五木寛之と言うことでちょっと期待して見ることにした。オープニングは彼らしい秋の田舎の、田畑のあぜ道を歩くシーンから始まった。やはり映像に凝った作りの、近頃の寺巡りとはひと味違った内容を予感させる。しかし髪の毛がフサフサとしていささかカッコいい風貌とジャケットに似合う秋の景色に日本の精神の拠り所としての寺を巡ろうという、何かを探求し続ける旅人の横顔が垣間見えるタイトルコールは美しい。私はまず映像の、世間を斜めに見たカメラワークに、きっと長いことカメラマンとして実績を残してきた人の作り込みを感じて、もちろん五木寛之の助言もあっただろうが、画面に引き込まれてこれは面白そうな番組だと直感した。いい番組は、最初の数分で分かるものである。
(1)室生寺
私も行ったことがある室生寺、まずは何と言っても五重の塔である。五木は塔のの来歴などは一切語らない。そんなことはこの番組を見ようという人なら知っている筈なのだ。それよりも五木自身がこの塔と対面して何を語るかが視聴者は観たい、と言うのがこの番組の趣旨なのだとでも言うように五木のアップを映像は映し出す。感想は期待ほどでもなかった。だが、五木のネームバリューで押し切ったのは、風貌が求道者と言うよりはスタイリッシュなモデルとして室生寺の風物に「より似合っていた」かも知れない。コートに小さなバッグを肩から下げてすっと立つ後ろ姿は、70歳の文学者には似つかわしくない背筋の伸びたスポーツマンを連想させる。700段の荒い石段を登って辿り着いた奥の院で下界を見下ろす五木の横顔には老齢の衰えはなく、静かな、しかし芯の強い未知のものへの探究心が、キラキラと光っているように思えた。百寺巡礼は思い付きで始めたのではなく、彼の精神の放浪が辿り着いた原点回帰のようにも思える。
(2)福岡・梅林寺
この寺は初めて行った寺であろう。典座のしきたりに感心したりする所は、ただのレポーターのようにベラベラ喋ることをしないのが良い所である。感想がない時は黙っている、それが一番いいこともある。修行僧の生活を映し出しているが、特に変わったところもない当たり前の風景であれば、五木も語ることができないのだろう。
(3)鳥取・三佛寺=投入寺
修験道の秘山、役行者を祀る山奥の磨崖に建つ投入寺に向かう。延々と1時間、崖に剥き出しの根を足掛かりにひたすら登る。山道を行くと言うより山登りの修験道の修行僧よろしく、五木も地を這い岩根にぶら下がりながらも、とうとう登り切って御堂のある山頂の展望を楽しんだ。そこから更に30分を費やして投入寺に至り、その峻厳な人を寄せ付けない建築物の、見られることを拒否するごとき風格に土門拳のエピソードを語る。そういえば室生寺前の旅館での土門拳は、雪の室生寺を撮るために何日も何日も逗留して待ち続け最後に、「あと1日だけ」延ばした朝、待ち侘びた雪の絶景が視野を覆っていたというエピソードを思い出した。奈良の寺を語るには、土門拳は外せないのだろう。五木はここでは独りの巡礼者になっている。
(4)秋篠寺
苔の庭を愛で、建物の雅な美しさに感嘆し、五木は初めて伎芸天への愛着を語る。ここでは妙に饒舌な五木の、本音というのか、まとまりの無い思いの断片が次々と言葉となって投げ放たれる。作家というのは文章を書く職業の中でも「物語を語ることに秀でた」人の総称である。彼の本音は、彼が作家という職業に就いているだけに「素のままの思い」は形をなさないで空中に消えて行くしかない。本来は黙して語らずの「寡黙な人」なのでは無いのだろうか。その黙っている間に熟成し変容して、物語を構成・潤色する作家の本分が現れる。百も寺巡りをしている中には美醜もあるもので、秋篠寺は五木の心の琴線に触れる何かがあったのであろう。
単なるガイドと化した寺もあれば、いつしか古寺の歴史に触れるロマンに身を任せて己の解釈を語り出す寺も出てくる。通り一遍の寺紹介番組から一歩踏み出した、「五木寛之版の古寺巡礼」というテーマそのものである。やはり五木寛之という個性の不思議さに幾ばくかの興味を感じていなければ、この百寺巡礼も数あるその他十把一絡げの旅番組に埋没するであろう。五木の語る言葉は「何か考えている中で、ぽそっと当たり前のことを言う」に過ぎないが、その事で視聴者が自分なりの考えを頭の中で脹らませる妨げにならないと言うのも一つの見識である。年を経てようやく70の坂を越えた彼には肩幅の広いパッドの入ったスーツを粋に着こなし、長めの足がまっすぐな端正な姿がよく似合うスポーツマン学者肌文人の面目躍如である。彼は本当は作家としては大したことはないのではないか、というのが私の本音だが、彼の仕草・風貌は嫌味なところがなく好きである。
