コミュニケーションのあり方を考えてみる。人が自分の考えや感じたことを他人に伝えて共有したいと思ったとき、コミュニケーションツールは重要な伝達手段であり、また高度な次元での精神的一体感を演出する道具でもある。コミュニケーションには主に「言葉」と「絵画・彫刻・建築」と「音楽」がある。勿論「体」は最重要な道具であるが、今回はテーマから外れるので割愛したい。中には「味」もこれらのツールに加える人がいるだろうが、私は味音痴なのでこれも除外する。要は「人間の5つの感覚器官それぞれに」コミュニケーションがある、ということだ。逆に言えばこの5つの感覚器官は、人間が外界から受ける刺激を分析し認識する器官である。そして認識した事を他人に伝えようとしたときに、コミュニケーションが生まれる。
人はそれぞれ感覚器官に差があり、優れているものもあればどうしようもなく音痴なものがあって、その差は先差万別である。そのためにコミュニケーションを取ろうとする人との間に「理解できない、または伝わらない」ことが往々にして起きる。私は食べ物に関して音痴であるから、ラーメン店の前で1時間も並んでいる若者の気持ちが全く理解できないのも「味がわからないから、彼らが共感しようとしている喜び」が理解できない、それだけである。そんなに並ぶくらいなら隣の天婦羅屋にすれば?などと彼らは思わないが、私には理解できない感覚が彼らには確実に存在するのだと「想像する」しかない。
私は「言葉」が主なコミュニケーションツールであるから、言葉には人一倍正確さを求める。音楽の世界では音が全てであるから、夜一人、物思いに耽っているときに「しんみり」する曲もあれば、自信に満ち溢れ勝利の美酒に酔っているときに「喜びが沸き上がるような」曲もある。もちろん何か目標を見失って迷い子になり、救いを求めるときに「希望の光」を与えてくれる曲もある。だが「ただ騒々しいばか騒ぎ」の曲も世の中には多い。ただそれらの見分けが常人にはつかないのである。あるいは見分けがついていて「聞く側の心に響くのが」そういう騒がしい曲の場合もある。どちらが高級・低級とは言えないが、それがコミュニケーションたる所以であり「人々の共感」ということである。何万人もが弾けたくてロックコンサートに集まる時もあれば、クラシックコンサートで少人数がささやかにサロン形式のホームパーティを開いていることも、この世界では同時に起こっている。要は「表現者と受け取る側が理解し合える」ことで成り立つ現象である。
私はブログで一切の「言葉以外のもの」を排除して、長文で読みにくいことも承知の上で、より正確に私の考えを伝えようとしてきた。ようやく最近は読者らしき人も増えて来たように「うっすら」感じるのである。最初はリハビリのつもりで始めたが、どうやら私の性に合っているらしく早くも3年目に入ってしまった。私のブログは「である」口調でどうも感心しないが、他にしゃべり方を知らないので致し方ない。気の利いたことを少しは書いてみたい気もするが、それも「出来ないものは、出来ない」理屈でしょうがない。だから正確に伝わってそれで賛同してくれるような文章を書けたときは、我ながらホッとし、少しは自慢気に思うことも大きな声では言えないが「ある」。しかしページビューは残念ながら、未だに「五木寛之の百寺巡礼」が一番なのが辛い。二番は「井沢元彦の逆説」である。これって何なの?
