これまでの斎藤忠の描き出す日本古代史の世界は、ほぼ納得のいく話である。やっぱり古代史は九州が舞台なのだ。ここまではいい、さて問題はこれからである。日本書紀が描いた「当時の現代史であるところの乙巳の変や白村江海戦や壬申の乱」といった古代史の最重要課題に、どのような視点でどう切り込んでいくか、である。いうなれば、私にとっての「古代史の最大の課題」、歴史問題の白眉でもある。ここを解き明かすことが、私の人生のライフワークと言っても過言ではない。今日、いよいよ「その謎解き」に突入する時がきたのである(感無量だ)。まあ、前振りはそれくらいにして、それでは斎藤忠の説を読み解きながら、私の考えもついでに述べてみようと思う。
15、九州年号が正史に出てくる
645年以降、大化・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥といった九州年号が書紀でも使用されるようになった。それまでも九州年号はあったのだが、正史に登場するのは乙巳の変以降、つまり皇極天皇からである。これは実際に人々が年号で事件を覚えているということもあるだろうが、私は奈良地方でも「九州年号が使われるようになった」からではないかと思っている。つまり、欽明天皇が王座について敏達・用明・崇峻・推古と順繰りに天皇位を継ぎ、その間蘇我氏が外戚として権力を振るった「言わば蘇我王朝」が乙巳の変で滅亡した以降、何故か皇極・孝徳・斉明・天智と「九州年号が使われ」はじめるのだ。これは、蘇我氏時代までは九州と大和は別々に発展していたが、乙巳の変で「九州の政治・外交・文化が導入された」とは見れないだろうか。或いは、天智天皇(葛城皇子・中大兄皇子)が「九州と関係ある」人物だった、とも考えられる。それまでは余り関係がなかった朝鮮半島の動向にも、日頃から注意を払う政権が出来たとも言えるのだ。乙巳の変で天皇位を継いだ実質的な首謀者の孝徳天皇は、飛鳥から難波長柄豊崎に都を移して海外を見据えた改革も推進したというから、九州年号を使った政権にぴったりである。或いは穿った見方をすれば、九州年号で書いてあることは「九州王朝で起きたことだ」という可能性もゼロではない。書紀の描く大化の改新は、大化という年号から「695年に高市皇子が行った改革」と見る歴史家もいる(らしい)。何れにせよ、歴史が大きく動いた転回点であることは、間違いない。天智天皇が登場するとともに、歴史も激動の時代に入ってくる。。
16、欽明王朝と蘇我氏
推古女帝が亡くなった時、蘇我馬子は既に亡くなっていて、蝦夷と入鹿の時代になっていた。推古女帝の後の天皇位を「誰が継ぐか」で田村皇子と山背大兄皇子とが争ったが、結局田村皇子が天皇位を継ぎ、破れた山背大兄皇子は入鹿によって一族全滅した。田村皇子はのちの舒明天皇である。元々推古女帝の父親である欽明天皇は、継体天皇の息子のうち安閑天皇・宣化天皇が尾張氏の母親から生まれているのに対し、仁賢天皇の娘(武烈天皇の妹)手白香皇女から生まれたとされており、系統が違っているからバックに居る豪族も違うであろう。そもそも武烈天皇に子供が生まれていたら、継体大王は天皇になれなかった家系であるから、継体が天皇位を継ぐこと自体が本人もびっくり、なのである。推古女帝からすれば継体大王は祖父ということであるが、自分に天皇位をもたらした経緯は偶然と呼ぶようなものなのだから胸を張って偉そうに言うことでもない。継体の嫡男が欽明天皇で、その後は子供達が順繰りに天皇位を継ぎ、敏達・用明・崇峻・推古となるのは皆さん御存知の通りだ。継体天皇が波乱万丈の生涯なのに比べて、欽明以下の天皇は兄弟間での皇位争いが激しい。