新宿
「歴史修正主義」という問題がある。“修正”とは間違っている点を正しく直すという意味である。歴史については、ときどき新しい資料や遺物の発見があったときに、従来の通説が修正されることはある。しかし、ここで言う歴史修正主義はそれではない。過去に起きた不都合な真実をいきなり否定するのである。「そんなことがあるはずがない!」「あったと言うなら、その証拠を出せ!」と言う。だからと言って、いろいろな証拠を提示してもそれを証拠として認めるつもりはまったくない。
また、彼らが否定するのは遠い昔のことではない。まだ100年も経っていない(関東大震災は今年で100年となる)、つい最近の出来事である。具体的には、関東大震災のとき、デマによって多くの朝鮮人が殺されたということ、日本軍が大陸に侵攻したとき、南京で多くの市民が殺されたということ、朝鮮人の女性たちが強制的に従軍慰安婦にされたこと、そして、ドイツではナチスによってユダヤ人が虐殺されたこと、それらを「そんなことはなかった」と否定するのである。
関係者が大勢生きていた頃にそんなことを言えば、その非常識さ、無知さは強く非難されただろう。虐殺された人々はもう何も言えない。非人道的な扱いを受けながらも生き残った人々も次々とこの世を去ってしまう。彼我双方の関係者が他界してゆく中で、ここぞと主張するものたちの声が大きくなってきているのである。たとえいまなお生き延びて証言するわずかの人がいても「嘘だ!(われわれが納得できる、つまり納得するつもりなどないが)証拠を出せ!」となる。
彼らが躍起となって否定するということは、社会一般にそれらの行為が悪いこととして非難される対象であることは認識しているようだ。だから、そんな悪いことなどしていないと言う。これは、犯罪者が自分の犯罪を否定するのと似ている。犯罪者には警察による捜査があり、取り調べがあり、検察による起訴があり、裁判があり、処罰がある。しかし、歴史修正主義者に対しては警察も検察も裁判も処罰もない。(なお、EU加盟国の多くでは、ホロコーストの否定は法律で禁止されている)だから言いたい放題となっている。終戦直後に戦勝国による軍事法廷はあった。そこで判決は下され、刑は確定し、それは実行された。それに対し、彼らは「あれは戦勝国による一方的な裁定であり、事実とは異なる」と言って軍事法廷の裁定そのものを否定する。あげくは、先の戦争は、この国のためにやむを得ないものであった、西欧からアジアを解放するための戦争であったと正当化までする。最悪なのは、国そのものが、彼らの言い分に寄り添うことを始めていることである。その設立目的の一つとして、歴史教科書問題や慰安婦問題など歴史認識を是正することをめざすという「日本会議」が作った「日本会議国会議員懇談会」という議員連盟があるが、そこに自民党を中心に200名以上の国会議員、閣僚(岸田総理、安部、麻生、菅元総理も含む)が属していることを見ればわかるだろう。権力内のそういう部分の力が大きくなってきたということだろう。
ここで注目したいのは、これら歴史修正主義者は、ほぼ例外なく人種差別主義者だということである。朝鮮人を、中国人を、ユダヤ人を自分たちより劣等民族として認識している人たちである。彼らの歴史否定は、人種差別の延長上にあるように思われる。「我が国は優秀な民族によって成り立つ国であり、大量虐殺や非人道的なことなどするわけがない」「劣等民族が戦時や社会的混乱時にありがちなことを大げさに言っているだけだ」と考えているようだ。心の中では「劣等民族がそういう扱いを受けるのは当然ではないか」「役に立たない連中はこの地上から消えてしまった方がよい。目障りだ」とも考えているかもしれない。彼らがいまなお街宣車やネット上で行なっている差別発言を聞いたり、見たりすれば、勝手な想像ではないことがわかるだろう。
つまり、いろいろな資料をもとに、彼らと何が正しいかを論争しても意味がないのである。(彼らと論争することは無意味だが、いろいろな資料をもとに、彼ら以外の人に対して、実際に何があったのかを知ってもらうことは、この国の現在、将来のために有益である。彼らの嘘に惑わされる人を減らすために、この国が再び誤った方向に向かわないようにするために)彼らに対しては、法的レベルでその言動を禁止するという方法がある。先に述べたように、EU加盟国の多くでは、ホロコーストの否定は法律で禁止されている。日本でも、遅ればせながら2016年6月3日に「本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律いわゆる「ヘイトスピーチ解消法」が施行されている。この法律が審議された国会において、「“本邦外出身者”に対するものであるか否かを問わず,国籍,人種,民族等を理由として,差別意識を助長し又は誘発する目的で行われる排他的言動は決してあってはならない」という付帯決議もなされている。しかし、その実効性には大きな疑問がある。
