天地無用ってシールがよく荷物に貼ってあるが、この言葉の意味が「上下をひっくり返してはいけない」という意味だ、って聞いてびっくりした。今までは特に気にしたことはなく荷物をわざわざひっくり返すこともめったにないので、気にしてなかったというのが私の頭にあった。しかし荷物から離れて「言葉として」改めて聞かれると、今まで「意味を取り違えていた」ことに驚いたというわけだ。
天地無用とは「天を地に用いること無かれ」の意味だそうで、要は禁止だというのである。中国語が原典だとすれば、「無天地用」と書くべきではないかと思うが、どちらにしても国語辞典を読むと「無用」に2つの意味があるという。「立ち入り無用」とか「貼り紙無用」とか「他言無用」「落書き無用」の意味でつかわれる禁止が一つ。「心配無用」とか「問答無用」という使い方が不要という意味でもう一つ。
実はこれら2つの使用法は、一つのことを「はっきり言うか、婉曲に言うかの違い」であることがわかる。「してはいけない」というのも「なになには必要ない」というのは同じ事を言っていて、要は「NO」と言っているのである。「いけない」というのと「いらない」というのとは違うようでいて、実は同じなのだ。言われた相手のことを考えるから言葉が違うが、事実を重んじる西洋語では「NO」の一言で一緒である。
○○はするな、というのと〇〇は必要ない、というのは要は「やめて!」ということだが、日本人はこれらのことを「はっきりさせる」のが実は嫌いである。中にはやんわりと断ることで「仕方なく受け取る」姿勢を表現し、物に貪欲なはしたない奴と言われないように防御したりする。何から何まで気を配る「嫌な民族性」が全開である。欲しければ喜んで受け取り、嫌ならはっきりと断ればいいではないか。それが事実なんだから「あ、そう」と軽く聞いておけば良い。それを「せっかく心配してやっているのにあの態度は何だ!」とプリプリ起こる人がいるが、私には怒っている理由が分からないのだ。要するに「自分のことを無視してる」ってことなんだろうが、こっちは単に「心配は不要」っていってるだけで、何も「あなたの存在はいらない」と言ってるわけではないのだが。まあこの問題は後にしよう。問題は「天地」である。
天地というと馴染みがないが、上下といえば分かりやすい。だが心配無用でも立ち入り無用でも基本的に「ネガティブな動詞を名詞化した単語」に否定的な無用という言葉をくっつけているから禁止だろうと直感的に分かるのに比べて、「天地」が「下を上にする」という動詞だとは日本人には理解出来ないのではなかろうか。中国語はそもそも語尾変化がなく名詞も動詞も区別がないので、そこが間違いの原因である。天地と言われれば、日本人は動詞的要素は考えず「単純な名詞」と受け取るのは当たり前である。これでは間違えるのも無理ない。
間違えないようにするには「こちらを上にして運んでください」と書けば正しい表記になるのである。妙に漢字を使って熟語風に表現すればカッコいいとか短くて瞬時に伝わるとかいうのが「間違いの元」なのだ。ちょっと前に災害時の避難指示用語が「曖昧だ」との指摘をする人がネットでも多く見られた。「何時何分までに避難所に入って」と言えば簡単なのに、「出来るだけ早く身の安全を確保するよう慎重迅速に行動」して・・・なんて、災害なんだから美辞麗句は必要ないのにカッコつけてしまう。避難すべき人の中には言葉の不案内な外国人や小さい子供もいるというのに、難しい単語を使うから分からないとも言われている。言葉を選ぶときは「事実を正確に、また誤解のない言い方」をモットーにすべきである。
そう言えば最近私のブログも「言葉を選んでいるうちに過度に表現を作り過ぎてしまうこと」が多くなったと自己批判している。気をつけなければ・・・。
天地無用とは「天を地に用いること無かれ」の意味だそうで、要は禁止だというのである。中国語が原典だとすれば、「無天地用」と書くべきではないかと思うが、どちらにしても国語辞典を読むと「無用」に2つの意味があるという。「立ち入り無用」とか「貼り紙無用」とか「他言無用」「落書き無用」の意味でつかわれる禁止が一つ。「心配無用」とか「問答無用」という使い方が不要という意味でもう一つ。
実はこれら2つの使用法は、一つのことを「はっきり言うか、婉曲に言うかの違い」であることがわかる。「してはいけない」というのも「なになには必要ない」というのは同じ事を言っていて、要は「NO」と言っているのである。「いけない」というのと「いらない」というのとは違うようでいて、実は同じなのだ。言われた相手のことを考えるから言葉が違うが、事実を重んじる西洋語では「NO」の一言で一緒である。
○○はするな、というのと〇〇は必要ない、というのは要は「やめて!」ということだが、日本人はこれらのことを「はっきりさせる」のが実は嫌いである。中にはやんわりと断ることで「仕方なく受け取る」姿勢を表現し、物に貪欲なはしたない奴と言われないように防御したりする。何から何まで気を配る「嫌な民族性」が全開である。欲しければ喜んで受け取り、嫌ならはっきりと断ればいいではないか。それが事実なんだから「あ、そう」と軽く聞いておけば良い。それを「せっかく心配してやっているのにあの態度は何だ!」とプリプリ起こる人がいるが、私には怒っている理由が分からないのだ。要するに「自分のことを無視してる」ってことなんだろうが、こっちは単に「心配は不要」っていってるだけで、何も「あなたの存在はいらない」と言ってるわけではないのだが。まあこの問題は後にしよう。問題は「天地」である。
天地というと馴染みがないが、上下といえば分かりやすい。だが心配無用でも立ち入り無用でも基本的に「ネガティブな動詞を名詞化した単語」に否定的な無用という言葉をくっつけているから禁止だろうと直感的に分かるのに比べて、「天地」が「下を上にする」という動詞だとは日本人には理解出来ないのではなかろうか。中国語はそもそも語尾変化がなく名詞も動詞も区別がないので、そこが間違いの原因である。天地と言われれば、日本人は動詞的要素は考えず「単純な名詞」と受け取るのは当たり前である。これでは間違えるのも無理ない。
間違えないようにするには「こちらを上にして運んでください」と書けば正しい表記になるのである。妙に漢字を使って熟語風に表現すればカッコいいとか短くて瞬時に伝わるとかいうのが「間違いの元」なのだ。ちょっと前に災害時の避難指示用語が「曖昧だ」との指摘をする人がネットでも多く見られた。「何時何分までに避難所に入って」と言えば簡単なのに、「出来るだけ早く身の安全を確保するよう慎重迅速に行動」して・・・なんて、災害なんだから美辞麗句は必要ないのにカッコつけてしまう。避難すべき人の中には言葉の不案内な外国人や小さい子供もいるというのに、難しい単語を使うから分からないとも言われている。言葉を選ぶときは「事実を正確に、また誤解のない言い方」をモットーにすべきである。
そう言えば最近私のブログも「言葉を選んでいるうちに過度に表現を作り過ぎてしまうこと」が多くなったと自己批判している。気をつけなければ・・・。
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