明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

古代史喫茶店(19)一条このみ「万葉の虹」を読み直す(その1)

2020-09-13 19:00:12 | 歴史・旅行
1、何故、古事記は推古女帝までしか書かなかったのか?

彼女は、古事記の記述が「推古天皇で終了している」という事実に目を向ける。太安万侶が古事記を上梓したのが712年。628年の推古天皇没後に起きた出来事、つまり、つい昨日の事のような歴史の詳細を「いくらでも書くチャンス」はあった筈なのに、彼は何故そうしなかったのか?。これが私の感じた「古代史の疑問の第一」である。もし古事記が天武天皇の「削偽定実」の指示で作られたとすれば、何を削り、何を実と定めたのか。私が想像するに、「各部族に伝承された個別の歴史」を削り、「近畿天皇家の歴史に改編する」ことではないだろうか。それを太安万侶が古事記に仕上げた。ところが一旦出来上がった後に新たに「中国の歴史書」が伝来したり、九州で「九州王朝の歴史書の発見」などが相次ぎ、政権も天武天皇系から「別の系統」へと変わってしまった。そこでもう一度、新たに「日本書紀」として全部作り直しをし、古事記は「廃棄した」と言うのが真相では無いかと考える。勿論、想像に過ぎないが、私の現在の見解である。このようなことから、古事記の辻褄の合わない編纂状況と日本書紀の内容の怪しい点、それに明らかな改竄と思える記事や日本書紀・古事記の食い違いなど、その一つ一つを根気よく解明する事で、「日本古代史の真実の姿」を解き明かしていこう、と言うのが「私の大好物である古代史の謎」を真正面から取り上げるこの著作である。読んでいくに従って私の感じた「新たな疑問点」は、丸印をつけて書き加えて行くことにする。

○ 天武天皇の「削偽定実」の意味、または天武天皇の指示そのものの真偽
天武天皇の意図がイマイチ良く分からない。それは天武天皇が「どういう勢力を代表しているか」によるからだ。天武は謎である。歴史は天武から持統・文武と天皇位が続いているように描いているが、どうも天武・高市と続いた後、別の系統に乗っ取られたようにも思える「フシ」がある。天武とは誰なのか?。これが古代史最大の謎である。

ちょっと話は脇道に逸れるが、この Amazon の kindle本は、私の愛用する Android の blackberry でも十分読めるから、「いつでもどこでも」電車の中でも、気に入った時にすぐ読めるので非常に使い勝手が良い。kindle本は何冊購入してメモリに入れても、持って歩くのは iPad・iPhone 一つで済む。この手軽さ便利さは、他の何事にも替えられないメリットだ。私は kindle が(他の電子書籍でも同じだが)、現代においては「最高の読書形態」だと思っている。まあ、Kindle礼賛はこれぐらいにして、話を元に戻そう。

2、岡本宮で隋使裴世清に謁見した人物は誰か?

まず冒頭から、587年の蘇我・物部戦争を取り上げる。物部氏は神武以来の武闘集団であり、財務担当あがりの「蘇我氏や聖徳太子の勝てる相手では無い」と彼女は書き出している。言われてみれば、その通りなのだ。では物部氏を倒したのは「誰なのか?」。彼女はこの人物を「X」と仮定した。「X」は強大な武力で物部氏を倒した後、「岡」地区の下の葦原を新たに開拓して「岡の下の宮=岡本宮」とし、法興寺を建てて、この土地を後に「飛鳥」と名付けた。よって、石舞台古墳は蘇我馬子などの墓ではなく、この人物「X」の墓だという。石舞台古墳は蘇我馬子の墓と教えられ、それを信じていたが「言われてみれば、証拠はない」のである。時代は日本書紀によれば、推古天皇を聖徳太子が補佐していることになっている。この時、人物「X」は(600年と607年)隋に使者を送っている。翌年「裴世清」の一行が日本にやってきて人物「X」に拝謁したが、この時推古天皇は、甘樫丘の北「小墾田宮」にいた筈なのだ(と彼女は言う)。当然、裴世清が「岡本宮」で拝謁した人物「X」は、日本書紀のいう「推古天皇では無い」ことになる。とまあ、こういう簡単な疑問を、日本の歴史家は何一つ解明してこなかったのだ。

○ 中国史書に書かれた「交渉の歴史」を、日本書紀と付き合わせて解明する
この時遣隋使を送っていたのは、九州王朝と近畿天皇家と2つあるという説もある。中国の歴史書には「何度か日本との交渉を記録」しているが、微妙に日本書紀と食い違っているとの指摘がある。これを正確に解明しない限り、倭の五王も含めてだが、日本の王朝の本当の歴史は「闇の彼方に埋もれたまま」だと言える。

