目に見えないもの 二 ・・・・・物質の奥に神、仏の生命が輝いている。
輝かしい新しい年がもう目の間に迫っています。
子供達も帰省が始まっています。まだ皆、帰省していませんが
昨晩は東京の次男より今揃っている家族に食事を誘われました。
孫たちは明日はハウステンボスへの気持で胸いっぱいのようです。
物質は無い・・・物質の極微の世界
石、鉄板の壁は物理的な力で粉砕しない限り通過出来ません。
物質でも分析、分解して極微の世界へと突き進むと波動(無)のみの世界が顕れます。
例えば薄いビーニル袋(0.001m)に水を入れると底から水は通過しません。
しかしエチレンオキシドガスは通過してガスが漏れ出でます。
物質の面を肉眼で見ると何も通さない面のように見えますが実際は極微の世界(原子、電子、中性子等)では無数の大きな隙間があります。
それを更に突き進むと光の波動のような無の世界が広がります。
縦、横、厚みの三次元の世界は物質を通過することは出来ませんが、それを超えた四次元の世界では、縦、横、厚みの壁を通過する事が出来ます。
例えば四次元の世界に存在している幽体、霊体(幽霊等)が鉄筋の壁を砕かずに通過し移動が出来ることと同じことです。
非風非幡
六祖、因(ちな)みに風、刹幡(せつぱん)を颺(あ)ぐ。二僧あり對論す、一りは云く幡動くと、
一りは云く幡風動くと。往復して曾(か)て未だ理に契(か)はず、
祖云く、是れ幡の風の動くにあらず、是れ幡の動くにあらず、仁者が心動くなり。二僧悚然(しょうぜん)たり。
無門曰く、
是れ風動くにあらず、是れ幡動くにあらず、是れ心動くにあらず、甚(なん)の處にか祖師を見ん。
若し者裏に向かって見得して親切ならば、方に知らん二僧 は鉄を買って金を得、
祖師は忍俊不禁(にんしゅんふきん)、一場の漏逗(ろうとう)なることを。
『注』
悚然(しょうぜん)―・・・しょんぼりと
刹幡(せつぱん)― ・・・寺に説法があるとき、これを広くしらせるための幡。
忍俊不禁(にんしゅんふきん)―・・・心をおさえることが出来ないこと。
漏逗(ろうとう)―・・・役にたたないこともらすこと。
『無門関』第二十九則
無門はこれを批評して
『是れ風動くあらず、是れ幡動くあらず、是れ心動くあらず』と
祖師即ち六祖慧能の云った『心が動く』をも否定して了(しま)つたのである。これでは祖師の面目丸つぶれである。
祖師は慈悲の心禁(おさえ)へ切れずして一寸口をすべらかして『心が動く』なんて詰まらないこともらしたものである。
『無門関』第二十九則
時間と空間と心と物質とは互いに対立せるものではなくして、
一つの無時間の還り、一つの無空間に還り、一つの無物質に還り、一つの無心に還り、
そこに生命の実相(本当のすがた)があり、それに於いてすべて一つのものである。
心が動く非ず『心』以前なるもの、本体一なるものが動いているのである。
萬法ただ神のすがた、萬物ただ仏のすがた、有情非情同時成道である。
すべてが神によって統一せられているが故に、観る心と観られる物とが別々に成らず、
吾らは風幡の動くを、動くとして知り得るのである。
幡をただの物質の幡として捉えると真実が見えない。
幡の奥に神、仏の本体が動いているのである。
物質は肉眼では有るように見えていながら実際は無いのです。
物質が無いからといって粗末にしてならないのです。物質とみえているものは本当は物質ではない、神の生命、仏の慈悲があらわれているのであるから
大切にして拝み感謝して使わなければならないのである。
輝かしい新しい年がもう目の間に迫っています。
子供達も帰省が始まっています。まだ皆、帰省していませんが
昨晩は東京の次男より今揃っている家族に食事を誘われました。
孫たちは明日はハウステンボスへの気持で胸いっぱいのようです。
物質は無い・・・物質の極微の世界
石、鉄板の壁は物理的な力で粉砕しない限り通過出来ません。
物質でも分析、分解して極微の世界へと突き進むと波動(無)のみの世界が顕れます。
例えば薄いビーニル袋(0.001m)に水を入れると底から水は通過しません。
しかしエチレンオキシドガスは通過してガスが漏れ出でます。
物質の面を肉眼で見ると何も通さない面のように見えますが実際は極微の世界(原子、電子、中性子等)では無数の大きな隙間があります。
それを更に突き進むと光の波動のような無の世界が広がります。
縦、横、厚みの三次元の世界は物質を通過することは出来ませんが、それを超えた四次元の世界では、縦、横、厚みの壁を通過する事が出来ます。
例えば四次元の世界に存在している幽体、霊体(幽霊等)が鉄筋の壁を砕かずに通過し移動が出来ることと同じことです。
非風非幡
六祖、因(ちな)みに風、刹幡(せつぱん)を颺(あ)ぐ。二僧あり對論す、一りは云く幡動くと、
一りは云く幡風動くと。往復して曾(か)て未だ理に契(か)はず、
祖云く、是れ幡の風の動くにあらず、是れ幡の動くにあらず、仁者が心動くなり。二僧悚然(しょうぜん)たり。
無門曰く、
是れ風動くにあらず、是れ幡動くにあらず、是れ心動くにあらず、甚(なん)の處にか祖師を見ん。
若し者裏に向かって見得して親切ならば、方に知らん二僧 は鉄を買って金を得、
祖師は忍俊不禁(にんしゅんふきん)、一場の漏逗(ろうとう)なることを。
『注』
悚然(しょうぜん)―・・・しょんぼりと
刹幡(せつぱん)― ・・・寺に説法があるとき、これを広くしらせるための幡。
忍俊不禁(にんしゅんふきん)―・・・心をおさえることが出来ないこと。
漏逗(ろうとう)―・・・役にたたないこともらすこと。
『無門関』第二十九則
無門はこれを批評して
『是れ風動くあらず、是れ幡動くあらず、是れ心動くあらず』と
祖師即ち六祖慧能の云った『心が動く』をも否定して了(しま)つたのである。これでは祖師の面目丸つぶれである。