いまでも、明らかなヘイトスピーチをしながらデモ行進や車で街頭宣伝をする者たちがいる。デモ行進で彼らは、大勢の警察官によって、それに抗議する人たちからしっかりと守られているように見える。これは、国が本気でヘイトスピーチを解消しようなどとは考えていないということを表している。また、毎年9月1日に墨田区・横網町公園で催される、関東大震災で虐殺された朝鮮人犠牲者の追悼式典に対し、歴代の都知事は追悼文を送ってきたが、小池百合子都知事はそれをやめてしまった。「都慰霊協会が営む大法要で全ての震災犠牲者を追悼している」とのこと。震災の犠牲者と、震災から逃れ、生き延びたにもかかわらず、朝鮮人であることで暴徒によって殺された人たちとを区別せずに同等に扱うと言うのである。災害による死者と人種差別による殺人の犠牲者を同等に扱うということは、明らかに人種差別による殺人を無視していることになる。国や都のこのような態度が、人種差別主義者を元気づけ、歴史修正主義をも隠然と支持していることになる。
このような法的規制に対し、「法的に禁止することは言論の自由に反する」という意見がある。しかし、「言論の自由」の意味を考える必要があるだろう。「言論の自由」とは、つまるところ「権力を批判する自由」である。権力を擁護する自由が奪われた歴史などないのである。自由を奪うのは権力なのだから。したがって、敢えて「言論の自由」と言うときのその意味は「権力を批判する自由」ということである。「言論の自由」は、力の弱い者、反論ができない少数者に対して「悪口雑言」を吐き、「誹謗中傷」をする自由などではけっしてない。それは許されないことである。それが許されるような社会は、まだ未成熟だとも言えるのである。
ところで、彼らの歴史修正主義は、この国が過ちを犯したことを認めないということである。しかし、自分の過ちを認めない人間、自分にとって都合のいい事実しか見ない人間は同じ過ちを何度も繰り返す。それは国というレベルであっても同じである。国の過ちを否定することは、国が同じ過ちを繰り返し、自国民を悲惨な状態に陥れることを繰り返すことになるのだ。個人が過ちを認めないためにそれを繰り返し、そのたびにひどい目に合うのはやむを得ない面があるとも言えるが、国が過ちを繰り返し、そのたびに国民がひどい目に遭うことは許されないことである。
いったい人種差別主義者はどうして生まれるのだろう。その土壌の一つとして「無知」があると思う。たとえば、彼らは人類の歴史を知らない。どうして世界各地にいろいろな肌の色、言葉、生活習慣などが異なる人々が住むようになったのかなどを知らない。ジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』という本を読んでみればいい。それを読み、理解できれば人種差別に意味がないことがよくわかるはずだ。この本はひとりのニューギニア人の問い、「あなたがた白人は、たくさんのものを発達させてニューギニアに持ち込んだが、わたしたちニューギニア人には自分たちのものと言えるものがほとんどない。それはなぜだろうか?」という問に対する1つの答えとして書かれたとのこと。
無知な人は自分が無知であることを知らない。何を知らないのか知らない。一方、人は知識を得れば得るほど、自身がいかに無知であったかに気付く。そして、より多くの知識を求め続けるようになる。山登りに似ている。目の前にある山に登り、頂に立って見ると、その向こうにさらに高い山と広大な地平が見える。そして、そこを目指して新しい挑戦を始める。
支配者は被支配者が無知であることを望む。「反知性主義」を奨励する。騙しやすいからである。教育も支配したがる。余計なことは学ばなくてもよい、俺たちにとって役に立つことだけを学べばよいとなる。たとえば、政府は、昨年8月の「総合科学技術・イノベーション会議」で、各大学に産業界や公的機関などの外部から人材を招いて意思決定機関を設け、世界トップレベルの研究開発に向けて経営力向上を図る方針を決めたという。「経営力向上を図る」と言う。「稼げる大学をめざす」という言葉で話題になったが、いったい大学は何をするところと考えているのだろう。「世界トップレベルの研究開発」は、そして真の創造は、自由な学びと研究からしか生まれない。各大学の意思決定は、各大学が積み上げてきた歴史、伝統の上に、現在、そして将来の役割を果たすべく、各大学が行なうのが当然だろう。
外部からの人材というのは、「経営力向上を図る」のが目的であるから、「産業界」が中心になるだろう。そういう人たちが「意思決定機関」として大学の方向を決めるとすれば、それは、学術会議の任命拒否問題で明らかになったように、政府に批判的なメンバーは排除されるだろう。結果として、政府が学びと研究の方向を決めることになる。つまり、そのメンバーの頭(知識と経験)という限界を越えることができないということである。現在の日本の惨状(アメリカへの過度の従属、お友だち優遇政治、公文書改ざん、隠蔽、検察の腐敗、マスメディアの腐敗、コロナ対策、そして人種差別主義者の台頭etc.)は、この政府を構成する人たちの頭の程度をあらわしている。もっとも、支配者にとっては、自分を越えてほしくないのかもしれない。極端な例だが、カンボジアのポルポトは、眼鏡をかけている者、文字を読もうとした者、時計が読める者など、少しでも学識がありそうな者を手あたり次第に殺害したそうである。当時のカンボジアでは正確な統計はとれず、推定でしかないが、100万人前後の人が殺されたと言われている。
歴史修正主義の問題は、人種差別主義、反知性主義、そして、国民を統治すること、支配することとつながっている。問題は深い。
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