近畿天皇家は推古天皇で断絶した。これが「一条このみ」の断定的・高圧的・威嚇的・挑戦的なスタート地点である。確かに古代の出来事は多くの中から一つのことを切り取って、自由な解釈をつけて持論を展開することが出来てしまう。例えば、或る人が新宿のカレコレの場所を歩いていた、という「事実」を話すとする。それは、どこそこに行く途中だったと言うことも出来るし、別の所からの帰りであると言うことも出来る。又は道に迷って正しい道に戻ろうとしているのだとも言えるし、昨日無くした財布を取りに行く途中だという事だってあるかも知れない。つまり、本当のところは誰にも分からないのだ。だから「色々な傍証」を、付き合わせて考えていく事が重要になってくる。その際に必ず守らねばならないのが、「一つ一つの単純な疑問点を疎かにせず、素直に、しかも徹底的に解明し、先入観で簡単に判断しない」ということである。これを一条氏は徹底して行っている(ように見えた)。だから、私は「この著者は信用に値する」と判断した訳である。そこで、一条このみの著作に従って、一つずつ私の感じた「疑問とその解決」を書いて行くことにしよう。思えば推古女帝以降絶えていた王権を、770年ようやく復活させた「光仁天皇(白壁王)」までの100年間。この間の多くの出来事、例えば、難波宮築造・白村江の戦い・近江遷都・壬申の乱・大津皇子の殺害・藤原京遷都・長屋王殺害・大仏建立・弓削道鏡事件といった、一連の事件の「合理的解明」を最終目標と目指して、一つずつ解き明かしていこう。

3、大化改新はなかった

私は30年前に奈良に旅行した時、大化改新で有名な「飛鳥板蓋宮跡」を見に行ったことがある。ところが、日本書紀に言う「大極殿」のような、十二の通門を持つ大掛かりな建物の跡などは、どこにも無かったのだ。しかも「板蓋(いたぶき)」という名前なのである。少なくとも645年のこの頃には、大極殿ともあれば壮麗な「瓦葺き」でなくてはおかしいのではないだろうか。余りにも貧弱すぎるのである(板ぶきの屋根を持つ大極殿など、想像もできない)。日本書紀の撰進から遡る事たった70年ほどの「ついこの前のこと」に過ぎないのに、中大兄皇子が中臣鎌足と組んで蘇我氏を倒したとされるこのクーデター事件は、実は「大化改新は無かった」とバッサリ切って捨てるのだ。ここまで来ると一種爽快ですら、ある。私も「乙巳の変」は日本書紀の言うような「派手なクーデター劇」は、当時からどこか違うと思っていた。三韓の調とか板蓋宮での殺害と言うのは、これは事実ではないだろう。色々な人が書いているように、蘇我氏が当時「天皇のような権勢を持っていた」のは確かである。当の中大兄皇子も「入鹿の専横を武力で覆した」のだ。もし入鹿の振る舞いが目に余るのなら、母親の「皇極天皇」に言って辞めさせれば良いだけではないか。それが出来ないのは、言葉を返せば入鹿が「最高権力者」だったと言うことである。だが入鹿を切ったぐらいで蘇我政権が倒れるだろうか。日本書紀は、古人大兄皇子が「韓人が鞍作を殺した」と謎めいた言葉を発して逃げ帰った、と描いている。いかにも臨場感にあふれた描写である。翌日には蝦夷も自害して、甘樫丘にある宮殿は燃え尽きたとされた。近年、この甘樫丘から「建物の焼け跡が発掘された」として、乙巳の変の信憑性は揺るぎないものになったようだが、果たして「火事にあった家の痕跡」程度のものが、あの乙巳の変の存在証明になるのだろうか。これも先入観に基づいた「安易な決め付け」のように思える。要は、「大筋では蘇我氏が殺された」と言うのは間違いがないとしても、場所や関わった人物やドラマのような出来事は「無かった」というのが正解なのだろうと思う。これについては、書紀は「何かを隠している」には違いないが、そうかといって「全くの捏造」では無いようにも思う。書紀が余りに「見て来たような、詳しいドラマチックな描き方」をしている場合は、逆に何か「胡散臭い意図が裏に隠されている」と思って間違いがないと思っている。しかし大化の改新が無かったとしたら、その後の「孝徳政権」はどうなるんだろう?。

○ 欽明天皇の皇統が崇峻で断絶し、蘇我氏が代わりに政権を運営したとして、その政権を牛耳っていたのは「強力な九州王朝」だろうか。
用明天皇が崩御し、穴穂部皇子を後押しする物部氏を蘇我氏が倒して崇峻天皇を即位させたのが587年。その崇峻天皇を蘇我馬子が弑逆して推古天皇を即位させたのが593年である。この頃から645年に乙巳の変で倒されるまで50年、蘇我氏の支配が続く。しかし一条このみ氏によれば、物部守屋を倒したのは「X」であると言う。じゃあ「X」は蘇我氏に政治を任せて何をしていたのだろう?。これを想像すると、新しく日本に入って来た仏教を「大和地方にも」広めようとした九州王朝の天子「X」が、言うことを聞かない物部氏を排除し、新たに「崇仏派の蘇我氏」に大和地方の支配を任せた、とも考えられる。であれば岡本宮を「別荘」として建て、九州太宰府から「時々別荘に来て」滞在したとしても、何ら不思議はない。この場合、大和地方は九州王朝の一支配区画・飛び地ということになる。ところがそうこうしているうちに朝鮮半島が忙しくなって来た。九州王朝も大和なんかに構っている暇は無くなったのである。或いは蘇我氏が倒されて「孝徳政権」が誕生したのも、何か朝鮮半島の動向と関係があるのかも知れない。