祖師は慈悲の心禁(おさえ)へ切れずして一寸口をすべらかして『心が動く』なんて詰まらないこともらしたものである。
『無門関』第二十九則
時間と空間と心と物質とは互いに対立せるものではなくして、
一つの無時間の還り、一つの無空間に還り、一つの無物質に還り、一つの無心に還り、
そこに生命の実相(本当のすがた)があり、それに於いてすべて一つのものである。
心が動く非ず『心』以前なるもの、本体一なるものが動いているのである。
萬法ただ神のすがた、萬物ただ仏のすがた、有情非情同時成道である。
すべてが神によって統一せられているが故に、観る心と観られる物とが別々に成らず、
吾らは風幡の動くを、動くとして知り得るのである。
幡をただの物質の幡として捉えると真実が見えない。
幡の奥に神、仏の本体が動いているのである。
物質は肉眼では有るように見えていながら実際は無いのです。
物質が無いからといって粗末にしてならないのです。物質とみえているものは本当は物質ではない、神の生命、仏の慈悲があらわれているのであるから
大切にして拝み感謝して使わなければならないのである。
見えないもの世界をシリーズで紹介したいと思います
見えないもの・・・・・井戸の蛙の世界
井戸の蛙の世界
もう今年も残すこと僅かであります。今、私が肉眼で見える世界は狭い部屋の中だけの世界です。
こうしている間にも肉眼の目では感じることが出来ないことが外の世界では起こっています。
喜びに興じている人、豊かさに満ちている人、幸運に叫んでいる人、憎しみに満ち満ちている人、苦しみに喘いでいる人、悲しみに沈んでいる人、飢餓に晒されている人、怒りに燃え盛っている人、迫害に耐え忍んでいる人、
恐怖に戦いている人、誘惑に惹かれる人、
このような様々な現象的な運命に翻弄されている世界が万華鏡の如く煌いています。
主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、
また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。
創世記 天地の創造 二―九
主なる神は人に命じて言われた。
園のすべての木から取って食べなさい。ただし善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。
食べると必ず死んでしまう。
創世記 天地の創造二―一六~十七
蛇は女に言った『決してしぬことはない。それを食べると、目が開けて、神ののように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。
女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆(そそのか)していた。
女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。二人の目はひらけ、自分たちが裸であることを知り、
二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。
創世記 天地の創造 蛇の誘惑 三― 四~七
主なる神は女に向かって言われた。
何ということをしたのだ。
女は答えた。
蛇がだましたので食べてしまいました。
主なる神は女に向かって言われた。
お前のはらむ苦しみを大きなものにする。
お前は苦しんで子を産む。
お前は男を求め
彼はお前を支配する
神はアダムに向かって言われた。
お前は女の声に従い
取って食べるなと命じた木から食べた。
お前のゆえに、土は呪われるものとなった。
お前は生涯食べ物を得ようと苦しむ。
お前に対して
土と茨とあざみを生えいでさせる
野の草をたべようとするお前に。
お前は顔に汗を流してパンを得る
土に返るときまで。
お前がそこから取られた土に。
塵にすぎないお前は塵に返る。
創世記 天地の創造 蛇の誘惑 三―十三~一九
蛇の誘惑で智慧の実を食べた世界は、畏怖諸々の移り変わる現象世界であります。
万華鏡の様に煌く現象世界は本当には無いのであります。
見えないもの・・・・・井戸の蛙の世界
井戸の蛙の世界
もう今年も残すこと僅かであります。今、私が肉眼で見える世界は狭い部屋の中だけの世界です。
こうしている間にも肉眼の目では感じることが出来ないことが外の世界では起こっています。
喜びに興じている人、豊かさに満ちている人、幸運に叫んでいる人、憎しみに満ち満ちている人、苦しみに喘いでいる人、悲しみに沈んでいる人、飢餓に晒されている人、怒りに燃え盛っている人、迫害に耐え忍んでいる人、
恐怖に戦いている人、誘惑に惹かれる人、
このような様々な現象的な運命に翻弄されている世界が万華鏡の如く煌いています。
主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、
また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。
創世記 天地の創造 二―九
主なる神は人に命じて言われた。
園のすべての木から取って食べなさい。ただし善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。
食べると必ず死んでしまう。
創世記 天地の創造二―一六~十七
蛇は女に言った『決してしぬことはない。それを食べると、目が開けて、神ののように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。
女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆(そそのか)していた。
