心神喪失という言葉がある。犯した罪に対し、犯人の責任能力が無いという理由で無罪とするという考え方だ。本人は犯罪を犯した時点で「本来の自分ではなかった」のだから、無罪だという考えである。だが私はこれは間違っていると思う。罪とは何か、責任とは何か、これは我々が改めて考えねばならないテーマだと言える。では罪と罰のあり方を、少し細かく考えてみよう。
a 本人に罪を犯したという認識が無い場合(たいがい俺はやってない!と言う)。
1 無知によるもの
これは軽犯罪に分類されるのが大半のもので、入ってはいけない所に入ったり、禁止されていることを知らずにやったりすることである。以前に葉山の御用邸の敷地でバーベキューをやっている家族が、「ここは私有地ですよ」とテレビのリポーターに言われて逆切れし、「アンタに言われたくない!」と怒鳴っていたのを思い出した。私有地で了解も得ずにバーベキューやれば、いけないこと位わかっているだろうに醜い夫婦である。しかも葉山の御用邸なのに、である。離婚調停中だから良いと思ったと言った不倫議員もいる始末だから、法律というものをよ〜く勉強する必要があるのは確かだ。だが罪というのは法律で決まっていることの前提に「法は市民の総意で決まる」ということを忘れてはいけない。前述の夫婦のように「警察官なら言っていいが、一般市民のアンタに言われるのは我慢ならない」という態度は法の社会的意義を勘違いしていて、むしろこの罪のほうが重いとも言える。法に違反していることを指摘して注意する権利は、「誰でも、たとえ小学生であっても保持している権利」なのだ。これを認めないと言うことは、法律そのものの存在理由をないがしろにすることであり、最も重要な「法治国家そのもの」を否定する事になる。常識でわかりそうなものだけに、目下の者に注意されるとカッとすることが往々にして起きる。世間では誤解しているようだが、罪を裁くのに年齢・経験は無関係である。よってこの場合の刑罰は、罪を説明し理解させて、法律を遵守するという事がどういうことかを納得させて初めて、この問題は解決する。画一的な刑罰では、無知は治らないのである。
2 信念によるもの
法律が多数決で決められるということは、納得してない人も相当数いる筈である。納得していなくても法律だから従わなければならない。そこで腹立ち紛れに法律を破り、心中快感を覚える人も出てくるのである。つまり「ざまーみろ!」と言うわけだ。ゴミ屋敷の住人などもこの部類に入るだろうか、結局は「法を制定した者たちへの怒り」である。常識でわかるだろうというのは、法を制定した側の理屈であり、常識とはそれに納得しない側にとって「理不尽なしきたり」であろう。私の友人が毎朝社員同士会釈を欠かさないのを見て「何で皆でお互い挨拶するんだい?用もないのに」と聞くと、「みんなやってるから」という返事だった。それで少し天の邪鬼になって「いつからそうなったんだ?」と畳み掛けて尋ねたら、「昔から」と返された。要は、理由は無いのである。常識とは、閉ざされた社会の一部の人間がやっていたことを、後世の人々が無批判に継続している「地域の慣習」に過ぎない。だが全て習慣であろうなんであろうと「そうする理由」があるはずである。もしなければ、その時点でやめれば良い。だが、誰かが常識に反した行動を続けているという事は、時には殺人の動機にもなる。だから「全ての常識を再検証して、理屈に合うように作り直すことが必要」であると私は思う。日々の常識を守れない社会というのは、実に暮らしにくいものである。よって、お互いの信念をキチンと検証して正誤を糺せば、双方スッキリとして仲良く暮らしていけるのではなかろうか。よってこの場合の刑罰は、まずお互いの主張する常識の相違点を検証し、自分の非を論理的に認めさせることで解決する。ただ法律の文言だけで裁こうとすれば、罰は執行できても本来の解決には至らないのである。
3 狂気によるもの
