マルサスの『人口論』について、以前からおかしいなと思っていたので書いておきたい。その命題はつぎのようになっている。
「人口は制限されなければ幾何級数的に増加するが生活資源は算術級数的にしか増加しない」
適切に人口制限をして、生活資源とのバランスを取らなければならないということか。しかし、いくつかの疑問がある。この現実世界では、いわゆる先進国で、特に強力な産児制限などしていないのに出生率が低下し、人口増加も頭打ちになってきている。人口が減り始めているところもある。医療技術の向上によって、乳幼児の死亡率も低くなり、長生きする人が増えているにもかかわらずだ。また、人類史として人口を見ても、ホモ・サピエンスが生まれて20万年、西暦1年ころにやっと世界の人口は2~3億人になり、その後1000年間はほぼ横ばいで、つぎの1000年間に急増し、現在は70億人と言われている。正確な数字はわからないけれど、人類史を通して見たとき、人口は幾何級数的に増えてはいない。人口は、食料の生産力が上がるにつれて増え、その生産力の飛躍的な向上が人口の飛躍的な増大につながっているのが現実の世界である。つまり、マルサスの命題は現実の世界とは合っていない。
マルサスの言う「制限」とは、人為的な制限を言っているのではなく、病気や災害、飢饉なども人口を制限するものであり、そういうものも含めて「制限されなければ」と言っているのであるという反論があるかもしれない。そうだとすると、生活資源のうち最も重要なものは食料であるが、人間の食料としての動物の増え方と人間の増え方とは、人間が動物の一種である限り原理的に同じはずだ。むしろ、直接的な外敵が多い動物は人間より一般的に多産だと思われる。したがって、人間が幾何級数的に増えるのなら、その他の動物も幾何級数的に増えることになる。また、食料となる植物についても条件が整えば動物以上に増えるはずだ。したがって、「制限されなければ」食料も幾何級数的に増えることになる。マルサスの命題は、人間については社会的、あるいは自然的な制限がなかった場合のことを述べ、食料としての動植物に対しては現実的な制限を設けて述べていることになり、そういう意味で正しい命題とは言えない。
生活資源(主に食料)の問題は、人口の意図的な制限によって解決できるものとは別のところにある。
・ 無計画な森林伐採、焼却、土地の広さに対して多すぎる家畜の放牧等々によって大地の荒廃が引き起こされる。
・ かつて森林が貯めていた雨水が一気に下流に流れて引き起こされる洪水により、肥沃な土が流されてしまうことによる耕作地の痩せ細り、減少が起きる。
・ 資本主義経済が浸透するにつれ、食料生産の目的が、共同体維持のためから個人的な金儲けのためへと変容し、一般化している。その結果、自分たちの食料とするために「作る」「獲る」から、売るために「作る」「獲る」へと変わり、大規模化することで自然破壊=食料生産の基盤の破壊を招いている。いま問題になっている水産資源の乱獲もその一例である。
・ 資本主義経済の基では、経済的に農業が成立する条件が厳しくなり、農業離れや耕作地の減少に結びつく。
・ 鉱工業の発展が環境の悪化を引き起こし、動植物(=食料)の生存を脅かしている。
・ 広大な大地に単一の作物を栽培することからくる病害虫や、自然災害に対するリスクが増大している。
・ 貧富の差の拡大が貧困層を増大させ、食料分配の不均衡を招いている。
・ 食料の生産、供給を維持、増大させるために必要な資金が、軍備の増強に使われるような社会情勢にある。北朝鮮に限らず、中国でもアメリカでも、そして日本でも巨額の資金が毎年、軍事目的のために支出されている。
ほかにもいろいろあると思うが、これらの問題は、仮にそれが可能としても計画的に人口を減らすことで解決できるような種類の問題ではない。中国の「一人っ子政策」は、中国の指導者がマルサスの『人口論』の影響を受けた結果であるのかもしれない。しかし、強力な産児制限を実行しても広い意味での人口問題は解決しておらず、全体の人口に占める特定の世代の人口が極端に少ないことからくる弊害が問題になってきている。
ジャレド・ダイアモンドの『文明崩壊』を読んでいると、崩壊した文明の問題は基本的に食糧問題ではあっても、人口問題ではなかったということがわかる。自分たちの食料を生み出す基盤そのものを、自分たちが日々の活動の中で破壊していったということが重要なポイントになっている。かつての文明崩壊が部分としての個別の文明崩壊であったものが、経済のグローバル化によって、地球規模の文明崩壊につながる可能性がある。いまこの社会で、飢餓の問題を論じるとき、マルサスの『人口論』を持ち出すことは問題の本質を見誤らせることになり、害あって益なしだと思う。
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