女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。二人の目はひらけ、自分たちが裸であることを知り、
二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。
創世記 天地の創造 蛇の誘惑 三― 四~七
主なる神は女に向かって言われた。
何ということをしたのだ。
女は答えた。
蛇がだましたので食べてしまいました。
主なる神は女に向かって言われた。
お前のはらむ苦しみを大きなものにする。
お前は苦しんで子を産む。
お前は男を求め
彼はお前を支配する
神はアダムに向かって言われた。
お前は女の声に従い
取って食べるなと命じた木から食べた。
お前のゆえに、土は呪われるものとなった。
お前は生涯食べ物を得ようと苦しむ。
お前に対して
土と茨とあざみを生えいでさせる
野の草をたべようとするお前に。
お前は顔に汗を流してパンを得る
土に返るときまで。
お前がそこから取られた土に。
塵にすぎないお前は塵に返る。
創世記 天地の創造 蛇の誘惑 三―十三~一九
蛇の誘惑で智慧の実を食べた世界は、畏怖諸々の移り変わる現象世界であります。
万華鏡の様に煌く現象世界は本当には無いのであります。
愛という永遠なる果実・・・・・人間の理念
りんごの本性、実体は何処にあるのかを考える時、リンゴを分析分解して四つに切り分けた部分もりんごであり、
モット切り分け細分化して顕微鏡等で分析すると、科学的にはりんごで有っても、もう人間の五感の感覚では
りんごとして認識して見ることも味わう事もできない。
『りんごの実体』がないことになります。
しかし『りんごの実体』として考えるとき『りんごの実体』はりんごを細分化して顕微鏡等で『部分』を見るのは
りんごでは無くなります。
大地にそびえているりんごの木に生っている『全体』としてりんごの姿を見ることが『りんごの実体』を観ることであり、
『りんごの理念』であります。
人間も同じであります。『部分』なる指をもって人間の『本当の姿』とは云わないのであります。
病まざる、迷わざる、死せざる、穢れない、悩まざる完全なる光明燦然たる『全体』の存在が人間の『本当の姿』であり、
『人間の理念』であります。
また因果を経てりんごの実に成るまでには大地、空気、日光等様々な要素が必要であります。
このようにりんご一つを取って考えてみても『りんごの理念』は人間の感覚では認識できない大いなる地球全体と連携し、
その背後に絶対者(神)の力が貫いています。
色々な要素、因果を経て美しいりんごの実として見ることが出来、美味しく味わうことが出来るのです。
若しりんごの傷んだ部分を顕微鏡等で観察して、肉眼で見えないその小さな傷を切り捨てお店に陳列したら
誰も買わないだろうと思えます。
それはりんごの生命(価値)が無いと判断しているからであります。
人間の生命もりんごと同じように、人間の身体の悪い部分を切り捨ていくと、終には生命が立ち行かないようになります。
しかし人間の生命はその悪い、傷んだ部分にも無限の愛、生命、力が宿っています。
内に秘められた自分自身の無限の愛、生命、生きる力、喜び、調和の素晴らしい姿を認めて
勇気と自信を持って明るい世界へと脱皮するならば、悪い部分である病気、罪、穢れ、悩み等が消滅して
本来の美しい身体と心が顕れて、素晴らしい愛と生命の果実を得ることが出来ます。
全ての人間は無限の価値ある存在であります。
人間の遺伝子暗号は誰のものでも九九、九パーセント同じと云われています。
人間の能力は誰でも同じようなもので、わずかな差で個性という性質が現れているにすぎないと云われています。
人は最初から九九、九パーセントは共通なものがあり、天才も凡人も、悪人も善人も差がないことになります。
『苦しみ、悲しみの奥に聖地がある』
オスカーワイルド
安らぎや英知や愛や喜びという永遠の果実は自分自身の『悩み』という種によって実るだと、
私たちが自分の体験から納得するならば、勇気が湧いてきます。
ニユーイングランド・ディーコネス病院マインドボデイ・クリニック所長
心理学者・心理療法家 ジョーン・ボリセンコ
善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを、世のひとつねにいはく、
悪人なお往生す、いかにいはんや善人をやと。
親鸞上人
りんごの本性、実体は何処にあるのかを考える時、リンゴを分析分解して四つに切り分けた部分もりんごであり、
モット切り分け細分化して顕微鏡等で分析すると、科学的にはりんごで有っても、もう人間の五感の感覚では
りんごとして認識して見ることも味わう事もできない。
『りんごの実体』がないことになります。
しかし『りんごの実体』として考えるとき『りんごの実体』はりんごを細分化して顕微鏡等で『部分』を見るのは
りんごでは無くなります。
大地にそびえているりんごの木に生っている『全体』としてりんごの姿を見ることが『りんごの実体』を観ることであり、
『りんごの理念』であります。
人間も同じであります。『部分』なる指をもって人間の『本当の姿』とは云わないのであります。
病まざる、迷わざる、死せざる、穢れない、悩まざる完全なる光明燦然たる『全体』の存在が人間の『本当の姿』であり、
『人間の理念』であります。
また因果を経てりんごの実に成るまでには大地、空気、日光等様々な要素が必要であります。
このようにりんご一つを取って考えてみても『りんごの理念』は人間の感覚では認識できない大いなる地球全体と連携し、
その背後に絶対者(神)の力が貫いています。
色々な要素、因果を経て美しいりんごの実として見ることが出来、美味しく味わうことが出来るのです。
若しりんごの傷んだ部分を顕微鏡等で観察して、肉眼で見えないその小さな傷を切り捨てお店に陳列したら
