1、博多ストーカー殺人男は死刑?
どうも世間的には逆恨みの「独善的な人間」みたいに批判されている犯人だが、実は昔っから「そういう男だった」のではないか?、という疑問が拭いきれない。そもそも「反省」などという言葉は最初っからないようなので、サッサと結審して死刑にするのが良いと思う。こういう場合に裁判所は、男の育った社会的背景とか、犯行に至った屈折した心理とか「きっかけになった動機」だのどうのこうを知りたがるが、そういうのはもういいから、とにかく「四の五の言わせず」即座に死刑執行するのが、殺された 人への「最大の供養」だと私は思う。大体話していて態度が気に食わなかったとか言ってるようだが、会う前から刃物を準備してる時点で「完全にやる気」だったのは明らかだ。こいつがまさか「死刑にはならないだろう」と高をくくっている間に、サッサと死刑にすべし。
そもそも何故、被害者はこんな男に関わってしまったのか、である。それは、世間に潜む危険を未然に防ぐために気を付けることとして、一見重要な事のようにも思われるかもしれないが、多分、「飛行機の墜落事故に遭わない為に気を付ける事」というのと同じで、それを避けていては生活出来ない時代に我々は生きているのだ。例えば一つ、被害者がこの男からストーカー行為を防ぐために「引っ越しする」のは可能だったかどうか、というのがある。
住所を変えて仕事も変えて、全く新しく別の場所で生活を始めれば「ストーカーからは逃れられる」だろう。だが、以前にはストーカーが違法に新住所を調べ、わざわざ電車で遠くまで行って被害者を殺した事例がある。どうにかして「ストーカー自身を逮捕拘束して刑務所に入れる」とかの手段は取れないものだろうか。そうでもしない限り、一生ストーカーから逃げ回らなければいけなくなってしまう。
その場合には、こういう事件を引き起こす「原因となる何か」がストーカーの思考ロジックや生来の性格の中に「確実に存在」して、それが他の人と、例えばDNAのどこかに決定的な事実として「はっきり識別できる」ようになったとしたら、つまり「犯罪DNA」みたいなものが医学的に証明されたとするならば、その人が誰かに執着して、本来自身の中にある犯罪DNAが「発症しそうだ」という段階で隔離が可能とする法律を制定し、逮捕拘束することが出来るというわけだ。これが理想である。
それが今のところ出来ないので、何とか別の場所で仕事見つけ、ストーカーから身を隠す以外に「命を守る方法は無い」というわけなのだ。嫌な世の中になったものである。ちなみにちょっと前までは、このような事件は「恋愛感情のもつれ」とか言われて社会的に寛容な時代があった。もっと昔には「悲しき心中事件」として、むしろ殺した方に「運命に翻弄された哀れな人生」を感じとって、憐憫の涙を流したという人もいたのである。
時代が変われば犯罪もその評価が大きく変わる、という見本である。
2、NHKの強欲
以前からもう「存在理由が消滅」してるのに、職員の生活や役員等の贅沢のために、延々国民からなけなしの金をむしり取っているNHK!。一刻も早く視聴料の徴収を停止して、次の2つのどちらかの形で会社を再編し、速やかに「新NHK」として再出発すること!。
その方法は、
① すべて民放と同じにして、一般の企業になる
② エンタメは一切止めて、政治や経済など「国民の知る権利や政府の情報」をキチンと確実に、しかも与党の意向に偏せず、不偏不党「独立不羈の放送機関」として、国民の目で物事を見る「真実を知るニュース」に徹したチャンネルになる
以上。なお、②の場合は視聴料は税金で賄うものとする。まあ、エンタメが無くなれば「今の予算の10分の1」くらいの金額でやっていけるのではないだろうか、知らんけど・・・。