敏達大王の殯の宮で不行跡を働いた穴穂部皇子が殺されて、馬子を殺そうとした崇峻天皇が逆に馬子に殺されるといった、非常に不安定な状況が続いた。この欽明天皇の時に急速に歴史舞台に登場するのが「蘇我氏」である。欽明天皇の后に娘を送り込んで外戚となった蘇我馬子は、用明天皇の下で物部守屋を倒し、絶大な権力を恣にした。以前私は、蘇我氏を九州王朝大和支配の代理人と考えていたが、「九州年号の導入」が蘇我氏滅亡以降だということを考えると「間違いだった」ように思えてくる。欽明天皇は蘇我氏の経済力をバックとして王権を握ったと考えられるが、そもそも蘇我氏が「欽明王朝の主体」だったのではないか、というのが今の考えである。だから古事記が推古女帝で記述をやめているのは、蘇我氏系の天皇が絶えたからだとも考えられる。宣化天皇の皇女石姫の生んだ敏達大王の子供の中で、蘇我氏ではなく、息長真手王の娘広姫との子「押坂彦人大兄皇子」系の舒明天皇が天皇位を継いだことで、蘇我氏系が一時的に絶えたことと関係があるように見える。つまり、この欽明王朝(蘇我氏系)は最後の推古天皇で断絶したのではないだろうか。穿った見方をすれば、天皇位は「男系」が重要ではあるが「それ以上に」母親の勢力、つまりバックにいる勢力の力関係が大事なのである。仁徳天皇から雄略・清寧天皇になり断絶しそうになって、岡山だか丹波だかからヲケ・オケ兄弟を見つけて天皇位を継がせたというのも本当は変な話だし、武烈天皇で断絶したらまた越前から継体天皇を呼び寄せたというのも何とも無理がある。実際は王統交替があったと見るべきだろう。だが書紀は「頑なに血統にこだわ」って歴史を曲げ、すんなり天皇家一族が続いているように描いている。易姓革命のような「万世一系の理念に反する事実」は、一切表に出さず隠しているのだ。私はこの万世一系の理念こそが「日本書紀を貫く糸(意図)」だと思う(糸と意図、バッチリ決まった!)。天武天皇の死後、高市皇子を天皇として認めず、大津皇子を謀反の罪で殺し、長屋王を自殺に追い込んでまで「我が子、草壁」に王位を継がせようとした持統天皇の「執念」を思えば、書紀が目指したものは「持統天皇家系の永久支配」と言えるのではないだろうか。そして文武天皇を経て元明天皇・元正天皇が聖武天皇に託した真実が、この持統王朝を永遠に守り抜く「天壌無窮の神勅」の徹底であった・・・、というのが私の新説である(そんなもん、新しくも何とも無い「ありきたりの説だ」といわれそう、しょんぼり)。とまれ、書紀の一つの目的が持統系の正当化・普遍化であるとすると、その視点からみた歴史がどう変わってくるか確かめてみたい。
17、乙巳の変と大化の改新
これまでの考察を踏まえて私が現在考えている乙巳の変は近畿政権の皇位争い、つまり舒明天皇が崩御して本来は古人大兄王子に移るはずだった天皇位を、甥の軽皇子(孝徳天皇)が中大兄皇子と中臣鎌足を使って蘇我入鹿を誅した事件である。系図的に言えば、古人大兄皇子に行ってしまったら永久に皇位は来ないわけだから、軽皇子は勿論だが中大兄皇子も天皇になれる可能性が出てくる。単純な話だ。それを孝徳新政権と結びつけて「大化の改新の流れ」と説明するのは、日本書紀の造作であろう。現在は「乙巳の変」という名で呼ばれている通り、大化という元号は「当時なかった」ことが確認されているから、孝徳政権の事績の殆どは「実はなかった」ことになる。ではなんで日本書紀は「無いはずの元号を使ってクーデターをでっち上げたのか」ということになる。事件を描くだけなら元号は必要ない。その「大化という元号を使ってまで事件の詳細を記した意図」は何なのか。日本書紀はある意味正直であり、単純である。事件は645年に奈良飛鳥の地で実際に起きたのだが、続く大化2年の孝徳政権で施行された公地公民や班田収授や国郡制などは、実際は696年の「大化2年」に実施された改革である。