誰も買わないだろうと思えます。
それはりんごの生命(価値)が無いと判断しているからであります。
人間の生命もりんごと同じように、人間の身体の悪い部分を切り捨ていくと、終には生命が立ち行かないようになります。
しかし人間の生命はその悪い、傷んだ部分にも無限の愛、生命、力が宿っています。
内に秘められた自分自身の無限の愛、生命、生きる力、喜び、調和の素晴らしい姿を認めて
勇気と自信を持って明るい世界へと脱皮するならば、悪い部分である病気、罪、穢れ、悩み等が消滅して
本来の美しい身体と心が顕れて、素晴らしい愛と生命の果実を得ることが出来ます。
全ての人間は無限の価値ある存在であります。
人間の遺伝子暗号は誰のものでも九九、九パーセント同じと云われています。
人間の能力は誰でも同じようなもので、わずかな差で個性という性質が現れているにすぎないと云われています。
人は最初から九九、九パーセントは共通なものがあり、天才も凡人も、悪人も善人も差がないことになります。
『苦しみ、悲しみの奥に聖地がある』
オスカーワイルド
安らぎや英知や愛や喜びという永遠の果実は自分自身の『悩み』という種によって実るだと、
私たちが自分の体験から納得するならば、勇気が湧いてきます。
ニユーイングランド・ディーコネス病院マインドボデイ・クリニック所長
心理学者・心理療法家 ジョーン・ボリセンコ
善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを、世のひとつねにいはく、
悪人なお往生す、いかにいはんや善人をやと。
親鸞上人
アレルギーの世界からの開放・・・病は気から
幼い頃から小学五年生までは様々な病気にかかりました。
しかし不思議なことに六年生を境に病弱の世界から脱皮していきました。
今考えてみますと当時の担任の先生から劣等感を拭い去る、明るい言葉で説得され、また自分が気が付かないところで人の愛と導きが有ったのではないかと思われます。
その時に患った小児喘息などを例にしてを考えると、その当時はアレルギーという概念は普通の家庭には馴染んでいませんでした。アレルギーからアナフィラキシーへと変わると、全身の生命維持のバランスが崩れます。
アレルギーの語源はギリシア語のallos(変わる)とergon(力、反応)を組み合わせた造語で、疫を免れるはずの免疫反応が有害な反応に変わるという意味である。
アナフィラキシーはギリシャ語である「 ana(反抗して)」と「phylaxis(防御)」を語源とすると云われています。
ある条件で心身が変化するとそれに合わせて反応が起こり、力となり症状が起こり、症状が起こるとそれ(症状)に反抗して 防御しようとする。
この反抗と防御の状態がエスカレーター的に拡大し、また反抗と防御とが同時に行なわれるアンビバレンス的な状態になると全身の生命維持機能のバランスが崩れます。
この様な状態はどの様な病気にも通じるところがあります。
『注』
アンビバレンス(ambivalence)
同一の対象に向かって、相反する心的感情、態度を示すこと。
愛と憎しみなどの強い感情が同時に存在すること。
病は気からと云われています。
レニン遺伝子の研究で世界的な権威の村上和雄さんは気持の持ちようで病気を予防したり、
健康を損ねたりたりするのはけっして『気のせい』という意味ではなく、私はこのことにも遺伝子が関係していると考えています。
休眠している免疫性を高めるための遺伝子をスイッチをONにすることが出来れば、病気を予防したり、病気にかかっても、そこから早く回復することができるわけです。
ガンにかかった人でも『絶対に治るんだ』と思っている人と『もうダメだ』と思っている人とでは、ガン細胞の増殖速度に違いが出てきます。
遺伝子の中にはガンを起す遺伝子とガン化を抑制する遺伝子とがありますがたとえガン遺伝子をもっていたとしてもそれがOFFの状態になっていれば発病しません。
たとえガンにかかっても、生きることに前向きな精神状態でいるときには、ガンを抑制する遺伝子のスイッチがONにになって、その増殖を遅らせることができるでしょう。
ときには、ガン遺伝子をOFFにしてしまって、ガン細胞を消滅させたりすることもあります。
このように遺伝子は心に強く反応します。
心の持ち方で病気も運命も改善出来るのではないかと云えるのではないでしょうか。
プラス発想の効用は、医学の分野でも、自然治癒力の強化としてあらわれています。
『病は気から治すことができる』ととらえることもできるでしょう
自然治癒とは、自分の身体が病気を治しているということですが、正確に言えば、遺伝子が命令して治していることであり、身体の中にははじめからそのようなプログラムがあるということです。
それがONになっているか、OFFになっているかの違いです。
筑波大学名誉教授 村上和雄
アレルギー症状も物事、特に人間関係等を反抗、排除の心を起さないで、
明るいプラス思考で素直に受け止め、相手の身になって考え、優しい穏やかな心で接し、感謝していきますと自分自身の心が滑らかな素肌のようになり、スラスラと息が流れて咳き込むことも無く、心が澄みきり癒されてまいります。
このように罪、迷い、病い、因縁は心の顕わす妄想であり、
本来『無いもの』の一場の夢にすぎないのであります。
人間は神の子なり、仏身なり
金剛身なり、不壊身なり
無病身なり、常楽身なり。
幼い頃から小学五年生までは様々な病気にかかりました。
しかし不思議なことに六年生を境に病弱の世界から脱皮していきました。
今考えてみますと当時の担任の先生から劣等感を拭い去る、明るい言葉で説得され、また自分が気が付かないところで人の愛と導きが有ったのではないかと思われます。
