食事の時、幼子が口を大きく開き、喜びを表現している姿をみていますと、
その心を一心にして母を見つめ、微笑み信頼し、
求める者と与える母と一体となり不安、恐れ、穢れも無い、
其のままの常住坐臥の法性、真如、菩提の生活が今此処に観られ、
極楽世界が今此処に存在することを新ためて感じました。
食事の時、幼子が口を大きく開き、喜びを表現している姿をみていますと、
その心を一心にして母を見つめ、微笑み信頼し、
求める者と与える母と一体となり不安、恐れ、穢れも無い、
其のままの常住坐臥の法性、真如、菩提の生活が今此処に観られ、
極楽世界が今此処に存在することを新ためて感じました。
道元禅師が食事を調える人は、功徳が大きいことを『典座教訓』で説かれています
(典座の心の用いかた)
お米をといだり、おかずを調えたりすることは、典座が自信で手を下し、よくよく注意し細やかな点まで気を配り、心をこめて行い、一瞬といえども、おろそかにしたり、なげやりにして、一つのことはよく注意し気をつけるが、他の一つのことには注意をおこたったりすることがあっては成らない。
典座の職責全うすることは、大海のように広大で深い功徳を積むことであり、この大海も一滴一滴が集まってできているのであるから、ほんのわずかのことでも他人にまかせてはならないし、また山のように高い善根を積み重ねることにおいても、大山はひとつまみほどの土が積もり積もって成ったものに外ならなのであるから、高い山のひとつまみの土ほどの小さなことでも、自分で積み重ねなければいけないのではないか。
『禅苑清規』に「苦い、酸い、甘い、辛い、塩からい、淡いの六つの味がほどよく調っておらず、また軽輭(あっさりとして柔らかである)、浄潔(きれいでけがれがない)、如法作(法にかなった調理がなされている)という、料理の三徳がそなわっていないのでは典座が修行僧達に食事を供養したことにはならない」と言っている。
まず米をとごうとしたなら、そこに砂が混じっていないかどうかよく見、さらに砂を捨てようとしたなら、そこに米が混じっていないかどうかよく気をつけ、このように念をいれてよくよく注意し、気を緩めることがなかったなら、自ずと三徳は十分行き届き、六味もすべてととのい備わってくるであろう。
道元禅師 典座教訓より
あかりをつけましょう ぼんぼりに
お花をあげましょう 桃の花
五人ばやしの 笛太鼓
今日はたのしい ひな祭り
迎えの車の中、3歳の女の子も5歳の男の子も仲よくひな祭りの歌声が響き
愛らしいさわやかな
邪気の無い世界に惹きこまれました。
奥様から買物の時、その美しい透きとおるようなスベスベした白い肌、青々とした葉を携えた大きい大根を持たされますが、その大根さんの喜びを思うとき、大根は漢方でも大事にされ、最近は特に色々な食材の栄養素などの分析が進み色々な条件 を付けて食べていますが、
<例えば緑黄食のカロチンは何々に栄養があるとか>
本来の大根さんの喜びはその美しい透きとおるようなスベスベした白い肌、青々とした葉を大切にし、調味料等は最低限に使用し、体に良いとか等の条件を付けずに其のままに、素直に大根さんの素性、色を失はずに、その出会いを大切にして食する事が大根さんの喜びではないかと思え、自然もこの大根さんの喜びと同じでないかと思えます。
日本の料理には、ひとつの器に盛り合わせる約束事に、季節の予感と旬の味わいを感じさせる山で採れたもの、里で採れたもの、海で捕れたものの三品を、三海の珍味として一つの器に出会わせることと聞いております。
また彩りも原色をさけ日本的な淡い中間色を重んじ、一つの真実性を大事にする為、同じ色、同じ食材を避け、
長年の蓄積で得られた食材と食材との相性を大切にして、
盛り付ける時にも、書道の一筆で書き上げるように、平面的でなく立て、横、厚みのある高低差のある4次元的な風合いを感じさせ、
今一瞬の、ひとつの出会いに永遠を感じられるように、
真な箸で器の絵柄を意識し一気に盛り付け、後は二度といじらない事が肝要だと聞いております。
江戸時代にそば切りと云はれる新しい食文化が根付き、現代まで発展を続け沢山の人々に愛されていますが、そのそば切りについて私なりの思いを述べて見たいと思います。
皆様ご存知のとおりそば切りには、更科系と藪系との流れがございます
更科系は蕎麦の実の中心にある真白な部分を製粉し、藪系は殻も実も一緒に製粉したものです。
いわゆる田舎そばと云われるのはこの藪系に近いものです。
更科系の粉は一粒の実から少量の粉しか取れません又香りもほのかな香りで、ざる、もりなどの付け汁が美味しく頂けます。
藪系は香りが強く温かい汁と相性がよいです。
製麺の方法も江戸っ子の粋が感じられように山芋、アク、鶏卵等など使用せず、純粋な自然な水だけで素早く練り上げ、いわゆる寝かせたり、醗酵させずにそば切りしたら、短時間で茹で上げ、付け汁もあまり付けずに薫りを大切にして素早く戴きます。
このように西洋のスパゲッテイ、ラーメン、うどんと違い醗酵を待たず一切の濁りの無い純粋性を重んじた製麺の方法です。
舌で味を感じるより薫り、色、雰囲気を大切にした日本の精神性が伺えます。