明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

孤独な夜に聞くクラシック(1)ポリーニとトリフォノフ、そしてアルゲリッチ

2020-06-14 16:02:06 | 芸術・読書・外国語
1、マウリツィオ・ポリーニ
私のテレビ録画ライブラリーに、彼がベームの指揮でモーツァルトを弾いた若き頃の映像が残っている。ポリーニは別に、クラウディオ・アバドとブラームスの1番を弾いた録画があった筈なのだが消してしまったらしく、白目を剥いたアバドの鬼気迫る熱演が面白かったのだが残念でならない。なんとか再放送されないかと待っているところだが、今回は独りでベートーヴェンのソナタである。彼の演奏は研ぎ澄まされた一音一音が、正確なタッチと速度で再現されるレコード芸術なので、生演奏だからといって余り期待はしていなかった。そんな中で、アダージョなどでピアノの向こうに映し出される表情が、「若い頃とまるで同じ」なのが嬉しかったりした。余り感情を表に出さない演奏ではあるが、こういうのはテレビならでのサービスショットである。

ところで私は31番のフーガが好きなのだが、最後の左手のアルペジオに右手の和音が連打され、徐々に高揚して行って大団円のフィナーレで開放される辺りが特に聞き所と思っている。だが正直に言うと、ポリーニがあんまりに速くて「あっさり」と弾いてしまったので、ちょっと味気ない演奏だったのはいただけない。曲も大会場向きではない内省的な深みを追求する作品だから、すべてが「彼のせい」ではないだろうけど、もっと小さな会場で聴けば、また違って聞こえたのかな、とも思っている。或いは薄暗いフランス王室風の部屋で、窓から差し込む秋の柔らかい光かなんかがスポットライトのようにポリーニのシルエットを浮かび上がらせる・・・なんてのも良いのじゃないのかなぁ。

ちょっと期待はずれの31番に比べると、最後に弾いた32番は素晴らしい演奏だった。やはり演奏は目をつぶってじっくり曲に没入すると、何となく「作曲家の歌」が聞こえてくる。ポリーニもお得意の「小さな声で口ずさんで」いるのが、観客には聞こえない程度だが録音では分かってしまって微笑ませてくれる。こういうのも彼の個性が出ているシーンとして、ファンには堪らないところだろう。ポリーニは冷徹な機械のような演奏でつまらないなどと言われることもあるみたいだが、映像を見る限りでは「相当な情熱を持って弾いている」のが表情で分かる。ただそれを、外に出すか内に秘めるかの違いである。ピアニストは、ピアノを演奏することで「何かを体験」しているのだ。それが何かは「言葉では表せない」のである、音楽だから。ただ、演奏している「時間」を通して、そこに「現れている何か」を感じているのだ、と言える。そしてポリーニが感じている何かを聴衆も共有した時に、「良い演奏だった」と拍手が送られる。この時も、静かな長く温かい拍手が聴衆から送られていた。

ポリーニも年である。もう二度と出会えないかも知れない「一期一会の演奏」が、今終わってしまうことへの万感の思いを込めて、聴衆から「ねぎらいの拍手」がホール全体に響いていた。

ところで78歳という年齢についてだが、日本人の感覚では「まだまだ全然元気だぜぃ」という気持ちだと思うのだが、イタリア人と日本人とでそれほど変わるわけではない。個人差だろう。ポリーニの顔を見ていると目もショボショボしているし、体の動きもゆっくりとしていて「やや覚束ない」気がする。どうも大分御老体なんではないだろうか。しかし指は相変わらず高速で繊細で、傍目には全く衰えを感じさせてはいない。私も70歳だからわかるのだが、本人の意識としては、30歳や40歳の頃と「ちっとも変わってはいない」と思っている筈なのだ。ただ少々歩くのが遅くなった程度だ、と。

まさに「秋来ぬと 目にはさやかに見えねども 風の音にぞ驚かれぬる」である。

ポリーニもあと数年、85歳くらいになったら公衆の前で演奏するのは止めるのではないだろうか。またはモーツァルトとかショパンの激しくない曲(ワルツやノクターンなど)を弾いて、味のある演奏を聞かせる貴重な大御所になっているかも。もしかしてバッハのコラールなんか渋いプログラムながらも、聴衆を「心に響く演奏」で随喜の涙に投げ込んだりしているかも知れない。いずれにしても、名実ともに大注目の「世界一のピアニスト」ポリーニからは、一瞬たりとも目が離せない。

私としては今一度、クラウディオ・アバド指揮のウィーン・フィルをバックに従えて、「ショパン協奏曲の夕べ」なんていうプログラムが放送されればもう、言うこと無しなんだけど・・・。とか考えていたら、アバドは2014年に亡くなっているんだってね。知らなかった。アバドがギドン・クレーメルを迎えてブラームスのコンチェルトを指揮した時は興奮して、満場の大観衆がスタンディングオベーションだったらしいけど、惜しい芸術家がまた一人いなくなってしまった。惜しいことをしたもんである。ポリーニは去年だか日本公演をしたようだが、これが日本では最後になると言われているようだ。その時に行ってきた人が言うには、天井からマイクが下がっていたらしいから、もしかしたら映像が取ってある「かも」知れない。そうなれば良いのだが・・・。

