夢から慈しみの世界へ

神と自然と人間の共生
神一元・善一元・光明一元の生活
人間の生命の実相は『仏』であり、『如来』であり『神の子』である

太陽と水と風と大地に生かされている、逞しい稲の生命力。

2018年08月31日 22時52分10秒 | 日記・エッセイ
赤とんぼの群れ


真夏の喧騒から


静寂な秋への予感を


感じるのであろうか。


まだ照りつける水面を


赤とんぼがキラキラと群れる。





暑い夏が過ぎ行き、

毎日救急車の赤色灯が点滅する

忙しい院内の喧騒も落ち着きました。




不二の光明は宇宙に遍満する陽光の如し。


諸宗の真髄を礼拝し、帰一の大願に参ぜむ。


懺悔の為に奉仕し、報恩の為に行乞せむ。


達観すれば実にも此の世は寂光の浄土、妙楽の天国。


 
                                    懺悔の生活 西田天香








輝きしい実績を残した元プロ野球選手・某氏の原光景・・・甲子園の一途な青春の血潮

2018年08月24日 21時39分29秒 | 日記・エッセイ
自分本来の姿を見失い、深い闇の淵で苦しんだ某氏が

秋田の金足農と大阪桐蔭との決勝戦を甲子園の最上部から観戦し、

甲子園の応援と互いの選手の清々しい戦いの中に自分自身の身を投じてつぶやく、

『なんか夢みたいな……。夢なのか、現実なのか、わからないです。』

10代の自分自身の輝かし本来の瑞々しい心が蘇り・・・・・・

『今までは悔やんでばかりの日々を過ごしていましたけど、

また、甲子園に力をもらった』と告げ。
 
これで明日から、少しは顔を上げて、しっかりと地に足をつけて、生きていけます』と言って

某氏はいつまでも甲子園を去ろうとしなかったそうであります。

某氏に気高き魂の復活に、心より声援を送りたいと思います。



罪悪感からの癒しは、より気高き魂がつくられる機会です。

私たちは自分の間違いから生み出した苦しみを

心理的そして精神的、霊的な成長の糧へと変えます。

安らぎや英知や愛や喜びという永遠の果実は

自分自身の悩みという種によって実るだということを

私達が自分の体験から理解するならば勇気が湧いてきます。

               Joan Borysenko, Ph.D.
  


ある人は言う、世界には涙の価値しかないと。

だが私は言おう、そこは魂がつくられる場所だと。

   
                     キーツ



済んだことの中に生活せず、

今の中に生活せよ、

今は常に生きている。

今の中にはあらゆるもなが輝いている。

今は常に新しく、

今は常に喜びに満ちている。






施餓鬼会・水子供養・先祖供養・・・永遠なる、安楽に満ちた平安への道のり。

2018年08月20日 19時23分05秒 | 日記・エッセイ
旧藩主、諫早家の菩提寺である浄土宗 常楽山九品院 慶巌寺で施餓鬼会(せがきえ)の供養がありました。

境内の水子地蔵の前で水子供養、施餓鬼供養の後に先祖供養が行われました。

沢山のお坊さんがお堂を回り散華をなされますとお堂が浄まり、

お坊さんから当家の先祖様と戒名、施主が唱えられますと

読経のなか香を手向けて合掌、お念仏を唱えお参りしました。

以前は旧暦の七月十五日に『盂蘭盆会』が行われていたそうです。

その時期はちょうど満月の頃であり、送り火と満月の光に照らされて、

ご先祖様がお浄土にかえって往かれるそうです。



月かげの いたらぬさとは なけれど ながむる人の心にぞすむ

                                             法然上人

先祖供養はご先祖様と私たちと未来の次世代へのバトンタッチの機会であり、

ご先祖様と自然と私たちが共に生かされている因縁を結ぶ素晴らしい法会であります。

そして飢えに苦しむ一切衆生に往生を祈る施餓鬼供養と先祖供養の功徳により、

ご先祖様、私たち、有情非情、生きとし生けるもの、有りとしあらゆるものを

平安な世界へと誘う大切なおつとめであります。




人生はすべて、仏の光を浴び仏に向かって歩むところに

その意味があるという教え―は、

教理(ことわり)も利益も最も奥深いものです。

自らも他をも、兼ねて利益し済度(さいど)します。

獣や禽(とり)たちも例外ではありません。

春の花はやがて枝の下(もと)に散り、秋の露ははかなく葉の上で沈(き)えていきます。

逝(い)く川の流れは常に流転して住(とど)まることがありませんし、

急風(つむじかぜ)は幾たびか、音をたてて過ぎかつ消えていきます。

このように六塵(色・声・香・味・触・法)の世界はすべて無常であり、

人々を溺らせる『迷いの海』であり、常・楽・我・浄という四っの特性を備えた涅槃の境涯こそが、

彼岸にそびえる目標の岑(みね)なのです。

すでに三海(このよ)は私たちの真の自由をさまたげる束縛であることがよくわかりました。



                            弘法大師空海・・・三教指帰(さんごうしいき)


『注』


済度(さいど)・・・迷える衆生を導いて、さとりの境涯に救い渡すこと。
六塵・・・色・声・香・味・触(ふれられるもの、感覚器官)・法(思考の対象)
     人身にいって本来清らかな心をけがすから塵という。
常・楽・我・浄(じょうらくがじょう)・・・永遠であり(常)、安楽に満ち(楽)、絶対であり(我)、清浄である(浄)
                     ためであ る。
涅槃・・・まよいの火を吹き消した状態。