聞いたところによると、今の「テレビ離れ」した視聴形態ではお金が入って来なくなるとして、よりによって「ネットにも」料金を課そうとしてるらしい。なんだって?、それ、どうゆこと?、と怒りが爆発しそうだ。「ふざけんなよ、NHK!」のバカヤロー!。何様のつもりかっ!、である。まあ、視聴料をしぶしぶ支払っている私としては、言いたくなるのも当然である。こういうバカげた考えを持ち出す自体「時代遅れ」のアナクロで、「お上意識」が芯から抜けてない証拠である。だからサッサと「上層部は全員クビ」にして、現行NHKは「きっぱり廃止」すべし!。
つまり、今までテレビが日本国の津々浦々に普及するまでの拡張期でのNHKの役割は、もう終了した。これからはいくらでも、山ほどあるチャンネルから好きなものを視聴者が選べる時代になったのである。でもそれだとエンタメ性が全くない、政府の日々の活動情報とか地域の地道な取り組みとか世界の動向など、わざわざ調べないと広まらない「必要な情報」が人々の頭から抜け落ちてしまう。だから税金でしっかりフォローするのが妥当だと私は思う。
本当に必要なものは税金を払っても提供するべきだ。
3、元号が年の途中で変わるのは許せない
一年は1月1日からと決まっている、というか人間の都合で「そう決めて」いる。別に地球の方に始めと終わりがあるわけではない。だから5月17日を1年の初めと決めても「何の不都合もない」のである。ただ、数字の始まりは1だから、1年の初めを1月1日というのが一番しっくり来る、そう言うことである。ところがそれを、途中から「時間の尺度」である年の呼び方を変更して、新しい元号を始めるって「どういうつもり?」なんである。
これはどう考えても「まともな頭の人間」のやることではない。ところが昔の役人は姑息なもので、上から言われると「前例はこうこうです」などとおべんちゃらを言って、あっさり容認してしまうのだから怖いものである。これは今でも連綿と続いていて、誰も何とも思わずに「あっさり」と受け入れるのが不思議でならないのだ。まあ、簡単に言ってしまえば「バカだから」としか言いようがない。特に宮内庁の役人は揃いも揃って「根っからのバカの集団」だから、言ってるこちらの方が馬鹿みたいになる。
そこで少なくとも元号を変える時ぐらいは、年の初めから新元号に切り替えるように「新しく法律」を作ったらどうだろうか。何しろ今のままでは「不便で不便で」仕方がないのである。皆さんも「どうにかして」と思っているんじゃないだろうか。振り返れば近くは大正15年と昭和元年が切り替わる時は12月25日、また昭和64年と平成元年が切り替わる時は1月7日、そして平成31年と令和元年が切り替わる時は4月30日、すべてバラバラである。こんな「めちゃくちゃな切り替え」が、年号という「重要な時間の尺度」の根本に関わっている状態で、人々は何とも思わないで生活しているのであろうか。しなみにキリストの生まれた日は皆さんよくご存じの「12月25日」である。これも考えてみれば変な話である。キリスト生誕の日こそ1月1日にしそうなものなのに・・・。
取りあえず東洋では当然、十干十二支の時間計算法が第一にあって、元号は補助というか「おまけ」になっていた、というのが現実である。人々は十二支でその年の前後と期間を計算し、十干で10年ごと60年単位での長い期間を考え、保険や割賦の利息計算などを行っていた(と思われる)。つまり、和暦は表向きの表示で、実際は別の「しっかりした時間管理法」を採用していたのである。そりゃあそうだろう、5年や10年でコロコロ変わる元号なんかあてにしてた日にゃ「ちょっとした契約」なんか面倒臭くて、とても出来やしないに決まっている。
当然、現在のすべての時間管理は「西暦という世界共通の時間管理法」に日本も従っている。西暦はそれが「キリスト生誕の年」ということすら通常「意識する事もない」くらいに、我々の生活に染みわたっているわけだ。これで何の不都合もない。
じゃあ、なんでいつまでも和暦なんて時代の遺物を使い続けるのか?