これを645年の皇位争いに持っていくことで、「乙巳の変のイメージ」を血なまぐさい皇位争いから「中大兄皇子らの政治改革へと印象づける」のが目的だった、と私は考える。695年は天武天皇の長男の高市皇子が政治を行っていた頃で、孝徳政権の治績とされる一連の改革は「高市天皇の元で施行」されていたのである。それを中大兄皇子が蘇我氏を倒して皇位を守り、色々な政治改革に協力したという「ヒーロー説話」に持っていったのではないか。政権の中枢にいた蘇我入鹿が大極殿で誅殺され、蝦夷も大軍に甘樫丘を囲まれ自宅に火を放って自害した、という大事件が人々の記憶に残っているとしたら、果たして日本書紀は出鱈目な記述を書けるものだろうか?。色々な新しい政治改革は645年と言われても695年と言われても、何となく「そうだっけかなぁ」程度の記憶である。しかし大臣を公の場で殺害するという未曾有の事件は、730年の書紀の上梓時期から考えれば「それほど最近のことではない」という記憶は残っている筈ではないか。ここはやはり、乙巳の変といわれているクーデターは645年に確かに起きた事件である、と考えざるを得ない。書紀の記述に従えば、乙巳の変とは「蘇我氏の横暴を倒して、天皇家を転覆から守った」事件である。なので皇統は舒明天皇から皇極天皇になっていた流れを絶やさずに、孝徳天皇へと「スムーズに移行」したことになっている。だが歴史の真実は「単純な皇位継承争い」であり、舒明天皇から「邪魔な孝徳天皇・古人大兄皇子・有馬皇子等」を次々と殺して、孝徳の后の皇極天皇(斉明天皇)の「息子の中大兄皇子」に天皇位をバトンタッチした、それが一連の「乙巳の変とそれ以降」の事件の真実である。中大兄皇子のバックは、母親の皇極天皇の父方が押坂彦人大兄系の茅渟王、母方が蘇我堅塩姫系の桜井皇子の娘の吉備姫王と、父親が不明だが皇極天皇は最初は高向王と結婚していたので、それほど「蘇我氏の色」は付いていない。入鹿が殺された時に古人大兄王子が飛鳥板蓋宮から逃げ帰って、「韓人が鞍作を殺しつ」と言った話は有名だが、当時「韓人」と呼ばれていた人物が誰なのかは分かっていない。案外「中大兄皇子」のことを言っているのではないか、と私は想像している。その可能性は、ゼロではない。なんだか徐々に真実が見えてきたではないか。
18、日本書紀の年次操作
多くの歴史家に指摘されていることだが、書紀に記されている遣唐使の年や推古天皇の治世の年数が実際の年と1年ずれていることがはっきりしているという。大化の改新前後の遣唐使は、旧唐書などによれば631年・654年・659年に行われた。しかし日本書紀によれば630・653・658となる(658年は659年の遣唐使とは別に、もう一回唐に使節を送っているが、目的は玄奘法師と会うため)。また、642年の高句麗のクーデターを641年と書いたり、630年の舒明天皇元年を629年と記している。舒明元年が1年前にずれていても大したことではないようだが、これでは推古天皇の治世が「本来の年数より1年短く」なってしまう。古事記では37年間と書いてあり、本来の年に戻せば「両書はピタリと一致する」のだ。では何故そんな風に「1年前倒し」したのか。それを解くカギが「661年に起こった白村江事件と斉明女帝の死」にある。それは、白村江の戦いが「近畿天皇家抜き」の九州王朝の戦いだったことを何とかして隠そうとして日本書紀が考え出した、究極のマジックである、と斎藤忠は説明する。ここは日本書紀の謎を解く一つのキーであろう。それで1年ずらしという誤魔化しをした為に、他の全部の事件をすべて1年前倒しし、その結果が奇妙な年次記録の改竄となった(天智紀では白村江海戦は天智称制2年の事とし、白村江以降の年次は逆に1年後ろにずらしている)。