その時に患った小児喘息などを例にしてを考えると、その当時はアレルギーという概念は普通の家庭には馴染んでいませんでした。アレルギーからアナフィラキシーへと変わると、全身の生命維持のバランスが崩れます。
アレルギーの語源はギリシア語のallos(変わる)とergon(力、反応)を組み合わせた造語で、疫を免れるはずの免疫反応が有害な反応に変わるという意味である。
アナフィラキシーはギリシャ語である「 ana(反抗して)」と「phylaxis(防御)」を語源とすると云われています。
ある条件で心身が変化するとそれに合わせて反応が起こり、力となり症状が起こり、症状が起こるとそれ(症状)に反抗して 防御しようとする。
この反抗と防御の状態がエスカレーター的に拡大し、また反抗と防御とが同時に行なわれるアンビバレンス的な状態になると全身の生命維持機能のバランスが崩れます。
この様な状態はどの様な病気にも通じるところがあります。
『注』
アンビバレンス(ambivalence)
同一の対象に向かって、相反する心的感情、態度を示すこと。
愛と憎しみなどの強い感情が同時に存在すること。
病は気からと云われています。
レニン遺伝子の研究で世界的な権威の村上和雄さんは気持の持ちようで病気を予防したり、
健康を損ねたりたりするのはけっして『気のせい』という意味ではなく、私はこのことにも遺伝子が関係していると考えています。
休眠している免疫性を高めるための遺伝子をスイッチをONにすることが出来れば、病気を予防したり、病気にかかっても、そこから早く回復することができるわけです。
ガンにかかった人でも『絶対に治るんだ』と思っている人と『もうダメだ』と思っている人とでは、ガン細胞の増殖速度に違いが出てきます。
遺伝子の中にはガンを起す遺伝子とガン化を抑制する遺伝子とがありますがたとえガン遺伝子をもっていたとしてもそれがOFFの状態になっていれば発病しません。
たとえガンにかかっても、生きることに前向きな精神状態でいるときには、ガンを抑制する遺伝子のスイッチがONにになって、その増殖を遅らせることができるでしょう。
ときには、ガン遺伝子をOFFにしてしまって、ガン細胞を消滅させたりすることもあります。
このように遺伝子は心に強く反応します。
心の持ち方で病気も運命も改善出来るのではないかと云えるのではないでしょうか。
プラス発想の効用は、医学の分野でも、自然治癒力の強化としてあらわれています。
『病は気から治すことができる』ととらえることもできるでしょう
自然治癒とは、自分の身体が病気を治しているということですが、正確に言えば、遺伝子が命令して治していることであり、身体の中にははじめからそのようなプログラムがあるということです。
それがONになっているか、OFFになっているかの違いです。
筑波大学名誉教授 村上和雄
アレルギー症状も物事、特に人間関係等を反抗、排除の心を起さないで、
明るいプラス思考で素直に受け止め、相手の身になって考え、優しい穏やかな心で接し、感謝していきますと自分自身の心が滑らかな素肌のようになり、スラスラと息が流れて咳き込むことも無く、心が澄みきり癒されてまいります。
このように罪、迷い、病い、因縁は心の顕わす妄想であり、
本来『無いもの』の一場の夢にすぎないのであります。
人間は神の子なり、仏身なり
金剛身なり、不壊身なり
無病身なり、常楽身なり。
優しい、慈しみの月明かり
二〇一五年一二月二十五日金曜日午後六時三十分、東の空に輝く満月、三十八年前の一二月二十五日のクリスマスの夜が今夜のような満月だったそうです。
買物を終え、明るさが微妙に違うのでふと見上げると厚い雲の合い間に煌々と大きな真ん丸い月が光輝いていました。
街での『月明かり』は、街全体が人工的な電灯により輝いているので明るいとさほど感じませんが、
街の人工的な光がない山里などの『月明かり』は懐中電灯が要らないほど明るいので、ありがたい事です。
古人は闇夜の中での自然な月明かりは有り難いと深く感じていたのではないでしょうか。
人々は月とは月暦、汐の干満等身近な生活に深く関わり、ある意味で生活の糧であり縁の深いもので有りました。
現代は昔ほど月に神秘性を感じることはなくなり、科学的、頭脳的な智覚で月を見つめるようになりました。
病院の産科でも不思議にも満ち潮時に出産が集中するようであります。
月は不思議な力を持っているようであります。
人類、自然環境は変化し続けていますが、月は千年の前も今も変わらずに人類を照らし、新鮮な息吹と慈しみを降りそそぎ、優しく導いているようであります。
月を頭脳明晰な知性的な心で感じることでは無しに、情感的、直感的に、月光菩薩、月愛三昧、月光摩尼の仏心を『清い心の湖面』に映し、その月の慈愛に満ちた清涼感を観じて、優しさ、慈しみを懐き人類の苦厄を除き、一切の病を癒し、世界の平和を祈ることが必要な時代であります。
月かげの いたらぬ里は なけれども ながむる人の 心にぞすむ。
法然上人
『注』
月光菩薩―・・・月の光のような優しい慈しみの心で苦しみを除く。
月愛三昧―・・・釈尊が阿闍王の身心の苦悩を除くために入った三昧。
月光が人を慰めて熱悩を除くように、王の苦しみを除去したという如来大悲の三昧。
月光摩尼―・・・その光が月の光のように輝く宝珠をいう。熱毒に病む者が、この珠に触れるならば、清涼を得るという。
千手観音の右手に持っている物の一つ。
闇の夜は 苦しきものを、いつしかと、我が待つ月も、早も照らぬか
万葉集 作者不明
雨晴れて 清く照りたる、この月夜 またさらにして、雲なたなびき
万葉集 大伴家持
久方の 月夜を清み、梅の花 心開けて 我思へる君
万葉集 紀小鹿女郎
ぬばたまの 夜渡る月の さやけくは、よく見てましを 君が姿を
万葉集 作者 不明
二〇一五年一二月二十五日金曜日午後六時三十分、東の空に輝く満月、三十八年前の一二月二十五日のクリスマスの夜が今夜のような満月だったそうです。
