手作りの愛と人生の自動化
その時その時代で政治、経済、住宅環境、暮らし方も変化して来ました。
生活も作業効率、機械化、人や物の移動、連絡方法等もボタン一つで自動化が進んである意味で飛躍的に便利になりました。
所謂アナグロ的な世界からデジタル的な時代へと変身しています。
車の運転も自動化が進んでいるように、車自身が相手を認識するのであれば私たち人間は相手を認識する必要がなくなり自分が運転している意義がなくなります。
私達人間が心で思ったことが何もしないで直ぐに自動的に目の前に現れる時代がもう其処まで迫っているようです。
しかしそれで人間が幸福に満ちた心になれるかは疑問です。
人間は互いに認識し合い、互いに喜び、悲しみ、苦しさを分かち合うところに
自分が存在している意義を見出し、自分自身の存在価値を知り得ることが出来ます。
もし一方的に前述のように自分の思い通りに物事が運ぶのであるならば、互いに共鳴したり、思いやったり、励ましたりする事が必要でなくなります。
もし全ての物事が自動化で解決出来て、人生も生まれた時から全て自動化で暮らす事が出来るならば、
すべての人間がある意味で均整のとれた平等感に満ちていますが、人間の魂の訓練も生長することも必要でなくなり、
新たに生まれた事により兆戦する必要も要らなくなり、自分自身の個性ある意義も無くなり、夢も希望も無くなることになります。
ただ無機物のように淡々と生産される、愛、感情の無い世界が横たわることになります。
デジタル的な世界に生きていても、自分自身で一つ一つの物事を相手の幸福のなるよう丁寧に考えてそれを相手に伝え、相手の反応を自分自身の心で受けとめ、また新たに深切心を与えるように互いに心を通い合わすことが
共に結び合う愛に目覚め、心豊かな愛に満たされた世界を創ることになります。
宗教は限りなく愛することである。従って神の創造又は顕現であるところの人間を、また万物を限りなく愛することである。
宗教とは儀礼でも儀式でもない。弁舌巧みなる事でもなく賛美歌や金剛流の詠歌の節まわしが巧みなことでなく、
人を魅了する説教に巧みなることでもない。それはむしろ稚拙である。
良寛和尚がシラミを自分の肌より取り出してそれに相撲をとらせて、また肌にしまい込みたがるが如き稚拙さである。
また幼心である。
宗教家はまた誠実の世界のものであるから偽善者を激しく憎む。
キリストは万人を愛し、万人の身代わりとしてハリツケになったけれども、偽善者に対しては激しく憎み激しく攻撃したのである。
キリストは人間を限りなく愛したので、人間らしかざる形式主義、偽善者を限りなく憎んだのである。
愛と憎みは裏と表である。
宗教は内に不動明王の憤怒と観世音菩薩の慈悲との両面を蔵するのである。
宗教家の憎みは、彼を愛し、彼を高めんが為の憎みであるが、凡人の憎みは自己を愛し、自己に利益にならざる者を憎むのである。
かくて宗教家の愛は憤怒を内に蔵しながらも、その憤怒は相手を愛する清さの変貌である。
不動明王の憤怒は結局観世音菩薩の慈悲であったのである。
そこに宗教家が単なる哲学者として真理の傍観に終始せずにして、伝道せずにはいられない激しさを超えた性格の流れを持ち、人をその渦中に引き摺って行く所以である。
その時その時代で政治、経済、住宅環境、暮らし方も変化して来ました。
生活も作業効率、機械化、人や物の移動、連絡方法等もボタン一つで自動化が進んである意味で飛躍的に便利になりました。
所謂アナグロ的な世界からデジタル的な時代へと変身しています。
車の運転も自動化が進んでいるように、車自身が相手を認識するのであれば私たち人間は相手を認識する必要がなくなり自分が運転している意義がなくなります。
私達人間が心で思ったことが何もしないで直ぐに自動的に目の前に現れる時代がもう其処まで迫っているようです。
しかしそれで人間が幸福に満ちた心になれるかは疑問です。
人間は互いに認識し合い、互いに喜び、悲しみ、苦しさを分かち合うところに
自分が存在している意義を見出し、自分自身の存在価値を知り得ることが出来ます。
もし一方的に前述のように自分の思い通りに物事が運ぶのであるならば、互いに共鳴したり、思いやったり、励ましたりする事が必要でなくなります。
もし全ての物事が自動化で解決出来て、人生も生まれた時から全て自動化で暮らす事が出来るならば、
すべての人間がある意味で均整のとれた平等感に満ちていますが、人間の魂の訓練も生長することも必要でなくなり、
新たに生まれた事により兆戦する必要も要らなくなり、自分自身の個性ある意義も無くなり、夢も希望も無くなることになります。
ただ無機物のように淡々と生産される、愛、感情の無い世界が横たわることになります。
デジタル的な世界に生きていても、自分自身で一つ一つの物事を相手の幸福のなるよう丁寧に考えてそれを相手に伝え、相手の反応を自分自身の心で受けとめ、また新たに深切心を与えるように互いに心を通い合わすことが
共に結び合う愛に目覚め、心豊かな愛に満たされた世界を創ることになります。
宗教は限りなく愛することである。従って神の創造又は顕現であるところの人間を、また万物を限りなく愛することである。
宗教とは儀礼でも儀式でもない。弁舌巧みなる事でもなく賛美歌や金剛流の詠歌の節まわしが巧みなことでなく、
人を魅了する説教に巧みなることでもない。それはむしろ稚拙である。
良寛和尚がシラミを自分の肌より取り出してそれに相撲をとらせて、また肌にしまい込みたがるが如き稚拙さである。
また幼心である。
宗教家はまた誠実の世界のものであるから偽善者を激しく憎む。
キリストは万人を愛し、万人の身代わりとしてハリツケになったけれども、偽善者に対しては激しく憎み激しく攻撃したのである。
キリストは人間を限りなく愛したので、人間らしかざる形式主義、偽善者を限りなく憎んだのである。
愛と憎みは裏と表である。
宗教は内に不動明王の憤怒と観世音菩薩の慈悲との両面を蔵するのである。
宗教家の憎みは、彼を愛し、彼を高めんが為の憎みであるが、凡人の憎みは自己を愛し、自己に利益にならざる者を憎むのである。
かくて宗教家の愛は憤怒を内に蔵しながらも、その憤怒は相手を愛する清さの変貌である。
不動明王の憤怒は結局観世音菩薩の慈悲であったのである。
そこに宗教家が単なる哲学者として真理の傍観に終始せずにして、伝道せずにはいられない激しさを超えた性格の流れを持ち、人をその渦中に引き摺って行く所以である。