新たに生まれるとは「”原罪”その他の諸々の罪を背負っている瀆れたる”罪の子”の自分であり、”罪悪の凡夫”である」との過去の妄想から目覚めて、自分は”神の子”であり、瀆れたることのなき聖なる存在であるという新しき自覚に入ることなのである。
釈尊は悟りを開かれた時「山川草木国土悉皆成仏」 (山も川も草も木も国土も悉く皆仏如来のいのちの現成である)との自覚にいられたのであった。
換言すれば、現象の山の形や川の形や草木国土の形やそれを構成する物質分子の形や成分を釈尊は見られたのではない、その現象形態や現象構成の奥にあるところの”仏”を観、”如来”を観、すべての人と物との奥にある”仏如来”又は”神”を見られたのである。
そしてすべての人に、すべての物に、”天上天下唯我独尊なるもの”、を見られたのである。
そして御自身がまた”天上天下唯我独尊”であることを観られたのである。
釈尊は、この独尊の自覚を自己の内に観られただけでなくすべての人と物との内に見られたのであるから、それは高慢になる事なく、天地すべてのものを礼拝する謙遜の心、柔和の心を得られると、人間を含めて、すべての生物(有情)及び無生物(非情)までも兄弟姉妹として相互に合掌敬礼する心を得られたのである。
神と偕に生きる365章より 谷口雅春