2、ダニール・トリフォノフ
CSのクラシカ・ジャパンで、ショパンのコンチェルトを弾いていたので録画した。ミハイル・プレトニョフ指揮&編曲・マーラー室内管弦楽団の演奏で、場所はドルトムント・コンツェルトハウスである。トリフォノフはちょっと風変わりな芸術家肌の印象で、ステージに出てくる時も「余り人に慣れていない」感じだった。ピアノの演奏は繊細で丁寧、感情表現は豊かとまでは言えないが、それなりに指も回ってショパンらしい「サロン風」の演奏と言える。レパートリーは spotefy のプレイリストで見る限り、バッハからモンポウまでと幅があるが、モーツァルトやベートーヴェンなどはまだレコードを出してないらしくて、ショパンとラフマニノフを主に演奏活動をしているようだ。ジャケットの写真などは髪を綺麗に撫でつけ、端正な顔立ちで写っているが、今回の映像では「少し薄くなった髪の毛が顔に掛かって」いてちょっとだらしなく、だいぶ前とは感じが違っている。およそ一流ピアニストというのは総じて「運動不足の青白いタイプ」が多いように思うが、「趣味でサッカーやってます」みたいな筋肉質なアスリート体型のイケメンというのは、やはり無理なんだろうか(無理に決まってるだろが!)。まあ我々が思っているだけで、当人たちはまるで興味は無いんだろうね、音楽以外は。そうでなければ、クラシック界で生き残っていくのは、多分至難の業だから。

で、今回の聞き所は、プレトニョフの編曲がショパンのオーケストレーションの弱さを見事に補っている、という点も注目だったようだ。そもそもオーケストラの演奏は「ピアノの見せ場」をお膳立てする刺身のツマ、ぐらいにしか思ってなかったので、正直言って編曲してると聞かされなければ分からなかった。その辺りは、ブラームスとショパンの違いだろう。ちなみにピアノ・コンチェルトで私の好きなのは、モーツァルトは別格として、ショパン2曲とブラームス2曲、それにシューマンとグリークのイ短調が好みだ(完全ミーハーじゃねぇーか!)。ベートーベンやチャイコフスキー、それにリスト・ラフマニノフなどは好きではない。ちょっとマイナーだがラヴェル辺りは滅多に聞かない(ABMの演奏という事で、レコードは持っていた)。私自体が人間嫌いというのもあって、どうも聴衆受けを狙っている作品は好きじゃないのだ。トリフォノフの演奏は、その点では「好感が持てる」いい演奏である。だが、ピアノ越しに見る彼の「ヒネた表情」には、どうも余り感心しない。やっぱりオペラやバイオリンと違って、ピアニストはテレビで見るもんじゃないのかもね。

3、アルゲリッチ
ダニエル・バレンボイムの指揮でチャイコフスキーを弾いていたが、相変わらず「髪ボサボサ」で見苦しい。もうこうなると曲がどうの演奏がどうのというレベルではなく、テレビで見ること自体が私的には「受け付けない」から困ったもんである。アルゲリッチが「髪振り乱した鬼婆」なら、バレンボイムはホラー映画の「ジェイソン」みたいで、これまた「直視に耐えない容貌魁偉」だから好きになれないのだ。そもそもクラシックの演奏家や指揮者が、見てくれをあれこれ言われるのは心外だと思われるかも知れない。演奏が素晴らしければ、容姿など「どうでもいいではないか?」というのが常識である。確かに音だけ聞いていればそうであろう。テレビやDVDじゃなくて「レコード」なら、十分他を圧倒するだけの力量を発揮する2人である。

だが残念なことにこの2人には、私は何かしら「演奏以前に」尊敬や親しみを感じることが出来ないのである。こういう人はどちらかと言えば珍しい部類に入るだろう。アルゲリッチはどこか真っ暗な地下室に潜んでいて「全く陽の光を浴びていない住人」のようだし、バレンボイムはこれまた「どこか遠い世界からやって来た宇宙人」にも思える風貌で、何を考えているかわからない底知れぬ恐怖を覚えるのである。勿論これは、私の「まったくの偏見」であり、今流行りの誹謗中傷になるから「単に、余り好きではない」と表現するようにしている。アルゲリッチやバレンボイムのファンには申し訳ないが、これは私の個人的印象である。印象は、いつか変わる時もあろう。

まあそんなわけだけど、肝心のアルゲリッチの演奏については「余りにも技術が凄すぎて」、演奏についていけないと思う時が多い。彼女は曲を弾く時にどんなに複雑で難しいパッセージでも、イメージを感じるだけで「そのまま演奏することが出来る」と何処かの本で読んだ記憶がある。私のような素人は、楽譜の難しい和音など、音符を一つ一つピアノで弾いて確認してから「音にして」、それで楽譜を読んでいくのだがアルゲリッチは、作曲者の意図を彼女が頭の中で理解することで「即、ピアノが弾けちゃう」らしいのだ。つまり、我々が日本語の文章をスラスラ声に出して読めるのと同じように、アルゲリッチは楽譜を見たら「瞬時に」演奏出来るのである。これを天才と言わずして何と言おうか!

だからと言って彼女の演奏が好きになるかは別である。少なくとも私は、彼女が余りにも「スラスラ」弾いてしまうのが「ちょっと嫌い」である。やはり音楽は、情感たっぷりの聴かせ所は「ほんの少しテンポを抑えてでも」感情移入の時間が欲しいではないか。その辺が好きなピアニストとそうでない人との差である。そんな訳で私にとっては、アルゲリッチは「世界No. 1のピアニスト」にはノミネートされてはいない。昔、ポリーニとアルゲリッチが「アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ」に師事した事があった。その時、教えを請いに来た二人に、ABMは「教えることはない」と言って帰したそうだ。もう演奏技術は完璧だったのである(これ、記憶や出典はあやふやだから、興味のある方は調べてね)。そんな訳で師弟関係は出来なかったようだが、もし「じっくり」と教えていたら、アルゲリッチも「もうちょっと感情表現に人間味が出てくるのに」と思ってしまう。まあ、速く弾けば良いってもんじゃないという「低レベルの話」ではないのだが、一応アルゲリッチの評価は「余り好きじゃない」という事にしておこう。

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