4、中大兄皇子の即位が遅れた理由

一条このみ氏によれば、中大兄皇子は5回も即位を逃しているという。最初は641年に父「舒明天皇」が崩御した時(母が皇極天皇になる)。2度目は645年の乙巳の変(叔父の孝徳が天皇になる)、3度目は654年に孝徳天皇を置き去りにして倭河辺の行宮に引き上げた翌年、孝徳天皇が崩御した時(皇極が斉明として2度目の天皇位につく)、4度目は663年で斉明天皇が九州朝倉の宮に崩御した時(天皇位は空位のまま)、5度目は白村江で大敗を喫した後、飛鳥に帰って来た時、以上の5回である。いずれも中大兄皇子が天皇になっておかしく無い状況であった。母親が二回も天皇になることは何か理由があったとしても、斉明が崩御した4度目と白村江で負けた後の5度目には、天皇にならない「理由が見当たらない」のである。私はこの間の中大兄皇子は「実は継ぐべき王位が無かった」のだと思っている。元々天皇家は推古天皇で絶えていたのだ。当然、舒明天皇も架空であろう。皇極も斉明も孝徳も架空である。或いは実体は他の王朝の出来事で、何かしらの書き換えがあったかも知れない。またはその両方だ。だが、そうなると中大兄皇子は一体どうなるのだろう。私は古代においては、「全くの空想的な作り話」と言うのは「有り得ない」と思っている。古代人はそれ程「想像力が豊富」では無い。何かの元ネタがあって初めて、「少し修正して」書物に書いたと信じている(私の古代人に対するイメージ)。だから、中大兄皇子は欽明天皇の家系の皇子だったのは間違いないと思う。欽明・敏達・用明・崇峻と続いた天皇家が蘇我馬子に弑逆されて断絶した後、敏達の家系は押坂彦人大兄皇子・田村皇子(舒明天皇)と続いて、中大兄皇子まで地元の有力者の家系として細々と命脈を保っていたのだろう。蘇我氏が乙巳の変で打倒されて孝徳天皇が立ったというのは、支配者が変わっただけで、元々飛鳥の地方部族長に過ぎない中大兄皇子には「大和の支配権」は巡ってこなかったと想像する。吉備系の宝皇女の皇極やその弟の孝徳、河内系の蘇我倉山田や阿部系の倉梯麻呂など、多彩な顔ぶれが揃っているが中大兄皇子は政権中枢には入り込めていない。蘇我系だが、主流では無かったのだろう。この時、政権の基本姿勢は「中国・朝鮮との密接な関係の維持」であった。白村江で唐と対決した日本が大敗し、国内の戦闘力が壊滅状態になって「頭の重石が取れた」結果、やっと近江大津宮に遷都出来た。667年、初めて天皇位を宣言する。

○ 中大兄皇子は一貫して、大和地方のことしか頭に無いようである
どうやら天智天皇の実体が見えて来た。彼は朝鮮半島の利権を守ろうとか、唐を含めた国際関係の中でどう動いて行こうかとか、そういう感覚は「全く無い」。蘇我氏も孝徳天皇も朝鮮半島に関心を持っていたが、中大兄皇子の事績からは「謀反者の粛清」しか見えてこないのである。では天智天皇がようやく支配した日本を、武力討伐しようとして壬申の乱を起こした天武天皇は、彼の崇拝する「漢の高祖劉邦」のように秦を倒して「新たな王朝を建てようとした一般人」なのだろうか。天智天皇は欽明天皇の血を受け継いだ「地元の王族の一員」である。九州王朝とは関係がない。だが天武天皇は天智の弟で「大皇弟」と呼ばれていた。劉邦の出自とは全く異なっている。歴史愛好家にしてみれば、何となく「妙な感覚」を起こさせる称号では無いだろうか。ここでも天武天皇が謎である。いっそ天武天皇という存在がなくて、その代わり「九州王朝と大和政権」が覇を争って激突したという記述であれば、事はもっとスッキリ分かりやすいのだが。日本書紀は九州王朝の存在を消し去ることに「最大限の注意を払って」出来た書物である。ここは一度、「大和を日本の中心から外して」考えてみる必要があるだろう。(続く)

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