つまり天智天皇は、斉明女帝の喪に服すという理由で倭国の白村江派遣軍に参加しなかった。それは、事実は662年の出発直前のことであり、「敵前逃亡」とさえ言われてもしょうがない行動である。その結果、近畿軍6万を欠いた倭国軍は白村江で唐・新羅連合軍に大敗し、倭国消滅の直接原因を引き起こした。いわば「裏切り」とも言える近畿軍の撤収を正当化するために、年次操作して「崩御を661年、白村江の戦いを663年」に改変した、というのが斎藤忠の説である。日本書紀に白村江での戦闘描写が実に淡々としていて、まるで単なる日本軍と唐・新羅軍の戦いの一つに過ぎないような描き方であり、結果をちょっと書いて終わっているのは余りに変である。あれほどの国を挙げての大海戦で「敗北して倭国が壊滅状態になった」のにも関わらず、「この年はこんなことがあった」程度の記述なのだ。乙巳の変や壬申の乱を臨場感たっぷりに詳細に描く能力があるのに、である。つまり、日本書紀の編纂者たちの手元には、白村江の海戦に関する情報は「なかった」のだ。だから書けなかったと見るのが正解である。近畿軍は斉明女帝崩御後に帰ってしまっているので、被害も受けなかったし、詳細も殆どわからなかったのである。吉備と駿河も参加せず、上毛臣の関東軍のその後も不明であった。倭国は自分達九州軍だけで白村江に向かい、「致命的な痛手を被った」というのが事実である。天智天皇の近畿軍は、言わば九州軍を見殺しにしたということなのだ。世間の天智天皇に対する風当たりは相当な悪評であったろう。とにかく天智天皇側の近畿大王家は、662年の出発直前の撤退を「歴史から隠したかった」のは間違いない。だから白村江海戦を境にして書紀の年次操作が前後に広げられているのである。何故そんなことをしたかと言うと、天智天皇を悪者にしないためである。書紀の描く天智天皇は、蘇我氏独裁の旧体制を一気に覆して「新時代を開いたヒーロー」として描かれている。彼の和風諡号は「天命開別天皇」なのだ。淡海三船は結構鋭い。
次回はお待ちかね、壬申の乱の謎と天智・天武の真実、である。。
15、九州年号が正史に出てくる
645年以降、大化・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥といった九州年号が書紀でも使用されるようになった。それまでも九州年号はあったのだが、正史に登場するのは乙巳の変以降、つまり皇極天皇からである。これは実際に人々が年号で事件を覚えているということもあるだろうが、私は奈良地方でも「九州年号が使われるようになった」からではないかと思っている。つまり、欽明天皇が王座について敏達・用明・崇峻・推古と順繰りに天皇位を継ぎ、その間蘇我氏が外戚として権力を振るった「言わば蘇我王朝」が乙巳の変で滅亡した以降、何故か皇極・孝徳・斉明・天智と「九州年号が使われ」はじめるのだ。これは、蘇我氏時代までは九州と大和は別々に発展していたが、乙巳の変で「九州の政治・外交・文化が導入された」とは見れないだろうか。或いは、天智天皇(葛城皇子・中大兄皇子)が「九州と関係ある」人物だった、とも考えられる。それまでは余り関係がなかった朝鮮半島の動向にも、日頃から注意を払う政権が出来たとも言えるのだ。乙巳の変で天皇位を継いだ実質的な首謀者の孝徳天皇は、飛鳥から難波長柄豊崎に都を移して海外を見据えた改革も推進したというから、九州年号を使った政権にぴったりである。或いは穿った見方をすれば、九州年号で書いてあることは「九州王朝で起きたことだ」という可能性もゼロではない。書紀の描く大化の改新は、大化という年号から「695年に高市皇子が行った改革」と見る歴史家もいる(らしい)。何れにせよ、歴史が大きく動いた転回点であることは、間違いない。天智天皇が登場するとともに、歴史も激動の時代に入ってくる。。
