認知症の老人を野放しにしたとして監督責任を問われた85歳の妻、監督責任は無いとして賠償を免れたが、これでいいのだろうか?監督とは行動を管理督促するということで、行動を指示命令し強制することである。当然権限があるし、監督される側は命令に従う義務が生じる。監督は適切に指示命令を行う義務と命令に従わせる権限を有する。監督責任とは「行動を正すのに不適切な指示命令を出した」とか「行動の違法性を知っていたのに適切な指示命令を出さなかった」とか、要するに指示命令の出し方が悪いということである。
だが認知症の老人とはそもそも「言うことを理解しない」のでは無いか。つまりこの場合は監督とは「物理的に管理する」ことと同義である。犬猫と同じ扱いである。勘違いしないでもらいたいのは 「外見は人間だが、実際は犬猫と同じ動物並みの認知能力」しかないということ。人間の尊厳は侵すべからざる基本的人権である事は間違いないが、本人が既にその意識を持たない以上は、どう守るのかというジレンマに陥ってしまう。実は介護する家族の側も、過去の思い出から必死に介護しているが、相手はもう誰が何をやっているかわからない状態たのだ。私は、家族の愛情は大事に取っておき、現実は現実として認める必要があると思う。
徘徊して電車に飛び込んだ今回の例で言うならば、家には「内側からカギを掛けて出られないようにする」ぐらいの対策を取るべきだった、あるいは医療機関が認知症の老人の状態を診察して、その「認知症の患者の管理方法を具体的に指示命令する」義務と権限を持つべきだと思う。病気なのである。病気であるから医者が管理すべきである。可哀相と家族は思うかもしれないが医者の指示に従わなければいけない。法定伝染病の患者は家族であっても自由に外に出してはいけないのだから、認知症の患者も適切に対応する事が必要とされる。その方法は、医者が決めるべきである。お金は足りなければ国で払うこと、これが解決の手段である。予算が無いと言う人は何もできない人である。まずこの問題を解決し、そのあおりで予算不足に陥った問題が別途出てきたら、その次に解決策を考えればいい。だいたいOECDみたいな外国援助に何千億円も払っている日本が、とりあえず2000億円ぐらいのお金が無いとは思えない。出そうという気持ちが無いのだ。自国民を大事にしない政府は続かない。
賠償が免除されたからよかったよかったでは何の解決にもなっていない。認知症は誰もがなる可能性がある病気である。もし進行性の認知症にかかって治らないとわかったら、私は尊厳を失う前に自らこの世を去ると思う。いや、そうならないことを切に願うが、先のことはわからないのである。自殺という哀しい呼び名ではなく、なにか立派なことを最後に行ったぐらいの気持ちで死んで行きたい。人生は輪廻転生、「また次のチャンスがあるさ」というものであろう。
だが認知症の老人とはそもそも「言うことを理解しない」のでは無いか。つまりこの場合は監督とは「物理的に管理する」ことと同義である。犬猫と同じ扱いである。勘違いしないでもらいたいのは 「外見は人間だが、実際は犬猫と同じ動物並みの認知能力」しかないということ。人間の尊厳は侵すべからざる基本的人権である事は間違いないが、本人が既にその意識を持たない以上は、どう守るのかというジレンマに陥ってしまう。実は介護する家族の側も、過去の思い出から必死に介護しているが、相手はもう誰が何をやっているかわからない状態たのだ。私は、家族の愛情は大事に取っておき、現実は現実として認める必要があると思う。
徘徊して電車に飛び込んだ今回の例で言うならば、家には「内側からカギを掛けて出られないようにする」ぐらいの対策を取るべきだった、あるいは医療機関が認知症の老人の状態を診察して、その「認知症の患者の管理方法を具体的に指示命令する」義務と権限を持つべきだと思う。病気なのである。病気であるから医者が管理すべきである。可哀相と家族は思うかもしれないが医者の指示に従わなければいけない。法定伝染病の患者は家族であっても自由に外に出してはいけないのだから、認知症の患者も適切に対応する事が必要とされる。その方法は、医者が決めるべきである。お金は足りなければ国で払うこと、これが解決の手段である。予算が無いと言う人は何もできない人である。まずこの問題を解決し、そのあおりで予算不足に陥った問題が別途出てきたら、その次に解決策を考えればいい。だいたいOECDみたいな外国援助に何千億円も払っている日本が、とりあえず2000億円ぐらいのお金が無いとは思えない。出そうという気持ちが無いのだ。自国民を大事にしない政府は続かない。
賠償が免除されたからよかったよかったでは何の解決にもなっていない。認知症は誰もがなる可能性がある病気である。もし進行性の認知症にかかって治らないとわかったら、私は尊厳を失う前に自らこの世を去ると思う。いや、そうならないことを切に願うが、先のことはわからないのである。自殺という哀しい呼び名ではなく、なにか立派なことを最後に行ったぐらいの気持ちで死んで行きたい。人生は輪廻転生、「また次のチャンスがあるさ」というものであろう。
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