明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

幸せはどこにある?

2017-01-10 23:45:00 | 今日の話題
昨日できなかったことが今日出来ている、これが幸せなのである。中身はごくごくつまらないことかもしれないが、自分の目標への道筋にちゃんと乗っかって進んでいるのが確かめられた瞬間は、間違いなく幸せなのだ。前をみれば目標は遥か彼方に遠く、とてもたどり着けない距離に見えるが、後ろを振り返れば随分と昔は頼りない子供のような小さな存在だったなと自信が満ち溢れてくる。人間は小さな存在である。その本分を忘れて無闇に色々な情報を頭に詰め込み、その結果自分の立ち位置を必要以上に低い所に貶めて、本来の自信をなくして自己喪失する者が多いと聞く。鶏頭となるも牛後となるなかれである。

幸せとは、その辺に転がってる何の変哲もないごく普通のものであると思う。要はその事に気がつくかどうかではないだろうか。歳をとるとその事に段々と目が向いてくる。上手く出来てるもんだ。年をとって大それたことが出来なくなってくると、小さな出来事に幸せを感じられるようになってくる。今に歩ける事が幸せに思える、そんな日が来るのかもしれない。人生下り坂が悪いとばかりも言えないのだ。要は気の持ちようである。

今日、中村橋之助改め中村芝雁の「京都の酉にちなんだ寺を巡る」番組で、男山の石清水八幡宮を訪ねていた。私が随分前に登った(と思い込んでいた)あの有名な社である。テレビでは豪壮華麗な建物が極彩色に彩られ、歴代の武家政権の尊宗を受けた格式の高さが伺える。これが本当の石清水八幡宮だったのだ。じゃあ私の登ったのはなんだったんだろう。入り口には立派な鳥居が立っているが、当時私はそんな鳥居はくぐってない。本殿の美しさは目をみはるものだが、当時展望台でチョロっと双眼鏡を覗いて帰って来た私は、そんな建物は見てなかった。男山というのは間違いなかったが、全然違う「はじっこの方」の名前も知られていない神社だったのだと今は思う。

たまたま今日ひょんなことから昔の誤りを訂正する機会に恵まれ本物の石清水八幡宮を知る事が出来て、ある意味で私は幸せである。つまり、これまたごく普通のどこにでもある幸せの一つではないだろうか。毎日ちょっとした幸せに出会う、これ以上の喜びがあろうか。「朝起きれば一つ幸せに出会う」。そんな毎日を過ごし、季節の移り変わりを楽しめれば、まずは良い人生と言えるのじゃないだろうか。小さな幸せ、されど大きな喜び!

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