それは天皇が、いまだに日本の頂点、言い方を変えれば「日本人のシンボル」として君臨し続けているからである。私個人としては別に現天皇が、私の人格を「象徴している」などと考えたことは一度も無いが、実際は天皇は、現人神から一段下がってここ終戦以来は「象徴天皇」という新しい立場で、色々な国事行為に携わっている。ことさら「天皇が必要だ」というのではなくて、「天皇は偉い人」だから色々な行事の箔をつける為に「お出まし願う」というのが正直なところではないだろうか。内閣の任命など、法律に決められている行為はいくつかあるが、それも自分で決断するのではなく、内閣が決めたことをただ「追認・公布するだけ」という、悪く言えば「お飾り」の存在である。
まあ、これは元々「神道の大祭司」である天皇を、敗戦以来「民主主義の政治形態」を日本が取らされてから「しょうがなく象徴天皇という、宙ぶらりんの立場」に追いやられているから起きたことで、本意ではない。
私はこの際、はっきりと「一切の政治との決別」を宣言し、自ら「大日本神道の頂点」となって伊勢神宮に本拠を構え、全日本の神徒に号令を掛ける神々しい天皇の凛々しい姿を想像する。これであれば元号が年の途中で変わろうがどうしようが、我々の生活にとって何の影響もないのだ。これが和暦の「真の姿」である。であれば神宮和暦として「いつまでも和暦の年数と、十干十二支を併記」し、お正月には神社で御神籤と神宮館九星本暦を買い、無病息災を祈るという「平安以来の千年の伝統の灯」を絶やすことなく、家内安全に生活することが出来ようというものである。よって基本的には和暦は公的機関での使用は廃止すること。また、宗教や天皇関係の行事または歴史の既述などに限っては一般にも使用出来る、とするのが正しい処置である。
ところが現状は、この2023年の時代だと言うのに「未だに市役所など」が郵便物に「令和何年」とか書いて麗々しく送って来るのである!。令和何年とか書けば重々しく見えてカッコいいとでも思っているのだろうか、これ、「超ウザイ!」から本当にやめてくれ!、マジで!。
それでもガタガタ言ってくる一部の天皇崇拝のネトウヨの輩には、逆に何でお前は「西暦を使ってるのか?」と聞いてみたい。それは「便利だから」だろう?、他に理由はない。だったらいい加減、素直に従ったらどうなんだ?、と言いたい。目を覚ませ!
つまり、和暦は「趣味の一種」である。誰かに強制するのは憲法違反だと心得るべし。
4、ガーシー議員は議員になるべきではなかった、という問題
別に国会議員の肩書はそのままでいいから、先ず「給料」を国会会議場で本人確認の上「手渡し」とすること。一週間しても取りに来なければ、国庫に改修すればよい。それから肩書に付いて来る優遇措置だが、これは国会議員としての活動、つまり会議等への出席と投票行為などを一ヶ月間「遅滞なく行った」と確認したのちに「次回の活動予定日まで有効」とする。一時期国会でもリモートでの会議でいいじゃないか、などと参加の仕方が色々と取り沙汰されたようだが、これもガーシー議員のお陰で「全く沙汰止みの憂き目」にあったようである。
大体こんなふざけたバカ男に投票したイカレポンチは、いったい「どこの誰」なのか?。この際はガーシーの「民主主義の根幹を馬鹿にするような態度」を助長したということで、苦渋の決断ではあるが「実名公表する」ってのも必要なことなんじゃないか、と私は思う。
なお、いつまでも国会に出て来ないつもりなら、議員資格剥奪・公民権停止・実刑判決というのが妥当であろう。これこそ、国会議員は主権者である国民の代表という「代議員制度」の冒涜であり、有権者への侮辱及び国会運営への侮辱罪が適用されてしかるべきであろう。少なくとも何人かは彼に投票したわけだから、その投票者の意見を「国会で表現すべきだ」というのは、個人の信念ではなくて「議員という仕事の本質」である。それを無視・放棄して海外で「自由気ままに、ゆったりのんびりと」生活を満喫してるというのはどうなんだろう。今日の生活費を稼ぐために毎日あくせく暮らしている庶民からすれば、彼の境遇は「万死に値する悪行」ではないか?と思う。
というわけで彼の行為は国会議員という役職の、有権者の付託を受けて議員活動を行うという責務を放棄し、「意見を国政に代弁・反映させる機会」を自分の意思で捨てた罪なのだ。これは一種の「重大な契約不履行」だから、件のガーシー議員は、言葉を変えれば「詐欺犯」である(やりますよ、といって当選したのに実際は全然やる気がない)。よって犯罪者は速やかに逮捕訴追して、刑務所に入れると良いだろう。私は20年位の実刑判決が妥当だと思うがどうだろう。
厳しすぎるって?、・・・甘い顔を見せると「つけあがる」のがこの手の犯罪者の常道である。彼にはまっとうな人間の分別というものを勉強し直して、再出発を目指すよう見守るのが「せめてもの温情」というべきであろう。ガーシーよ、年貢の納め時だぜ!
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