買物を終え、明るさが微妙に違うのでふと見上げると厚い雲の合い間に煌々と大きな真ん丸い月が光輝いていました。
街での『月明かり』は、街全体が人工的な電灯により輝いているので明るいとさほど感じませんが、
街の人工的な光がない山里などの『月明かり』は懐中電灯が要らないほど明るいので、ありがたい事です。
古人は闇夜の中での自然な月明かりは有り難いと深く感じていたのではないでしょうか。
人々は月とは月暦、汐の干満等身近な生活に深く関わり、ある意味で生活の糧であり縁の深いもので有りました。
現代は昔ほど月に神秘性を感じることはなくなり、科学的、頭脳的な智覚で月を見つめるようになりました。
病院の産科でも不思議にも満ち潮時に出産が集中するようであります。
月は不思議な力を持っているようであります。
人類、自然環境は変化し続けていますが、月は千年の前も今も変わらずに人類を照らし、新鮮な息吹と慈しみを降りそそぎ、優しく導いているようであります。
月を頭脳明晰な知性的な心で感じることでは無しに、情感的、直感的に、月光菩薩、月愛三昧、月光摩尼の仏心を『清い心の湖面』に映し、その月の慈愛に満ちた清涼感を観じて、優しさ、慈しみを懐き人類の苦厄を除き、一切の病を癒し、世界の平和を祈ることが必要な時代であります。
月かげの いたらぬ里は なけれども ながむる人の 心にぞすむ。
法然上人
『注』
月光菩薩―・・・月の光のような優しい慈しみの心で苦しみを除く。
月愛三昧―・・・釈尊が阿闍王の身心の苦悩を除くために入った三昧。
月光が人を慰めて熱悩を除くように、王の苦しみを除去したという如来大悲の三昧。
月光摩尼―・・・その光が月の光のように輝く宝珠をいう。熱毒に病む者が、この珠に触れるならば、清涼を得るという。
千手観音の右手に持っている物の一つ。
闇の夜は 苦しきものを、いつしかと、我が待つ月も、早も照らぬか
万葉集 作者不明
雨晴れて 清く照りたる、この月夜 またさらにして、雲なたなびき
万葉集 大伴家持
久方の 月夜を清み、梅の花 心開けて 我思へる君
万葉集 紀小鹿女郎
ぬばたまの 夜渡る月の さやけくは、よく見てましを 君が姿を
万葉集 作者 不明
苦しみは人間本来の姿では無い。
その時世尊、諸々の比丘に告げ給わく
『色は無常なり、
無常なるは即ち苦なり、
苦なるは即ち我に非ず、
我に非ざれば亦我所に非ず、
是の如く観ずるを、真実観と名づく、
聖弟子、是の如く観ずれば、
色を厭(きら)い、
受想行識を厭い、、
厭いが故に楽(ねが)わず、
楽わざるが故に解脱を得、
解脱すれば真実智生ず、
我が生(しょう)は已(すで)に尽き、
梵行已(すで)に立ち、
所作已(すで)に作し、
自ら後有を受けずと知る』と。
時に諸々の比丘、仏の所説を聞きて、歓喜奉行しぬ。
原始仏典の雑阿含経
『注釈』
色―・・・現象的で視覚、耳覚、嗅覚、味覚、触覚等の五感で観じる形あるものの世界。
衆生の心に映現した仏身に現れている種々の形相。
無常―・・・ありとあらゆるものが移り変わって、少しもとどまらないで永遠性がないこと。
眞実―・・・最高の真理。まことの教え。
受・想・行・識―・・・五蘊のうちの四蘊で精神的なものいう。これを非色の四蘊と称する。
楽―・・・ねがう・ねがい。
解脱―・・・苦しみ悩む世界から開放され自由な平安な状態をいう。
生―・・・輪廻転生(生まれ変わること)して生存・生きること。
梵行(ぼんぎょう)―・・・清らかな行。
所作―・・・目的を達成したこと。なすべきことをすでに果たしたこと。
後有(ごう)―・・・未来世における生存。未来の果報。死後の生涯。迷いの生。
所説―・・・説かれたこと。
歓喜奉行―・・・道徳的、宗教的徳目を実践すること。宗教的に満足した時に起こる喜び。
原始仏典(雑阿含経)―・・・小乗仏教であり、後に法華経などの大乗仏教へと発展する。
般若の『空』の思想の原点である雑阿含経にも、五感の世界亦は六感も含む、
吾々が今生きている無常なる現象世界(霊界も含む)で感じている様々なものは浮き草の様に移り変わり、
永遠性がないものであり、それは苦しみの本になるものであり、
この現象世界に現れている苦しみ、罪、穢れ、病、迷いなどは、
本当の自分の姿では無い(空)のであると説かれています。
法華経の如く大乗的に観ずると、吾々の生命の実相(本当の姿)は
この身この儘で、深遠なる神の愛、優しい仏の慈悲に満たされ、苦しみ、罪、穢れ、病、迷いも無い
光明燦然と輝く『仏』であり、『如来』であり、『神の子』であり、『仏の子』であるのが本来の姿であるのである。
その時世尊、諸々の比丘に告げ給わく
『色は無常なり、
無常なるは即ち苦なり、
苦なるは即ち我に非ず、
我に非ざれば亦我所に非ず、
是の如く観ずるを、真実観と名づく、
聖弟子、是の如く観ずれば、
色を厭(きら)い、
受想行識を厭い、、
厭いが故に楽(ねが)わず、
楽わざるが故に解脱を得、
解脱すれば真実智生ず、
我が生(しょう)は已(すで)に尽き、
梵行已(すで)に立ち、
所作已(すで)に作し、
自ら後有を受けずと知る』と。
時に諸々の比丘、仏の所説を聞きて、歓喜奉行しぬ。
原始仏典の雑阿含経
『注釈』
色―・・・現象的で視覚、耳覚、嗅覚、味覚、触覚等の五感で観じる形あるものの世界。
衆生の心に映現した仏身に現れている種々の形相。
無常―・・・ありとあらゆるものが移り変わって、少しもとどまらないで永遠性がないこと。
眞実―・・・最高の真理。まことの教え。
受・想・行・識―・・・五蘊のうちの四蘊で精神的なものいう。これを非色の四蘊と称する。
楽―・・・ねがう・ねがい。
解脱―・・・苦しみ悩む世界から開放され自由な平安な状態をいう。
生―・・・輪廻転生(生まれ変わること)して生存・生きること。