16、欽明王朝と蘇我氏
推古女帝が亡くなった時、蘇我馬子は既に亡くなっていて、蝦夷と入鹿の時代になっていた。推古女帝の後の天皇位を「誰が継ぐか」で田村皇子と山背大兄皇子とが争ったが、結局田村皇子が天皇位を継ぎ、破れた山背大兄皇子は入鹿によって一族全滅した。田村皇子はのちの舒明天皇である。元々推古女帝の父親である欽明天皇は、継体天皇の息子のうち安閑天皇・宣化天皇が尾張氏の母親から生まれているのに対し、仁賢天皇の娘(武烈天皇の妹)手白香皇女から生まれたとされており、系統が違っているからバックに居る豪族も違うであろう。そもそも武烈天皇に子供が生まれていたら、継体大王は天皇になれなかった家系であるから、継体が天皇位を継ぐこと自体が本人もびっくり、なのである。推古女帝からすれば継体大王は祖父ということであるが、自分に天皇位をもたらした経緯は偶然と呼ぶようなものなのだから胸を張って偉そうに言うことでもない。継体の嫡男が欽明天皇で、その後は子供達が順繰りに天皇位を継ぎ、敏達・用明・崇峻・推古となるのは皆さん御存知の通りだ。継体天皇が波乱万丈の生涯なのに比べて、欽明以下の天皇は兄弟間での皇位争いが激しい。敏達大王の殯の宮で不行跡を働いた穴穂部皇子が殺されて、馬子を殺そうとした崇峻天皇が逆に馬子に殺されるといった、非常に不安定な状況が続いた。この欽明天皇の時に急速に歴史舞台に登場するのが「蘇我氏」である。欽明天皇の后に娘を送り込んで外戚となった蘇我馬子は、用明天皇の下で物部守屋を倒し、絶大な権力を恣にした。以前私は、蘇我氏を九州王朝大和支配の代理人と考えていたが、「九州年号の導入」が蘇我氏滅亡以降だということを考えると「間違いだった」ように思えてくる。欽明天皇は蘇我氏の経済力をバックとして王権を握ったと考えられるが、そもそも蘇我氏が「欽明王朝の主体」だったのではないか、というのが今の考えである。だから古事記が推古女帝で記述をやめているのは、蘇我氏系の天皇が絶えたからだとも考えられる。宣化天皇の皇女石姫の生んだ敏達大王の子供の中で、蘇我氏ではなく、息長真手王の娘広姫との子「押坂彦人大兄皇子」系の舒明天皇が天皇位を継いだことで、蘇我氏系が一時的に絶えたことと関係があるように見える。つまり、この欽明王朝(蘇我氏系)は最後の推古天皇で断絶したのではないだろうか。穿った見方をすれば、天皇位は「男系」が重要ではあるが「それ以上に」母親の勢力、つまりバックにいる勢力の力関係が大事なのである。仁徳天皇から雄略・清寧天皇になり断絶しそうになって、岡山だか丹波だかからヲケ・オケ兄弟を見つけて天皇位を継がせたというのも本当は変な話だし、武烈天皇で断絶したらまた越前から継体天皇を呼び寄せたというのも何とも無理がある。実際は王統交替があったと見るべきだろう。だが書紀は「頑なに血統にこだわ」って歴史を曲げ、すんなり天皇家一族が続いているように描いている。易姓革命のような「万世一系の理念に反する事実」は、一切表に出さず隠しているのだ。私はこの万世一系の理念こそが「日本書紀を貫く糸(意図)」だと思う(糸と意図、バッチリ決まった!)。天武天皇の死後、高市皇子を天皇として認めず、大津皇子を謀反の罪で殺し、長屋王を自殺に追い込んでまで「我が子、草壁」に王位を継がせようとした持統天皇の「執念」を思えば、書紀が目指したものは「持統天皇家系の永久支配」と言えるのではないだろうか。そして文武天皇を経て元明天皇・元正天皇が聖武天皇に託した真実が、この持統王朝を永遠に守り抜く「天壌無窮の神勅」の徹底であった・・・、というのが私の新説である(そんなもん、新しくも何とも無い「ありきたりの説だ」といわれそう、しょんぼり)。とまれ、書紀の一つの目的が持統系の正当化・普遍化であるとすると、その視点からみた歴史がどう変わってくるか確かめてみたい。
