「群盲象を撫でる」という言い方がある。広辞苑には「多くの盲人が象を撫でて、それぞれ自分の手に触れた部分だけで巨大な象を評するように、凡人が大事業や大人物を評しても、単にその一部分にとどまって全体を見渡すことができないことにいう」とある。つまり、盲人や凡人を見下した言い方となっている。
しかし、考えてみれば、人間によるこの世界の認識というものは、これ以外に方法はないと思うのだがどうだろう。この世界は無限に広大で、奥深く、複雑である。人間が触れることができるのは、常にその一部、一面でしかない。さらに、それは絶えず変化している。したがって、この世界を前にして、すべての人間は盲人であり、凡人である。まず、必要なことは、この事実を自覚することだと思う。そして、次にやるべきことは、各部分、一面を撫でて得た個別の情報を交換し、総合することである。そうすることによって、全体像に一歩だけ近付くことができる。象を撫でた盲人は、各自が手に触れた部分から得た情報を交換し、総合すれば、象の全体に迫ることができる。人間個人は、常にこの世界のごく一部分にしか触れられない。しかし、その全体である人類として見れば、時間的(歴史的)、空間的(地理的)に広がり、この世界についての知識を広げている。したがって、過去に学び、同時代の他の人に学ぶことで、個人の認識の限界を超えることができる。
このことは、歳を重ね、いろいろなことを経験し、学ぶにつれ、よりよくわかるようになった。もっとずっと無知だった頃は、この世界について、ある側面から説明された本を読み、なるほどと思うと、それだけで世の中のほとんどがわかったような気がしたものだ。その本が優れたものであればあるほど、その傾向が強かった。しかし、優れた(と私が思った)本をいろいろと読み、知識が広がるにつれ、自分自身のあきれるほどの無知さ加減がわかるようになり、この世界の広大さ、奥深さ、複雑さが、理解できるようになってきた。知れば知るほど知らないことの多さが見えてくる。それがこの世界である。分母(この世界)が無限であれば、分子(人が知るところ)がいくら大きくなっても結果は限りなくゼロに近いということを自覚し、いつも謙虚であるべきだと思う。以前、内田樹さんがブログで次のようなことを書かれていた。
「学ぶ」という行為は次のような単純なセンテンスに還元される。
「私には知らないこと、できないことがあります」
「教えてください」
「お願いします」
これだけ。
これが「学び」のマジックワードである。
これが言えない人間は永遠に学び始めることができない。
「私には知らないこと、できないことがあります」
「教えてください」
「お願いします」
これだけ。
これが「学び」のマジックワードである。
これが言えない人間は永遠に学び始めることができない。
至言だと思う。個人も、社会も、そういう認識があってこそ成長する。だから、傲慢な人間は成長しない。自身の狭隘な知識に固執し、それだけで世界を評し、他人とは相容れない人間になってしまう。年を取り、頭の柔軟性が衰えるに従って、ますます頑迷固陋になってゆく。せっかく、多くの人といっしょに象を撫でたのに、他の人が得た情報を受け入れない。広辞苑に言う、象を撫でた群盲の中の一人であり、孤立した盲人ということになる。
社会について言えば、情報が幅広く共有され、コミュニケーションが盛んに行なわれるほど、その構成員のこの世界に関する知識が生かされ、社会として問題に対し適切な対応ができるようになって、その社会は住みよいものになるのではないだろうか。情報が隠され、一部の者に独占されている社会、情報を隠し、独占することが富や地位の獲得、維持につながるような社会は、いずれ遠くない将来に衰退すると考えられる。
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