ここで改めて質問する。そもそも「付加価値」とはなんだろうか?
これは日本が成長しない根本的理由を、明確に示している単語である。経済学者を長いこと悩ませてきた日本の「デフレ体質」の根本はどこにあるのか?。それを素人の私なりに考えてみたのが今回の記事である。
答えは簡単だ。市場原理に基づいて経済が回転している場合、新しく価値が生まれなければ「当然市場はデフレ」にならざるを得ないのである!。これが最新の経済学理論なのだ(素人の私が言うのも何だが、こういうことじゃないかな、と言うのが今の結論である)。各党は街頭演説で色々と改革論をぶっているが、いずれも根本的な部分で「改革しようとしていない」と私には見える。何か新しいことをやろうとするなら、その一番大元になる障壁を壊さなければ、求める成果は得られないと知るべし。
以上のことをもっと分かりやすく説明しよう。作った商品が全て消費されるとして、少しでも裕福な生活をしようと思えば「今までよりも高い付加価値」を持った商品を売らなければならない。つまり安い商品を高い商品に置き換えるのである。ヨーロッパ先進国は最初は産業革命で、「安い商品」を大量に作って富を得る方法だった。しかし年代を経るとともに「高付加価値の商品」を売る方法にシフトし、高い技術力とブランディングによって、「高い生産性」を維持している。一方日本は付加価値を目指すのではなく、相変わらずコストを下げ「安い商品」を売ることから脱却で来ていない。日本はモノづくりの力が世界一だという。つまり「安くて良いもの」を提供する、というのが経済の基本だと信じている国である。だが経済にとって安くて良いものというのは「正解なんだろうか?」、というのが今回のテーマである。
中国はまだ安くて良いものを14億人の元へ届けなければならないレベルの国家だが、国土が少なく資源も限られている日本がこの先生き延びていくためには、もっと上を目指さなければいけないと私は思う。自分の商品が他のものより「値段が安いだけ」を目指すのではなく、逆に「付加価値が高くて値段が高い」ことこそ目標とすべきである。そうでなけでば遅かれ早かれ没落していって、貧困国の仲間入りをすることになるだろうと思う。これが経済活動の基本理念だとするならば、日本が「30年間」出口の見えないデフレに悩まされているというのも「分かる気」がする(というのは強ちデタラメではない)。・・・これはNHKのカルチャーラジオ「科学技術と上手に付き合うために(sub title 便利は人間を駄目にする)」からインスピレーションを受けて書いたものである。
これはそもそも付加価値とはなんぞや?というテーマで、「コインランドリーの待ち時間」の暇つぶしに考えたものなので、素人考えのいい加減な話と言えばその通りなのだが、これ意外と「経済の本質」を突いているな、と感じたので記事にしてみた。まず成長のための基本理念と、その足を引っ張っている「日本人の悪い癖」を考えつく限り列挙してみたいと思います。
1、薄利多売は成長の敵
日本は人口1億3千万人の国である。少子高齢化のことは一先ず置いとくとして、この人口で健康に生活出来るレベルの食事量は自ずと限られている、と考えなければいけない。そうすると、手軽にサッと食べられる食事や極上の味を堪能する食事、仲間と会話を楽しむための食事とか体力を維持する栄養豊富な食事など、それぞれのシーンに応じた「食事内容のバリエーション」が、並行して共存するようになってくる。では松阪牛Aランクのサーロインステーキ300gを「900円」で提供する店があったとしようか。この店は薄利多売で量を売ることで、ようやく利益を上げる商売を目指していたと仮定する。ところがこの店が外食業界を「安さで席巻する」と、今迄業界全体で上げていた売上が当然「全体金額で減って」きて、元々利益率が低いために「利益」自体も減ることになる。消費者はおいしい食事を安い価格で手に入れられるから「一見満足」のように見えるが、実は経済の上ではそうではない。業界全体で利益が下方に押し下げられると当然従業員の給料も減少し、牛肉生産者のコストも安く抑えられて、経済的には「良い所なし」なのだ。するとその従業員の生活も「質素に」ならざるを得なくなり、巡り巡って一般の商品も売れなくなり、結果として経済が小さくなってしまうという効果が生まれることになる。これが「デフレ」である(私は素人なのでこのように考えているが、学者は違うことを考えているかも知れない)。「安いから売れる」と言うのは間違いではないが、売れる条件の「一つ」を言ったに過ぎない。
突き詰めて考えてみれば、同じものを努力して安く提供するだけでは「何の価値も生まれない」のは自明である。買う方はその方が良いにきまっていると思うかも知れないが、例えばクリネックスのトイレットペーパーがAのスーパーで210円だったとしよう。それがちょっと離れたBのスーパーで203円で売られていると知ったあなたは、急いでBまで走るに違いない。たかが7円と笑ってはいけない。この7円の節約が積もり積もって何千円にもなり、月に一度「美味い松阪牛のステーキ」を食べることが出来るかも知れないのだ。これ、「さすが節約主婦!」と自慢している場合ではない。あなたがBスーパーで買ったトイレットペーパーはAスーパーのと寸分違わない品物である。値段の差はAスーパーとBスーパーの「顧客争奪戦」に使われているのだ。何の付加価値もそこからは生まれてはこない。スーパーの他の部分の差を度外視すれば、安売り競争は体力勝負である。結局どちらかが勝つまで止めないということになり、どちらの従業員も「生活の向上」はしばらくは望めないのだ。これは社会全体の幸福度から言ったら「途上国のレベル」である(昔、「欲しがりません、勝つまでは!」というキャッチコピーがあった)。もしこの地域の住人が全部富裕層で、たかが7円の差ごときで遠いスーパーまで買いに走るこtなど有り得ないとしよう。そうするとAスーパーとBスーパーの差は価格ではなく「品揃えや雰囲気」など、その他の部分で差別化を図らざるを得ないだろう。当然従業員の士気は上がるだろうし、付加価値の高い商品を揃えるから収入も増え、結果給料も上がって「地域が潤う」わけだ。どちらが幸福かは一目瞭然だろう。これは卵が先か鶏が先かの話ではない。あくまで「経済の循環の話」である。
勿論、経済はこのような簡略な図式だけでは説明できないし、地元で消費する品物と都会で購入する高級品との「棲み分けの問題」も厳然としてあるのは事実だ。しかしこれを「日本全体の縮図」と考えれば、国民全体の生活の向上には、安い商品をひたすら求めるのではなくて、商品を差別化する「付加価値を生み出す」ことを目指さなければ、成長は有り得無いことが分かると思う。日本で作るのは安くて良い物で、高級なブランド品は輸入品だと言うのでは、いつまで経っても後進国の状態から抜け出せないのは当たり前であろう。安くて構わないものは輸入して、付加価値の高いブランド品こそ「輸出する」のでなくては、一流国の仲間には永久に入れないと私は思うのである。それには国民全員の「マインド」の変換が絶対必要である。それこそが「新しい価値の創造を目指す」ことなのだ。つまり、安いことでも便利なことでも無い、「美しいもの、または優雅なもの」を求める国民性に変えていくことである。その類い稀な資質を、日本人は持っている筈だと私は信じている。
曰く、コストを下げるのではない「本当の付加価値」とは何か?、を日常的に考えることが、日本上昇の起爆剤である。
(続く)
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