17、乙巳の変と大化の改新
これまでの考察を踏まえて私が現在考えている乙巳の変は近畿政権の皇位争い、つまり舒明天皇が崩御して本来は古人大兄王子に移るはずだった天皇位を、甥の軽皇子(孝徳天皇)が中大兄皇子と中臣鎌足を使って蘇我入鹿を誅した事件である。系図的に言えば、古人大兄皇子に行ってしまったら永久に皇位は来ないわけだから、軽皇子は勿論だが中大兄皇子も天皇になれる可能性が出てくる。単純な話だ。それを孝徳新政権と結びつけて「大化の改新の流れ」と説明するのは、日本書紀の造作であろう。現在は「乙巳の変」という名で呼ばれている通り、大化という元号は「当時なかった」ことが確認されているから、孝徳政権の事績の殆どは「実はなかった」ことになる。ではなんで日本書紀は「無いはずの元号を使ってクーデターをでっち上げたのか」ということになる。事件を描くだけなら元号は必要ない。その「大化という元号を使ってまで事件の詳細を記した意図」は何なのか。日本書紀はある意味正直であり、単純である。事件は645年に奈良飛鳥の地で実際に起きたのだが、続く大化2年の孝徳政権で施行された公地公民や班田収授や国郡制などは、実際は696年の「大化2年」に実施された改革である。これを645年の皇位争いに持っていくことで、「乙巳の変のイメージ」を血なまぐさい皇位争いから「中大兄皇子らの政治改革へと印象づける」のが目的だった、と私は考える。695年は天武天皇の長男の高市皇子が政治を行っていた頃で、孝徳政権の治績とされる一連の改革は「高市天皇の元で施行」されていたのである。それを中大兄皇子が蘇我氏を倒して皇位を守り、色々な政治改革に協力したという「ヒーロー説話」に持っていったのではないか。政権の中枢にいた蘇我入鹿が大極殿で誅殺され、蝦夷も大軍に甘樫丘を囲まれ自宅に火を放って自害した、という大事件が人々の記憶に残っているとしたら、果たして日本書紀は出鱈目な記述を書けるものだろうか?。色々な新しい政治改革は645年と言われても695年と言われても、何となく「そうだっけかなぁ」程度の記憶である。しかし大臣を公の場で殺害するという未曾有の事件は、730年の書紀の上梓時期から考えれば「それほど最近のことではない」という記憶は残っている筈ではないか。ここはやはり、乙巳の変といわれているクーデターは645年に確かに起きた事件である、と考えざるを得ない。書紀の記述に従えば、乙巳の変とは「蘇我氏の横暴を倒して、天皇家を転覆から守った」事件である。なので皇統は舒明天皇から皇極天皇になっていた流れを絶やさずに、孝徳天皇へと「スムーズに移行」したことになっている。だが歴史の真実は「単純な皇位継承争い」であり、舒明天皇から「邪魔な孝徳天皇・古人大兄皇子・有馬皇子等」を次々と殺して、孝徳の后の皇極天皇(斉明天皇)の「息子の中大兄皇子」に天皇位をバトンタッチした、それが一連の「乙巳の変とそれ以降」の事件の真実である。中大兄皇子のバックは、母親の皇極天皇の父方が押坂彦人大兄系の茅渟王、母方が蘇我堅塩姫系の桜井皇子の娘の吉備姫王と、父親が不明だが皇極天皇は最初は高向王と結婚していたので、それほど「蘇我氏の色」は付いていない。入鹿が殺された時に古人大兄王子が飛鳥板蓋宮から逃げ帰って、「韓人が鞍作を殺しつ」と言った話は有名だが、当時「韓人」と呼ばれていた人物が誰なのかは分かっていない。案外「中大兄皇子」のことを言っているのではないか、と私は想像している。その可能性は、ゼロではない。なんだか徐々に真実が見えてきたではないか。