まあボヤキはそのくらいにして、せっせとブログを書き続けること。それが私に出来ることの全てである。何かを書くという作業において、私は必ず「読者」を想定している。そもそも読者のいない文章など存在しないのだ。なぜなら言葉はコミュニケーションのためのツールであるから、必ず相手に対して「意味のあるメッセージを伝えるように働く」しかない。だから私の文章を読む人は「私の思考回路に一時的に同化する」のである。勿論そうなるように書いているのだが、同化できない人は文章の途中で「これは違う」というセーフティが働いて投げ出すか、もしくは半信半疑で読むかどちらかになる。一ヶ所でも違和感を感じたらおしまいなのである。文章というのは「ておには」だけ気を付ければいいという物ではない。全体の構成から細部の理論的裏付けまで、全部が整っていないと人の共感を得ることは難しい。
音楽に例を取れば、ショパンのノクターンを弾く時に「ピアニッシモ」を息も絶え絶えに弾いたらどうなるか。きっと聴衆は「甘美な夢想に息も絶え絶えになっている男」を感じとっていると思う。しかしそれがショパンの意図したものなのかどうか、それが「ピアニストの腕の見せ所」なのである。曲は全体の構成のなかでディテールを細かく作り上げていく。演奏者がこう弾きたいと思っていてもその通りに指が動かない時もあるだろうし、指が動いても「音色が期待通り」でないかもしれないし、ピアニストは練習に練習を重ねていよいよ晴れ舞台に出ても、「ショパンの意図した人間心理の階層的逆転を充分には演奏しきれていなかった」などと訳の解らないことで半端な批評家に偉そうに言われるのだ、まるでショパン本人が言ったみたいに、である。しかしその批評家に共感する聴衆もいるのだから始末に負えない。あの偉大なマネも、最初に展覧会に「草上の昼食」を出した時、散々にこき下ろされたという。困ったものだ。
私の文章は小説ではないので、「何を言っているか分からない」というのが一番こたえる批評である。そこでついつい過剰に説明して「説明がうるさい」という批判も浴びることになる。難しいものである。モーツァルトは最初は目の前の聴衆が喜ぶのを見て作曲した(と思う)。そしてだんだん「より音楽をよく知っている人」にターゲットを移していき、後期は自分と同じくらい作曲に通じている人に「自分なりの聴衆」を想定し、最後は「神が聴く」レクイエムを作曲して天国に召された。「分かってくれる」という一言を期待して、みな芸術家は努力しているのだ。コミュニケーションと一言にいっても、とても簡単にはいかないと思う。その難しさは、ターゲットの設定からして始まっているからである。
で、私の設定はどうなのかというと、今は私の親友であるS氏を想定している(勿論私の勝手にイメージするS氏である)。その「仮想S氏」がいろいろ反論するのを説明することで、ブログを書いている。で、実際に会ったときに聞いてみると「意外にも、中には好評なものがあった」ので安心した次第である。こう見えても「私は本気で書いている」ので、読んでくれるだけで嬉しいのだ。人生において、たとえ少しでも「理解してくれる人がいる」という事が「どれほど意味がある」大事なことか、皆さんも一つ身の回りを見渡して、じっくりと考えてみることをお薦めしたい。自分の人生に「新しい発見」があるやも知れないのだから、一度試す価値は十分あると思う。
人はそれぞれ感覚器官に差があり、優れているものもあればどうしようもなく音痴なものがあって、その差は先差万別である。そのためにコミュニケーションを取ろうとする人との間に「理解できない、または伝わらない」ことが往々にして起きる。私は食べ物に関して音痴であるから、ラーメン店の前で1時間も並んでいる若者の気持ちが全く理解できないのも「味がわからないから、彼らが共感しようとしている喜び」が理解できない、それだけである。そんなに並ぶくらいなら隣の天婦羅屋にすれば?などと彼らは思わないが、私には理解できない感覚が彼らには確実に存在するのだと「想像する」しかない。
私は「言葉」が主なコミュニケーションツールであるから、言葉には人一倍正確さを求める。音楽の世界では音が全てであるから、夜一人、物思いに耽っているときに「しんみり」する曲もあれば、自信に満ち溢れ勝利の美酒に酔っているときに「喜びが沸き上がるような」曲もある。もちろん何か目標を見失って迷い子になり、救いを求めるときに「希望の光」を与えてくれる曲もある。だが「ただ騒々しいばか騒ぎ」の曲も世の中には多い。ただそれらの見分けが常人にはつかないのである。あるいは見分けがついていて「聞く側の心に響くのが」そういう騒がしい曲の場合もある。どちらが高級・低級とは言えないが、それがコミュニケーションたる所以であり「人々の共感」ということである。何万人もが弾けたくてロックコンサートに集まる時もあれば、クラシックコンサートで少人数がささやかにサロン形式のホームパーティを開いていることも、この世界では同時に起こっている。要は「表現者と受け取る側が理解し合える」ことで成り立つ現象である。
私はブログで一切の「言葉以外のもの」を排除して、長文で読みにくいことも承知の上で、より正確に私の考えを伝えようとしてきた。ようやく最近は読者らしき人も増えて来たように「うっすら」感じるのである。最初はリハビリのつもりで始めたが、どうやら私の性に合っているらしく早くも3年目に入ってしまった。私のブログは「である」口調でどうも感心しないが、他にしゃべり方を知らないので致し方ない。気の利いたことを少しは書いてみたい気もするが、それも「出来ないものは、出来ない」理屈でしょうがない。だから正確に伝わってそれで賛同してくれるような文章を書けたときは、我ながらホッとし、少しは自慢気に思うことも大きな声では言えないが「ある」。しかしページビューは残念ながら、未だに「五木寛之の百寺巡礼」が一番なのが辛い。二番は「井沢元彦の逆説」である。これって何なの?