世の中には心を病んでいて、殺人願望や自殺志願の無理心中といった無道な犯罪を平気で犯すおぞましい事件がちょくちょく起きる。相模原の介護施設での大量殺人事件は、まだ記憶が生々しい典型的な事件である。裁判では「責任能力なし」として無罪になってしまう場合が多いが、ここで言う責任とはなんだろうか。それは、自分のやったことについて最後まで言い逃れせず結果を全部受け止めることである。自分の行為の結果として多数の命が失われたことについては、彼は彼なりの理屈を持っていて証言もしているのだ。そう、彼には責任能力はあったのである。ただ、その理屈は他人には理解できないだけである。では理解し合えない者同士が一つの社会に共存出来るのだろうか、「否」である。結局理解し合えないままに一方が他方を「排除する」しか方法は無いのだ。強いものが生き延びる。では我々は彼をどうしたらいいのだろう。コレラのような強力な病原菌が発生して次々と人を襲ったとしよう。死んだ人は運が悪かったのである。そして病原菌(犯人)を逮捕すれば、速やかに排除(つまり死刑)にするであろう。こうした事件は「医学的な事故」であり、犯人を排除=死刑にするのに「誰も躊躇しない」のが、社会を病原菌から守る道である。ただ外見が「人間の格好をしているだけ」だから。そうなのだ、相模原の殺人犯は「我々の知っている人間では無い」のである。もし彼がロボットだったら、あっさり解体処理されているだろう。もう我々も「犯人の行動を理解する」のはやめて、「出来損ない」としてサッサと処理してもいいのではないか。よってこの場合の刑罰は、「この世から排除する」で良いと思う。刑罰ではなく、処理である。
4 心神喪失によるもの
心神喪失状態に陥って本人の知らぬ間に罪を犯してしまい、我に返って気がついたら犯罪者になっていた、ということは十分あり得る話である。自分が自分でなかった時に犯した罪は、正常な状態に戻った後までも責任をもたなければならないのだろうか。ちょっと考えると、責任を問うのは「やり過ぎ」のような気もする。だが我に返った時に改めて犯罪の一部始終を見つめたら、正常な人間であれば「罪の重さに耐えられない」ということになるのじゃないだろうか。そうであれば裁判所が死刑を宣告する前に自分で自分を裁き、自殺するというのが「正常な感覚」ではないだろうか。ちょっと可愛そうな気もするが、やってしまったことを考えると妥当だとも言える。もちろん死ぬのは誰でも嫌である。だが一時的に心神喪失状態になって「自分が思っても見ないような残虐な事をしてしまった」とわかれば、人に言われる前に「自分のしたことの責任を取る」というのは当然である。だから判決は出さずに「死を持って償う」ことになる。では、もし犯人が心神喪失を理由に罪を逃れようとするような卑劣な無責任男(女もあり得る)だった場合はどうなるかと言うと、改めて死刑を宣告すれば良い。その場合は「知らなくても責任は取る」ことになる。どっちみち死をもって償うことには変わりはないのだが、違いは「市民の犯人を見る目が、同情から怒りに変わる」だけである。まぁ死ぬんだからどっちでもいい、とも言えるのだが。よってこの場合の刑罰には心神喪失は考慮に入れないで、本来の罰を与えるべきである。そもそも現行刑罰は「犯人の心理的な側面を重要視し」過ぎる嫌いがある。計画的殺人とカッとなって殺したのとでは犯人の心理には差があるが、考えて見れば「殺された人間には同じこと」なのである。計画殺人は冷血・残虐だというのが刑罰の重い理由のようだが、私は殺されるのに冷血だろうが衝動的だろうが関係ないと思う。犯罪を抑止する為の刑罰を考えれば、全て「結果主義」に立つことで真の自制心が生まれる、と考えている。つまり「カッとなって殺したけれど、殺す気はありませんでした」は通用しないのである。
5 過失によるもの