18、日本書紀の年次操作
多くの歴史家に指摘されていることだが、書紀に記されている遣唐使の年や推古天皇の治世の年数が実際の年と1年ずれていることがはっきりしているという。大化の改新前後の遣唐使は、旧唐書などによれば631年・654年・659年に行われた。しかし日本書紀によれば630・653・658となる(658年は659年の遣唐使とは別に、もう一回唐に使節を送っているが、目的は玄奘法師と会うため)。また、642年の高句麗のクーデターを641年と書いたり、630年の舒明天皇元年を629年と記している。舒明元年が1年前にずれていても大したことではないようだが、これでは推古天皇の治世が「本来の年数より1年短く」なってしまう。古事記では37年間と書いてあり、本来の年に戻せば「両書はピタリと一致する」のだ。では何故そんな風に「1年前倒し」したのか。それを解くカギが「661年に起こった白村江事件と斉明女帝の死」にある。それは、白村江の戦いが「近畿天皇家抜き」の九州王朝の戦いだったことを何とかして隠そうとして日本書紀が考え出した、究極のマジックである、と斎藤忠は説明する。ここは日本書紀の謎を解く一つのキーであろう。それで1年ずらしという誤魔化しをした為に、他の全部の事件をすべて1年前倒しし、その結果が奇妙な年次記録の改竄となった(天智紀では白村江海戦は天智称制2年の事とし、白村江以降の年次は逆に1年後ろにずらしている)。つまり天智天皇は、斉明女帝の喪に服すという理由で倭国の白村江派遣軍に参加しなかった。それは、事実は662年の出発直前のことであり、「敵前逃亡」とさえ言われてもしょうがない行動である。その結果、近畿軍6万を欠いた倭国軍は白村江で唐・新羅連合軍に大敗し、倭国消滅の直接原因を引き起こした。いわば「裏切り」とも言える近畿軍の撤収を正当化するために、年次操作して「崩御を661年、白村江の戦いを663年」に改変した、というのが斎藤忠の説である。日本書紀に白村江での戦闘描写が実に淡々としていて、まるで単なる日本軍と唐・新羅軍の戦いの一つに過ぎないような描き方であり、結果をちょっと書いて終わっているのは余りに変である。あれほどの国を挙げての大海戦で「敗北して倭国が壊滅状態になった」のにも関わらず、「この年はこんなことがあった」程度の記述なのだ。乙巳の変や壬申の乱を臨場感たっぷりに詳細に描く能力があるのに、である。つまり、日本書紀の編纂者たちの手元には、白村江の海戦に関する情報は「なかった」のだ。だから書けなかったと見るのが正解である。近畿軍は斉明女帝崩御後に帰ってしまっているので、被害も受けなかったし、詳細も殆どわからなかったのである。吉備と駿河も参加せず、上毛臣の関東軍のその後も不明であった。倭国は自分達九州軍だけで白村江に向かい、「致命的な痛手を被った」というのが事実である。天智天皇の近畿軍は、言わば九州軍を見殺しにしたということなのだ。世間の天智天皇に対する風当たりは相当な悪評であったろう。とにかく天智天皇側の近畿大王家は、662年の出発直前の撤退を「歴史から隠したかった」のは間違いない。だから白村江海戦を境にして書紀の年次操作が前後に広げられているのである。何故そんなことをしたかと言うと、天智天皇を悪者にしないためである。書紀の描く天智天皇は、蘇我氏独裁の旧体制を一気に覆して「新時代を開いたヒーロー」として描かれている。彼の和風諡号は「天命開別天皇」なのだ。淡海三船は結構鋭い。
次回はお待ちかね、壬申の乱の謎と天智・天武の真実、である。。
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