(次回は長谷寺からです)
(1)室生寺
私も行ったことがある室生寺、まずは何と言っても五重の塔である。五木は塔のの来歴などは一切語らない。そんなことはこの番組を見ようという人なら知っている筈なのだ。それよりも五木自身がこの塔と対面して何を語るかが視聴者は観たい、と言うのがこの番組の趣旨なのだとでも言うように五木のアップを映像は映し出す。感想は期待ほどでもなかった。だが、五木のネームバリューで押し切ったのは、風貌が求道者と言うよりはスタイリッシュなモデルとして室生寺の風物に「より似合っていた」かも知れない。コートに小さなバッグを肩から下げてすっと立つ後ろ姿は、70歳の文学者には似つかわしくない背筋の伸びたスポーツマンを連想させる。700段の荒い石段を登って辿り着いた奥の院で下界を見下ろす五木の横顔には老齢の衰えはなく、静かな、しかし芯の強い未知のものへの探究心が、キラキラと光っているように思えた。百寺巡礼は思い付きで始めたのではなく、彼の精神の放浪が辿り着いた原点回帰のようにも思える。
(2)福岡・梅林寺
この寺は初めて行った寺であろう。典座のしきたりに感心したりする所は、ただのレポーターのようにベラベラ喋ることをしないのが良い所である。感想がない時は黙っている、それが一番いいこともある。修行僧の生活を映し出しているが、特に変わったところもない当たり前の風景であれば、五木も語ることができないのだろう。
(3)鳥取・三佛寺=投入寺
修験道の秘山、役行者を祀る山奥の磨崖に建つ投入寺に向かう。延々と1時間、崖に剥き出しの根を足掛かりにひたすら登る。山道を行くと言うより山登りの修験道の修行僧よろしく、五木も地を這い岩根にぶら下がりながらも、とうとう登り切って御堂のある山頂の展望を楽しんだ。そこから更に30分を費やして投入寺に至り、その峻厳な人を寄せ付けない建築物の、見られることを拒否するごとき風格に土門拳のエピソードを語る。そういえば室生寺前の旅館での土門拳は、雪の室生寺を撮るために何日も何日も逗留して待ち続け最後に、「あと1日だけ」延ばした朝、待ち侘びた雪の絶景が視野を覆っていたというエピソードを思い出した。奈良の寺を語るには、土門拳は外せないのだろう。五木はここでは独りの巡礼者になっている。
(4)秋篠寺
苔の庭を愛で、建物の雅な美しさに感嘆し、五木は初めて伎芸天への愛着を語る。ここでは妙に饒舌な五木の、本音というのか、まとまりの無い思いの断片が次々と言葉となって投げ放たれる。作家というのは文章を書く職業の中でも「物語を語ることに秀でた」人の総称である。彼の本音は、彼が作家という職業に就いているだけに「素のままの思い」は形をなさないで空中に消えて行くしかない。本来は黙して語らずの「寡黙な人」なのでは無いのだろうか。その黙っている間に熟成し変容して、物語を構成・潤色する作家の本分が現れる。百も寺巡りをしている中には美醜もあるもので、秋篠寺は五木の心の琴線に触れる何かがあったのであろう。
単なるガイドと化した寺もあれば、いつしか古寺の歴史に触れるロマンに身を任せて己の解釈を語り出す寺も出てくる。通り一遍の寺紹介番組から一歩踏み出した、「五木寛之版の古寺巡礼」というテーマそのものである。やはり五木寛之という個性の不思議さに幾ばくかの興味を感じていなければ、この百寺巡礼も数あるその他十把一絡げの旅番組に埋没するであろう。五木の語る言葉は「何か考えている中で、ぽそっと当たり前のことを言う」に過ぎないが、その事で視聴者が自分なりの考えを頭の中で脹らませる妨げにならないと言うのも一つの見識である。年を経てようやく70の坂を越えた彼には肩幅の広いパッドの入ったスーツを粋に着こなし、長めの足がまっすぐな端正な姿がよく似合うスポーツマン学者肌文人の面目躍如である。彼は本当は作家としては大したことはないのではないか、というのが私の本音だが、彼の仕草・風貌は嫌味なところがなく好きである。
(次回は長谷寺からです)
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