さとりを求めて世の人を救おうとする心。

      さとりへ向かう心。発心すること。聖徳太子は『直心』と説いた。

六塵・・・色・声・香・味・触(ふれられるもの、感覚器官)・法(思考の対象)

     人身にいって本来清らかな心をけがすから塵という。

常・楽・我・浄(じょうらくがじょう)・・・永遠であり(常)、安楽に満ち(楽)、絶対であり(我)、清浄である(浄)。

涅槃・・・まよいの火を吹き消した状態。
 
     安らぎの世界





自己の心を支配せよ、一国の支配者よりも偉大なる者である。





すべてのものを善きものと知れ。




天の愛と地の愛と。父の愛と母の愛と。天の気と地の気とがそろって萬物と私達は育成される。

初盆と涅槃と天国と地獄の理(ことわり)・・・其の2 (涅槃への道程のヒントがある。)

2019年08月18日 18時18分13秒 | 健康・病気・精神分析・心理学・先祖供養・霊的実在・心霊の諸相
煮えたぎる灼熱の暑さのなかにも

爽やかな風が吹きぬけ一抹の涼しさを覚えます。


弘法大師空海の24才の時に著した三教指帰(さんごうしいき)を読みかえしていますと、

今から1200程前に書かれた著作でありながら現代社会の諸々の姿が映し出され、

末法の時代である彷徨う現代社会の姿をまるで予言しているかのようであります。

また現代を生き抜き、涅槃への道程のヒントが隠されています。


私たちの行いが善くない場合には地獄に堕ちて、

牛や馬の頭をした獄卒の残虐な仕打ちで報われますし、

善い行為をすれば、

金銀で造られた楼閣のある甘露のような天国の生活が授けられるのです。

これは私たちの心次第であります。

決してはじめから天国や地獄が定まった所にあるわけではないのです。

私も以前には、あなた方のように心を離れたところに

天国や地獄があるのかと思っておりました。

ところが先頃仏教に出逢うことができて、永い迷いから目が覚めたのです。



生死海の賦


生死の迷いの世界とは、まさに大海にもたとえられるものであります。

海の鳴動は磕々(かいかい)と霆(いかずち)のように鳴りひびき、

来る日も来る日も絶えず轟いており、轔々(りんりん)と雷のつんざくように震動して、

夜な夜ないつも充ちています。

ここには多くのものが累(かさ)なり積り、

もろもろの品々がおびただしく叢(あつま)っています。

それゆえ、あらゆる怪奇も育まれ、あらゆる詭詐(いつわり)もここには存在しています。



魚類を見れば、彼らはみなむさぼりの心があり、

いかりの心があり、ひどいおろかさがあり、かつ慾深い生活をしています。

魚には、長さ数千里もある鯤(こん)のような大魚がいます。

かれらは海中をわがもの顔で泳ぎまわり、

鰭(ひれ)を挙げ尾を振り、大口をあけて食べ物をあさっています。

大魚たちが波を吸い込む時には、

欲をはなれて彼岸へと目指す『離欲号』の船も『ほばしら』をくだかれて沈められ、

海の藻くずと消えていきますし、彼らが霧を吐く時には、

『慈悲丸』の大船もかじは折られ、人はおぼれて、無残にほろんでしまいます。・・・・・・・

その他、鳥類、獣類など生死海にあるすべての生き物が、

本能のままに快楽を求めて他をかえりみないありさまを見てきましたが

彼らは、上はこの世の頂上の有頂天から下は最下の無間地獄にいたるまで、

櫛の歯のように並び住み、家並みのようにびっしりと並び棲んでいます。


真の心の安らぎを求める人々は、在家信者の守るべき五つの戒『五戒』、

同じく在家信者の十個の戒律『十善戒』という手押車を使って

迷いの世界を乗り越えようと努めますが、

悪の力に引き戻されて、摩鬼の住む郷に陰々・軫々と引き寄せられてしまうのです。

これでは生死の大海はとても脱出できません。

                          三教指帰・・・(生死海の賦) 弘法大師空海






感謝の心は生命に油を差す。





人間も苦労するほど花が咲く




憎みや怒りは生命の摩擦である。摩擦は生命の浪費である。

 

