先日のブログ(要石)でご紹介した
鹿島神宮の要石ですが
そこからエネルギーが出ています。
私は、毎週鹿島神宮に行くようになって
最近ようやくそれが分かるようになりました。
私たちは普段
石よりも木に接していることが多いため
石よりも木のエネルギーの方を感じ易いと思います。
鹿島神宮は森の中にあり
木々のエネルギーに溢れています。
そして
木々のエネルギーの中に要石があるため
慣れないと、要石のエネルギーを感じることは難しいと思います。
先日のブログ(要石)でご紹介した
鹿島神宮の要石ですが
そこからエネルギーが出ています。
私は、毎週鹿島神宮に行くようになって
最近ようやくそれが分かるようになりました。
私たちは普段
石よりも木に接していることが多いため
石よりも木のエネルギーの方を感じ易いと思います。
鹿島神宮は森の中にあり
木々のエネルギーに溢れています。
そして
木々のエネルギーの中に要石があるため
慣れないと、要石のエネルギーを感じることは難しいと思います。
また、自分の周りで起きたことも
自分について教えてくれたりします。
私たちは、そこで起きたことを
自分につながっていることとして捉えることで
自らの学びや気づきが深くなり
さらに成長していくようになります。
しかし
学びや気づきを深めるのは楽ではなく
勇気が必要だったり
ときには痛みを伴うこともあったりします。
なぜなら
それをすることは
自分としっかりと向き合うことに他ならないからです。
自分としっかりと向き合うということは
起きたことを、誰かや何かのせいにしないということだったり
自分の嫌な一面を受け入れるということだったり…
そういうことを意味します。
自分のことを客観的に見ることは
結構難しかったりします。
自分に対する先入観や期待が入ってしまうからです。
しかし、客観的に見る方法はあります。
それは、他人を見ることです。
他人を見て
何か嫌な感じがするのであれば
残念ながら自分にもその要素があると言えます。
あるいは
素晴らしいと感じるのであれば
自分にもその要素があると言えます。
どうしてでしょうか?
私たちは
自分の中にないことは、反応し得ないからです。
私たちは
他人を、自分の基準を通して見ています。
以前勤めていた会社に(正確に言うと子会社に)
パワーハラスメントをする人がいました。
その人によって
複数の人がマイナスの影響を受けたものと思います。
私もそのうちの一人でしたが
そのとき
それと同時に、身体感覚に対する大きな気づきもありました。
最初は良く分からなかったのですが
何度も起こったため
その感覚をはっきりと認識するようになりました。
どういうことが起こったのかと言うと
その人と話しをするときはもちろん
その人が何メートルか離れたところにいるだけでも
私のみぞおちが、実際に思いっきり殴られたような
そんな感覚になりました。
実際には何もされていませんでしたが
体感覚を通じて、そのように感じました。
そのとき初めて
ある条件の下では、特段何をする訳ではなくとも
身体がリアルに殴られたような感覚になる
ということを知りました。