交通事故などはその良い例であるが、これは人間である以上誰にでも起こりうるものである。だが心掛け次第では事故を防ぐことも不可能ではない。酒酔い運転による死亡事故など、「飲んだら乗るな」の標語をわざわざ破った挙句のことであるから、罪が重いのは当たり前である。私も今だから言うが酒を飲んで車を運転したことがある。その時は反応も遅く、実に危険だった。酒を飲めば危ないということはわかってやっているのだから、これは次の確信犯の分類になるのかもしれない。過失によるものとは、厳密に言えば、何も違反してなくて事故ってしまったような場合で、簡単に言えば「犯罪とは言えない」ものである。しかし結果は通常の犯罪と何ら変わりはない。もっと過失についても「厳密に捉える必要」があると思う。つまり車の市街地での走行に関してと、年齢による運転技術の衰えとは厳しく取り締まる必要がある、と思うのだ。私が病気で運転免許証を返納したから言うわけではないが、運転免許証(技術と法律の両方)の更新試験を10年ごとのに実施すべきである。65歳をすぎたら5年更新にすれば、認知症などの問題も少しは改善されると思う。それと、一刻も早く自転車にナンバープレートをつけて欲しいものである。自転車も軽車両なのだから、通行区分を守って安全に走る意識と技術をテストしてからでないと免許を与えないのは当然ではないか。小学生だろうが、自転車に乗るには免許を必要とするのである。過失は「あらかじめ準備していれば防げる確率が高い」事故である。警察もやるべきことをやらねば。
b 罪である事は知っていたが止められなかった場合
1 感情によるもの
恨みや憎しみ・怨念に囚われて刑罰の重さにも思いとどまる事が出来ず犯行に及んだ、という場合で、言わば確信犯である。自分のやったことは悪いことだとは知っていても、「でも」と言って犯罪に及んだ経緯や理由を訴えるのが常である。確かに犯人の言い分にも一理ある、などと思えば判決も情状酌量されて刑も軽くなるのだが、殺人までは行かなくてもちょっと痛めつける位は、ヤクザならずともやってしまうかも知れない。しかしここで取り上げるのは「カッとなって」思わずやってしまった犯罪である。これは正常な状態ではなかったのだから、ある意味で心神喪失状態とも言える。であれば我に返って正常になって見れば、やったことに責任を取るのが当たり前ではないか、と言うのは前項でも書いた。日頃から感情を抑制することを覚えなければ、いつか思ってもいない犯罪に手を染めるのは時間の問題である。とにかく口論などしてカッとなったとしても、手だけは出さないように気をつけることである。そういう訓練を日頃からしておくのも、自分を守るという意味で悪くない方法である。確信犯であるから、刑罰は当然である。つまり「やってしまったら罰がある」ので、更生することは考えてない。だから真面目にやったから早く出られるというのは「元々の趣旨に反して」いる。この刑罰の効果は犯罪を犯す「前」に止めることにあるので、「真面目に努めれば5年で出られるなどとテレビのサスペンスドラマで大々的に言うもんだから困っちゃう。少なくとも殺人だったら30年くらいは刑期が欲しいところである。止むに止まれず、なんてことは「テレビドラマで見る限り」ほとんど無いのが現実なのだ。殺さなくても方法はあるものである。
2 欲望によるもの
これが人間の悲しい性で性悪説の拠り所になっているわけだが、欲しいとなるとどうしても欲しくなるというのは、それ自体は別に悪いことではない。努力して努力して、それで得られ無ければ「さらに努力すれば」良いだけである。だがどうしても努力するのが嫌いだという人が、世の中には居るものである。地位・権力・名誉は言うに及ばず、物欲に囚われた人の犯罪には限りが無い。振り込め詐欺など「捕まる確率が低い」ものは犯行動機がわかりやすいが、単純な窃盗犯などはもう習い性となっていて、犯罪というよりは人生そのものである。こうなると責任能力云々と言っても、もう意味がない。欲望を抑えられないというよりも、欲しいものを手に入れる方法が「努力より詐欺や暴力」という考えであるから、これは「一種の病気」であるといえる。だから病気を治すか、治らなければ「廃棄」するだけである。刑務所を更正施設とする考えは、罪を自覚して絶対二度と刑務所には戻らないと考える人にとっては有効であるが、犯罪と犯罪の間の「お休み」期間と考えている犯罪者たちにとっては「全く無意味」な考えである。犯罪を犯す犯さないと言うが「普通は罪を犯さない」のだから、罪を犯すのには「それ相当の理由」があるはずである。大概は犯罪よりも「不始末を知られたらどうしよう」という気持ちから、しまいに本格的な犯罪に走るのが多いのじゃ無いか。