初盆と涅槃と天国と地獄の理(ことわり)・・・其の1

2019年08月17日 20時14分04秒 | 健康・病気・精神分析・心理学・先祖供養・霊的実在・心霊の諸相


今年は母の初盆なので菩提寺より棚経の連絡があり、

送り火の十五日の当日は台風接近でしたが、小雨程度の天気でした。

子供達は台風を避けて、前日にそれぞれに帰りました。

今年の棚経は住職の御子息さんで、

二十年程前の初々しい若いお坊さんの時は

塔婆を優しく抱き戒名を勧請され、感動したことを思い出しました。

百ヵ日法要の塔婆を持参され初盆を兼ねてのお参りとなりました。

今は堂々たる風格で、丁寧に勧請され

お経の読誦と木魚を叩く姿も大変すばらしかったです。

帰り際に五日後の『施餓鬼供養』の案内をされ次の棚経へと行かれました。

帰りに足下を見ますと雨天用の雪駄があることに初めて知りました。

外には運転手さんが待っておられました。
 
無常の賦

十二因縁という、人生を織りなす連鎖によって、

私たちの心は、猿が欲望のままにとびまわるように、

いつも無明(まよい)によって動かされています。

また、四苦・八苦の苦しみによって

私たちの心の奥はいつも悩まされ続けているのです。

燃えさかる三毒(むさぼり・いかり・おろかさの三つの根本煩悩)の

爓(ほのお)は、昼となく夜となく燔(も)え続け、

鬱蓊(うつおう)と茂る百八の煩悩の藪は、

夏といわず冬といわず茂りに繁っています。


万条の位の人の、宝のような姿も、

死後はただ一条の野辺の煙とともに

大空へ舞い昇っていきます。

千の嬌(なまめ)かしさの妙なる姿態も、

腐れ爛(ただ)れた身体になってしまえば、

だれがそのようなものに近づきましょうか。

無常という暴風は、神仙さえもようしゃしませんし、

精魂をうばう、どうもうな死神は、

貴賤(きせん)の身分などまったく区別しないのです。


墓所に生い茂る薜蘿(つたかずら)だけが

死後の私たちを覆う日常の飾りなのです。


あかつちを塗った堂宇(たかどの)や、

白壁の邸宅(やしき)はいまあなたが仕合せに住んでいますが、

これから永く続いていくわけではないのです。


人々の尸骸(しがい)は草の中に爛(ただ)れ果てて

もとの形を留めませんが、

神識(こころ)は裁かれて地獄等へいき、

そこで沸えたぎった大釜で煎られ苦しめられ、

自由などまったくききません。

恐怖におびえる人たちの哭(な)き叫ぶ声が

毎朝、朝がくるたびに大空にひびきますが

なんの反応もなく、毎夕、夕方がくるたびに絶望だけが残っています。


閻魔大王に頼んでも少しもきいてくれませんし

妻子を呼んでみても、もはや死後の自分にはかまってくれません。


嗚呼、何と苦しいことでしょう。

何と痛ましいことでしょう。



私たちが生きている間に正しい道に向かって努力しないと、

こうした地獄の苦しみ、辛さに会うことになるのです。

生きている間に勉め励みましょう。

光に向かって勉め励みましょう。

        三教指帰・・・(無常の賦) 弘法大師空海



春の花はやがて枝の下に散り、
秋の露ははかなく葉の上で沈(き)えていきます。




人生はすべて仏の光を浴び
仏に向かって歩むところにその意味がある。

個人の運命について・・・あなたの運命の彼方は如何に 其の1

2019年08月04日 22時45分45秒 | 健康・病気・精神分析・心理学・先祖供養・霊的実在・心霊の諸相
浜辺のユリ


中学生の時8K歩いた海岸への遠足地。

断崖に群がるユリの想い広がる。

鳥居の足下でしなやかに揺れ、

遠くの岩礁に海鳥が羽を休め、

ゆっくりと穏やかに打ち寄せる小波。

遥かに広がる白い雲、青い空、蒼い海。



真夏日の障子紙の張り替えに挑む

先輩曰く

この真夏日に障子の張り替え‼

普通は涼しい11月頃だろう❕



先日先輩と仲間たちで道場の障子紙の張り替えに挑戦。

何十年前に張った障子紙に水をかけただけで簡単に剥がれました。

やはり職人が張った障子は素晴らしい技でした。



個人の運命について


宿命とは、過去世の宿業の集積の総決算として現れて来るのです。

此のことが吾々個人の運命の半分を決定しているのです。

宿業と言いましても、宿業は現れている一切の存在は

心の想いに起因した結果でありますから

過去世から現在までの念業である『身業、口業、意業』の三業の集積であります。

吾々の個人の運命は各々が産声をあげた時から、

どのような運命を背負うべきは決定されているのです。

寿命なども大体決まっています。

しかしその宿命は心的な存在で形成されたものでありますから、

現在の心の良し悪しの如き心境、正邪によって修正されるのです。



『注』
『身業、口業、意業』・・・身に行いことと、口に言うことと、心に思うこと。

この三つで生活活動が尽くされる。

あることをしょうと意志するのが意業。

それが身体的行動に現れるのが身業。

言語表現に現れるのが口業。

これを三業と言う。





一切の存在の本質は理念である。



自己の願いを大生命にゆだねよ。大生命は無限力である。



不慮の死といえども、摂理の手から見れば不慮ではない。



宇宙の何処にも損得はないのである。