まあボヤキはそのくらいにして、せっせとブログを書き続けること。それが私に出来ることの全てである。何かを書くという作業において、私は必ず「読者」を想定している。そもそも読者のいない文章など存在しないのだ。なぜなら言葉はコミュニケーションのためのツールであるから、必ず相手に対して「意味のあるメッセージを伝えるように働く」しかない。だから私の文章を読む人は「私の思考回路に一時的に同化する」のである。勿論そうなるように書いているのだが、同化できない人は文章の途中で「これは違う」というセーフティが働いて投げ出すか、もしくは半信半疑で読むかどちらかになる。一ヶ所でも違和感を感じたらおしまいなのである。文章というのは「ておには」だけ気を付ければいいという物ではない。全体の構成から細部の理論的裏付けまで、全部が整っていないと人の共感を得ることは難しい。
音楽に例を取れば、ショパンのノクターンを弾く時に「ピアニッシモ」を息も絶え絶えに弾いたらどうなるか。きっと聴衆は「甘美な夢想に息も絶え絶えになっている男」を感じとっていると思う。しかしそれがショパンの意図したものなのかどうか、それが「ピアニストの腕の見せ所」なのである。曲は全体の構成のなかでディテールを細かく作り上げていく。演奏者がこう弾きたいと思っていてもその通りに指が動かない時もあるだろうし、指が動いても「音色が期待通り」でないかもしれないし、ピアニストは練習に練習を重ねていよいよ晴れ舞台に出ても、「ショパンの意図した人間心理の階層的逆転を充分には演奏しきれていなかった」などと訳の解らないことで半端な批評家に偉そうに言われるのだ、まるでショパン本人が言ったみたいに、である。しかしその批評家に共感する聴衆もいるのだから始末に負えない。あの偉大なマネも、最初に展覧会に「草上の昼食」を出した時、散々にこき下ろされたという。困ったものだ。
私の文章は小説ではないので、「何を言っているか分からない」というのが一番こたえる批評である。そこでついつい過剰に説明して「説明がうるさい」という批判も浴びることになる。難しいものである。モーツァルトは最初は目の前の聴衆が喜ぶのを見て作曲した(と思う)。そしてだんだん「より音楽をよく知っている人」にターゲットを移していき、後期は自分と同じくらい作曲に通じている人に「自分なりの聴衆」を想定し、最後は「神が聴く」レクイエムを作曲して天国に召された。「分かってくれる」という一言を期待して、みな芸術家は努力しているのだ。コミュニケーションと一言にいっても、とても簡単にはいかないと思う。その難しさは、ターゲットの設定からして始まっているからである。
で、私の設定はどうなのかというと、今は私の親友であるS氏を想定している(勿論私の勝手にイメージするS氏である)。その「仮想S氏」がいろいろ反論するのを説明することで、ブログを書いている。で、実際に会ったときに聞いてみると「意外にも、中には好評なものがあった」ので安心した次第である。こう見えても「私は本気で書いている」ので、読んでくれるだけで嬉しいのだ。人生において、たとえ少しでも「理解してくれる人がいる」という事が「どれほど意味がある」大事なことか、皆さんも一つ身の回りを見渡して、じっくりと考えてみることをお薦めしたい。自分の人生に「新しい発見」があるやも知れないのだから、一度試す価値は十分あると思う。
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