で今回は「卑弥呼自身の謎」について考察を進めている。私にとっては、邪馬台国が何処にあったかより「余程こちらの方」が面白い話題なので、期待して読み進める。まず「卑弥呼」と狗奴国の男王「卑弥弓呼」は素より不和・・・と陳寿は記しているが、氏はここから巻二「卑弥呼以死を考える」を始めた。
遡ること建武中元二年(57年)、当時の倭国は後漢光武帝に金印を賜ったと歴史署にある。これが江戸時代に今の福岡県福岡市東区志賀島叶ノ浜あたりで発掘された「漢委奴国王」である(これは全部、本に書いてあることの丸写で、とにかく私は過去の事実に関しては無知です)。金印は巨石の下に埋まってとされる。
では何故「志賀島」だったのか?
これは昔からずーっと謎であり、「疑惑の根本」だったのである。だって「志賀島の畦道の下?」なんて、何の言い伝えも歴史もない「辺鄙な田舎」だからだ。それを解くにあたって宮崎氏はまず印面の「委奴国」を江戸時代の学者三宅米吉のように「委の奴国」と読んではいけない、と言う。中国の史書、後漢書では倭国は古の「倭奴国也」と書かれており、はっきりと「委奴」国と認識しているのだ。倭の奴国では無い(これについては古田武彦氏の精密な考察により既に決着しているが、そういう言及は無かったようだ)。
宮崎氏は山海経に「蓋国在鋸燕」とある点を引いて、南倭と北倭は燕国に属すると解釈している。つまり倭は燕の属国で朝貢しているというのだ。中国(燕)は日本(韓国を含む!?)を「倭」と呼んでいた。倭人とは「従順な人」の意味だと宮崎氏は言う。
それに対して古代日本人は何と自称していたかと言うと、中国が委奴国と蔑んで卑字を当てはめたのを「そのまま使う程バカではない」だろうから、多分「伊那」だろうと宮崎氏は主張している。つまり奴をナと読んだ説である。果たして、当時(後漢の頃)の中国人が「奴」を何と発音したかが分からないが、これは古代中国の音韻学の先生に聞けば大体の事は分かるのじゃないか。私の個人的な考えでは現代において奴を「ナ」と読むのは逆に「この話」に引きずられて出来た読み方にも思えるが、本当は全然違う読み方もあるかも知れない。まあ、この点については宮崎氏は何も言っていないのでスルーだ(正確には学術的な研究が必要だけど、中国にも相当「方言いっぱいある」ので大変だ。その中で当時の魏の人々が「奴」を何と発音したかについては浅学にして私には知識が無い。誰か教えて~)。
宮崎氏に従えば委奴国=伊那国を解釈すると「治める人の美しい邑」である。日本人は漢の暦を理解した上で光武帝に「その何かの節目に伊那国の大夫」として朝賀したと考えられる。では、その「後漢」に朝貢するほど有力の伊那国が、後年に陳寿が著した魏志倭人伝に「一切書かれていない」のは何故か?。宮崎氏は委奴国は「委国と奴国」に分離したと言う(これ新説!)。つまり、伊国と那国である。この委奴国の「読み」については多くの人が色々な読み方をしているが、光武帝に金印を授与された委奴国は分裂合体を繰り返して卑弥呼の頃には「伊都国」になっていた、と宮崎氏は説明する。委奴国は「伊」すなわち伊都国と「那」すなわち那珂郡に分裂した。結局、委奴国は伊都国と那国になったので名前は残らなかったという訳だ。
ちなみに後漢光武帝に委奴国が朝貢した珍宝は何かというと、それは宮崎県北を流れる五ヶ瀬川上流域に高千穂町や日之影町の「金」だそうだ(本当かな?)。
で、ここで元に戻って「何故金印が志賀島で発見されたのか?」を改めて解き明かしていく。つまり委奴国(伊那国)は元々「伊都国地域と奴国地域」の2つに分かれていた。ところが奴国王が「合体した伊那国王」として後漢から金印を貰ってしまったのである。これで奴国が決定的に優位に立った事になり、出し抜かれた伊都国王との間で覇権争いが勃発した(これはあくまで宮崎氏の想像である)。伊都国の攻撃から金印を守るために、奴国王は「志賀島に秘匿」したと宮崎氏は言う(その後、伊那国は分裂して伊都国と奴国になった)。
一方、倭人は古くから中国と貿易していて、渡海に必須の「操船技術に長けた海人」達である安曇連の拠点が「筑前国糟屋郡安曇郷(旧福岡県粕谷郡新宮町と志賀島)」にあった。伊那国王(奴国王)はこの部族に命じて、その支配地域の志賀島に金印を隠したのではないか?、というのが宮崎氏の考えである。
ここまで読み進めて来たところで何となく「歴史の証明にはなってない」な、と感じた。あくまで私の感想である。まあ志賀島で何で金印が発見されたか?というのは歴史の永遠の謎であるが、しかし後漢光武帝から金印を授与された事は「当の中国の歴史署」にも書かれている「紛れもない事実」である。ただ、それを貰ったであろう国が「その後、何の痕跡も残さず」消滅したとは考えにくい。「倭国は古の委奴国也」と言う中国歴史署の記述もある。ボンヤリとしたイメージだが、委奴国は「日本全体をまとめ上げてその宗主」となり、朝鮮半島に進出する「大国=倭国」に発展したんじゃないだろうか?。これ5世紀の倭の大王達である。
じゃあなんで「せっかく後漢から貰った金印」を大切に持っていなかったのか?、だ。
これは私の勝手な妄想だが、もし金印が倭国内にあれば「委奴国王などと言うちっぽけな称号」などもう不要だと判断されたにしろ、鋳潰して金塊にして使えばいいだけの話である。それをしなかったのは金印が「誰かに盗まれた」と考えるのが普通だと思う。多分どんな国にもある「後継者争い」などで内乱が起こり、内部対立する一方の部族が持ち出して隠しているうちに「行方が分からなくなってしまった」のではないだろうか。
委奴国がどんどん大きくなって倭国となり、半島から中国本土まで影響力を及ぼすようになった5世紀には、既に金印は過去の物として忘れ去られていたと考えられる。勿論中国の歴史書を勉強した学者が「模造品を作った」説も完全に否定した訳ではないが、まあ歴史ミステリーとして置いとくとしよう。
この金印が江戸時代に忽然と姿を現したことは日本の歴史における「一大奇蹟」である。例えて言えば「キリストの聖骸布」が見つかった、ぐらいの衝撃があるんじゃないか(こちらは金印と違って本物だという証明が出来ないのが難点だが)。どちらにしても金印の謎を解くためには「まず5世紀の倭王、讃・珍・済・興・武の謎の解明」の方が先だろうと私は期待してしまう。
宮崎氏も金印にはこれ以上触れないで「倭国乱相攻伐暦年」に進んでいるから、もしかするとちょっとは謎解きがあるかも。なにしろ古代史の謎解きについては、「これ」と言った画期的な説は「壬申の乱、九州説」以来お目にかかってない。そろそろ出て来ても良い頃だと思うんだけど・・・。とにかく次回は「相攻伐」を読む。
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