梵行(ぼんぎょう)―・・・清らかな行。
所作―・・・目的を達成したこと。なすべきことをすでに果たしたこと。
後有(ごう)―・・・未来世における生存。未来の果報。死後の生涯。迷いの生。
所説―・・・説かれたこと。
歓喜奉行―・・・道徳的、宗教的徳目を実践すること。宗教的に満足した時に起こる喜び。
原始仏典(雑阿含経)―・・・小乗仏教であり、後に法華経などの大乗仏教へと発展する。
般若の『空』の思想の原点である雑阿含経にも、五感の世界亦は六感も含む、
吾々が今生きている無常なる現象世界(霊界も含む)で感じている様々なものは浮き草の様に移り変わり、
永遠性がないものであり、それは苦しみの本になるものであり、
この現象世界に現れている苦しみ、罪、穢れ、病、迷いなどは、
本当の自分の姿では無い(空)のであると説かれています。
法華経の如く大乗的に観ずると、吾々の生命の実相(本当の姿)は
この身この儘で、深遠なる神の愛、優しい仏の慈悲に満たされ、苦しみ、罪、穢れ、病、迷いも無い
光明燦然と輝く『仏』であり、『如来』であり、『神の子』であり、『仏の子』であるのが本来の姿であるのである。
天皇誕生日・・・・・天皇様の御心
天皇様は一瞬、一瞬に到る処で国民と共にあり、国民一人一人の喜びと悲しみに常に身をよせ、国民の幸福と日の本の弥栄(いやさか)と世界の人々の平安と平和を深く祈り続けられています。
いにしへの人も守り来し日の本の森の栄えを共に願わむ
平成三年 歌会始め
いにしへの我が国人(くにびと)の踏みし地を千年を越えて我ら訪(おとな)ふ
平成四年 西安
なゐをのがれ戸外に過す人々に雨降るさまを見るは悲しき
平成七年 阪神・淡路大震災
四年余も続きし噴火収まりて被災地の畑に牧草茂る
平成七年 雲仙普賢岳の被災地を訪れて
うち続く田は豊かなる緑にて実る稲穂の姿うれしき
平成九年 歌会始め
戦いの痛みを超えて親しみの心育てし人々を思う
平成十年 国賓として英国ご訪問
語らざる悲しみもてる人あらむ母国は青き梅実る頃
平成十年 国賓として英国ご訪問
『注』英国にて元捕虜の激しき抗議を受けし折り、かって『虜囚』の身となりしわが国人の上
しきりに思われて詠まれたもの。
国のため尽くさむとして戦に傷つけし人のうへを忘れず
平成十年 日本傷痍軍人会創立四十五周年にあたり
聖なる帝に存(ま)して越ゆるべき心のありと宣(の)らしき
平成二年 明治神宮御鎮座七十年にあたり
『注』しづかなる心のおくそこにこえぬべき千年の山ありとこそきけ
明治天皇御製
いまはとて島果ての崖踏みけりしをみなの足裏思えばかなし
平成十七年 サイパン島
『注』終戦六十年に当たる平成十七年六月、両陛下はサイパン島に慰霊の旅を果たされ、
この御歌は、絶望的な戦況の中で島の果ての断崖に身を投じていった女性のことを思われてお詠み
になったもの。
天狼(てんらう)の眼も守りしか土の中に生きりゆく幼児還る
平成十六年 幼児生還
『注』中越地震の被害者の一人であった幼児が、四日ぶりに土石の下から
救出された喜びを読まれた御歌。
空におおいね座のシリウス(天狼星)が登る季節
母吾を遠くに呼びて走り来し汝を抱きたるかの日恋しき
平成十七年十一月、紀宮
『注』平成十七年十一月、紀宮殿下は黒田慶樹様と結婚された。これは、
小ないころの宮様との日々を思い起され、嫁ぎ行く宮様に思いを寄せられ
お読みになったもの。
新しく遷り変わるものは真理ではないのである。
真理は最も古くして最も新しきものでなければならないのである。
日本人が日本人でなくなり、日本人である前に先ず『人類』であるべきと云うのであるが、
その精神内容の真実は人間は日本人でなく、先ず『外国人』であるべきが理想であることを主張しているのである。
一盛り三百円の実物の茄子よりも、又その茄子の写真よりも、その生命を描いた竹内栖鳳の『茄子の絵』の方が、その茄子の生命(理念)を捉えた点に於いては一層真実であり、価値多きものである。
君民一体の生命把握の自覚(君民一体の理念)
中心と周辺とを分割するような思想は、日本的なものでない。天皇と臣民とを分割するような思想は、日本的なものではない。日本人は天皇に於いて自分の生命の本源の象徴を見出し、
天皇はみづからの手身(たみ)であるところの国民を見出したのである。
頭首は手身(たみ)なくして生きないし、手身(たみ)は頭首なくして生きない。
君臣一体の生命把握が、日本民族の最初の中枢的自覚であった。
天皇様は一瞬、一瞬に到る処で国民と共にあり、国民一人一人の喜びと悲しみに常に身をよせ、国民の幸福と日の本の弥栄(いやさか)と世界の人々の平安と平和を深く祈り続けられています。
いにしへの人も守り来し日の本の森の栄えを共に願わむ
平成三年 歌会始め
いにしへの我が国人(くにびと)の踏みし地を千年を越えて我ら訪(おとな)ふ
平成四年 西安
なゐをのがれ戸外に過す人々に雨降るさまを見るは悲しき
平成七年 阪神・淡路大震災
四年余も続きし噴火収まりて被災地の畑に牧草茂る
平成七年 雲仙普賢岳の被災地を訪れて
うち続く田は豊かなる緑にて実る稲穂の姿うれしき
平成九年 歌会始め
戦いの痛みを超えて親しみの心育てし人々を思う
平成十年 国賓として英国ご訪問
語らざる悲しみもてる人あらむ母国は青き梅実る頃
平成十年 国賓として英国ご訪問
『注』英国にて元捕虜の激しき抗議を受けし折り、かって『虜囚』の身となりしわが国人の上
しきりに思われて詠まれたもの。
国のため尽くさむとして戦に傷つけし人のうへを忘れず
平成十年 日本傷痍軍人会創立四十五周年にあたり
聖なる帝に存(ま)して越ゆるべき心のありと宣(の)らしき
平成二年 明治神宮御鎮座七十年にあたり
『注』しづかなる心のおくそこにこえぬべき千年の山ありとこそきけ
明治天皇御製