秋田の金足農の2ランスクイズ! ・・・  素晴らしい直感力

2018年08月18日 23時34分04秒 | 日記・エッセイ


直感力・・・ものごとの本質を『其の儘の心』で直接的に捉えるには―

娘が秋田に嫁いでいますので、奥様と一緒に金足農を応援していました。

秋田の金足農が滋賀の近江を2ランスクイズで逆転さよならゲームを決めました。

アットいう間の出来事でした。

2塁走者が独断でホームまで走ったそうです。

この2塁走者は2ランスクイズが必ず成功出来ると直感で感じたのでしょう。



ある人はふと思い付いた事を実行して成功を収め、ある人は失敗をする。

此の思い付きの差は何処から来るのででしょうか、

これは全力が出せる心身の鍛錬と信念の力ではないでしょうか。

そして結果に捉われない明るさと『其の儘の心』だと思われます。





道元禅師は祇管打座(しかんだざ)と言われたのであります、


『祇管』というのは『只ひたすら』ということです。


『打座』と云うのは打ち座るということです。


只ひたすらに打ち座る―どんな計らいもせずに、


生まれたままの生命其の儘になって座っている。


その工夫を用いないで生命其の儘で座っている『其の儘』が仏の姿である。


ただ座って一切の『人間的力み』を捨てて其の儘になっている其の儘の姿が


『そのまま仏』であると云うのであります。 





心穏やかな極楽世界へ・・・執着の愛と法愛

2018年08月15日 18時07分23秒 | 日記・エッセイ
隣の市に住んでいる末っ子の夫婦が

幼い三人の子を連れて突然やって来て、

元気な姿を見せてくれました。

五才の孫娘が仏壇の木魚を鳴らしている時、

お年玉のように熨斗袋を渡し、

お父さんとお母さんを大切にしてねと言いますと

ニッコリと微笑んでうなずいていました。

今は専用の小さな可愛らしい『盆玉』の袋があるそうです。




執着の愛と法愛

大毘婆沙論(だいびばしゃろん)第二十九 に、

愛にも二種あり、

一に染汚(せんな)愛はいわゆる貪(とん)なりと。

二に不染汚(ふせんな)愛はいわゆる信なり。

愛にして貪(とん)ならざるはすなわちこれ信なりとあります。



貪(むさぼ)らない、私心(わたしごころ)のない愛が『法愛』であり『大慈悲心』なり。




吾々は我と他が分かれていると認識していますが

本来は本々一つであります。

『我』と『他』は一体であると一切を捨て去り、再認識することが『和解』でありであります。

此の和解が『法愛』であります。

有情、非情すべての生きとし生けるもの、有りとし、あらゆるものと和解し、

手を繋ぎ合うことが真実の『愛』であります。

此の『真実の愛』に目覚めると無限がひろがり、

心穏やかな極楽浄土の世界が開けてまいります。









苦労に恵まれている有りがたさ。

2018年08月13日 16時01分48秒 | 日記・エッセイ
苦労に恵まれている有りがたさ。

どんな苦労も仏の慈悲が顕われんが為である。

魂を高め、浄め上げるための修行である。



墓参りにの為に博多から帰省した次女とその家族が実家である我が家の墓と

嫁ぎ先の長崎の墓にお参りして、親子四人元気に帰って行きました。

その次女が話すには嫁ぎ先の御祖母さんが九十二才まで

一人で仏壇を守り続けそうであります。

その御祖母さんのご精進の姿は生き仏様であります。



念仏者は無碍の一道なり、そのいわれいかんとならば、

信心の行者には天神地祇も敬伏し魔界外道も障碍することなし、

罪悪も業報も感ずることあたはず、

諸善もよぶことなきゆへに無碍の一道なりと、云々。 


  歎異抄 第七

どんなに罪が深いように見えていても、如来の大悲の本願海に跳び込んでしまえば、

垢も埃も罪もあらい浄められて清浄無垢の仏心となるのであります。







 



功徳がないのが最大の功徳である。

2018年08月11日 13時03分14秒 | 日記・エッセイ
人生色々、心色々、花色々、森羅万象悉く仏の顕れである。

今此処に仏の生命が生きているのである。

今ここに、常今に、永遠の仏のいのちを観ずるのが救いの第一歩である。

暑さが続いていますが、長崎の小野平野の『稲』は元気に緑色に輝いています。

稲は元々熱帯に向いている作物ですので、水が有りさえすれば元気に育ちます。

しかし寒冷地に品種改良した耐寒力のある『稲』は厳しい暑さではないかと思えます。

与えられた自然環境で生きて行くことが求められています。



碧巌録・・・聖諦第一義 

磨(達磨大師)云く『廓然無聖(かくねんむしょう)』

『自分』が無くなる。『欲しい』が無くなる。『にくたい』が無くなる。『功徳』が無くなる。

功徳がないのが最大の功徳である。


聖だとか。悟りだとか、善だとか、悪だとか何とか引っかかりが蒼空にあるようでは眞に晴れ渡った

『蒼空の心』という訳にはいかないのである。