いまはとて島果ての崖踏みけりしをみなの足裏思えばかなし
平成十七年 サイパン島
『注』終戦六十年に当たる平成十七年六月、両陛下はサイパン島に慰霊の旅を果たされ、
この御歌は、絶望的な戦況の中で島の果ての断崖に身を投じていった女性のことを思われてお詠み
になったもの。
天狼(てんらう)の眼も守りしか土の中に生きりゆく幼児還る
平成十六年 幼児生還
『注』中越地震の被害者の一人であった幼児が、四日ぶりに土石の下から
救出された喜びを読まれた御歌。
空におおいね座のシリウス(天狼星)が登る季節
母吾を遠くに呼びて走り来し汝を抱きたるかの日恋しき
平成十七年十一月、紀宮
『注』平成十七年十一月、紀宮殿下は黒田慶樹様と結婚された。これは、
小ないころの宮様との日々を思い起され、嫁ぎ行く宮様に思いを寄せられ
お読みになったもの。
新しく遷り変わるものは真理ではないのである。
真理は最も古くして最も新しきものでなければならないのである。
日本人が日本人でなくなり、日本人である前に先ず『人類』であるべきと云うのであるが、
その精神内容の真実は人間は日本人でなく、先ず『外国人』であるべきが理想であることを主張しているのである。
一盛り三百円の実物の茄子よりも、又その茄子の写真よりも、その生命を描いた竹内栖鳳の『茄子の絵』の方が、その茄子の生命(理念)を捉えた点に於いては一層真実であり、価値多きものである。
君民一体の生命把握の自覚(君民一体の理念)
中心と周辺とを分割するような思想は、日本的なものでない。天皇と臣民とを分割するような思想は、日本的なものではない。日本人は天皇に於いて自分の生命の本源の象徴を見出し、
天皇はみづからの手身(たみ)であるところの国民を見出したのである。
頭首は手身(たみ)なくして生きないし、手身(たみ)は頭首なくして生きない。
君臣一体の生命把握が、日本民族の最初の中枢的自覚であった。
クリスマスケーキ・・・・・覚仏から行仏へ
クリスマスケーキを宅急便で送ろうと思ったら、生クリームは送れないと言われ、家庭で十二時間冷凍してからでないと送れないと説明を受けました。
伝票を書き終えたところで言われました。
人間は自分の思いのままにいかないと心にストレスが貯まります。
しかし思い直して四個のデカイケーキを持ち、自宅に帰ると四個も冷蔵庫に入らないと叱られました。
丁度孫が遊び来ていたので帰りに、一個ケーキを持たせました。
アー! 残りは取りに来て貰うか、己が持って行くしかないかと思案にくれました。
冷蔵庫に入らないケーキは食べたらと言われ、イブには早いですが切り分けて頂きました。
甘いものを食べると不思議なもので心が冷静になりました。
今日は長崎で今年最後の研修会でした。
自分の醜い心を懺悔して浄める研修会でした。
自分の心を浄めた筈なのに、暫くするとストレスが心の隙間から這い出てきます。
人は常に神、仏の御心、明るい心を把持することが必要であります。
この為一日に一回は時間を決めて、出きる事なら雑用を始めない、清清しい早朝の時間に、
希望に溢れた祈り、瞑想等、また聖書の言葉、経典の読誦、明るい思想の本等を読み、
クーエの自己暗示のように、心を明るい方向に向け、光明生活へと一日のスタートを始め、
就寝時には全てのものに感謝して、神、仏に祈りを捧げ、眠りに入ると安眠ができます。
覚仏から行仏へ
神を敬し礼拝し、祖先の祭祀を怠らず、神、祖先、父母に対して感謝報恩の念を起し、
何らの形で恩に報ずる実践をしなければならないのである。
恩という字は『因(もと)』と『心』の合字である。
われわれの生存の本源者。原因者を知る心が、恩を知る心である。
それを知るだけでは、『覚仏』であっても『行仏』にならないのである。
それを行為に実践するとき、『行仏』になるのである。
行仏となって、はじめて埋もれた仏性が顕在となって活きてはたらくことになるのである。
クリスマスケーキを宅急便で送ろうと思ったら、生クリームは送れないと言われ、家庭で十二時間冷凍してからでないと送れないと説明を受けました。
伝票を書き終えたところで言われました。
人間は自分の思いのままにいかないと心にストレスが貯まります。
しかし思い直して四個のデカイケーキを持ち、自宅に帰ると四個も冷蔵庫に入らないと叱られました。
丁度孫が遊び来ていたので帰りに、一個ケーキを持たせました。
アー! 残りは取りに来て貰うか、己が持って行くしかないかと思案にくれました。
冷蔵庫に入らないケーキは食べたらと言われ、イブには早いですが切り分けて頂きました。
甘いものを食べると不思議なもので心が冷静になりました。
今日は長崎で今年最後の研修会でした。
自分の醜い心を懺悔して浄める研修会でした。
自分の心を浄めた筈なのに、暫くするとストレスが心の隙間から這い出てきます。
人は常に神、仏の御心、明るい心を把持することが必要であります。
この為一日に一回は時間を決めて、出きる事なら雑用を始めない、清清しい早朝の時間に、
希望に溢れた祈り、瞑想等、また聖書の言葉、経典の読誦、明るい思想の本等を読み、
クーエの自己暗示のように、心を明るい方向に向け、光明生活へと一日のスタートを始め、
就寝時には全てのものに感謝して、神、仏に祈りを捧げ、眠りに入ると安眠ができます。
覚仏から行仏へ
神を敬し礼拝し、祖先の祭祀を怠らず、神、祖先、父母に対して感謝報恩の念を起し、
何らの形で恩に報ずる実践をしなければならないのである。
恩という字は『因(もと)』と『心』の合字である。
われわれの生存の本源者。原因者を知る心が、恩を知る心である。
それを知るだけでは、『覚仏』であっても『行仏』にならないのである。
それを行為に実践するとき、『行仏』になるのである。
行仏となって、はじめて埋もれた仏性が顕在となって活きてはたらくことになるのである。