私も経験があるが、ちょっとした不足を埋め合わせようとして「犯罪に足を踏み込む」例がほとんどだと思う。元々犯罪者というのは意外と少なくて、始まりは些細な事からそれがいつしか大きな犯罪をしでかすようになり、刑務所に入り前科者というレッテルを貼られて、その事実から抜けられない人が多いのではないだろうか。麻薬の誘惑と同じである。これには相談できる友人を持つというのは、とてもとても大事な事であると言える。よってこの場合の刑罰は、文字通りの「罰」である。だから全体のバランスとかを余り考えなくて、ある程度重くすることが必要である。その代わりに「犯罪を犯す前に相談するセーフティネット」を、できる限り充実させることが肝心である。
3 正義の鉄槌をお見舞いする場合
世の中には「許せない!」と思うことが実に沢山あって、一日中何かしら頭にくる事で頭が一杯、という日も実際にあるのだ。だが神経質で潔癖で正義感に溢れた人というのは、意外とヤクザにも多い性格なのである。まぁ正義を暴力で達成するというのが果たして理屈に合っているかどうかは疑問であるが、本人は正しい事を行ってるつもりであるから完全に本気モードである。しかし傍目に見れば犯罪になっているという事だから、事は重大である。ヤクザの抗争などは良い例だが、彼らにして見れば「正義を通した」結果であるから始末が悪い。これは何が正義なのかは法律によるのであり、ヤクザの論理によるのではないのだが「当人は知っちゃいない」とやりたい放題である。責任云々なんて通用しない団体であるから、サッサと「非国民扱い」にすべきであると私は思うのだが如何であろう。ちょっと例に取るのはどうかと思うが、ISIS国やポコ・ハラムなどもこの部類に入ってくるんじゃないかと思う。つまり襲われた側からすれば確信犯的犯罪者集団であるから、もう完全に「存在自体が悪」なのだ。そういえばヤクザも「任侠」を団体の精神に標榜しているが、一種の宗教団体のような気もする。この場合の刑罰は、正義ということを貫く方法に問題があるのであり(彼らの言う正義が問題の場合も多い)、我々の法を適用することに素直に従わないのであれば逮捕するしか無いのでは無いか。その際に一般市民と同じレベルの権利を認める必要はないと思う。我々と共存するためには、共通のルールを守ってもらうべきである。そうでなければISIS国のように、排除するしかないのである。
c 捕まらなければラッキー
最後は振り込め詐欺のような、捕まる確率がとても低い「安全な犯罪」である。この手の犯罪者は職業の一種であるから、いつも効率の良い犯罪の研究は怠りなくやっているはずである。だから罪と刑罰のバランスが取れてないものを選んで犯行を繰り返す。我々は対抗して「刑罰を相当重くしなければいけないのだ。刑罰を与えて反省させるという手は、この犯罪者集団には通用しない。だが刑罰を重くすれば、相対的にもっと刑罰が軽い暴力犯罪に走ることは目に見えているのだから面倒である。何しろ責任感が皆無なのだから、捕まらなければ何でも良いのである。これに対する防御は社会全体のシステムを変えてゆくことしかないような気がする。つまり「現金をなくす」のである。現金というのは「所有者と使用者が誰だかわからない」犯罪者にとって究極の安全な資産である。現金をなくして全部「口座からクレジット払い」にすれば、お金に絡む犯罪は「犯しようが無い」のじゃないだろうか。そもそも犯罪で盗んだお金が何千万あっても、最後は「普通に支払いしなければ使えない」ではないか。口座もマイナンバーを使って本人認証すれば、海外に送金するくらいしか方法はない。しかし誰からどこへ送金したか「全てお見通し」なのだから、グリコ毒入り事件や三億円事件などは起こり得ないことがわかるであろう。よってこの場合の刑罰は、盗んだ金額を「きちんと返すまで」働くことになる。取ったものは返さなくてはいけない。じゃあ三億円も盗んだら一生働いても返せないじゃないか、って?。そりゃあ自業自得でしょ?。ただし錯誤による損害は犯罪ではないから、交通事故と同じに考えて良いと思う。
以上かいつまんで書きなぐってしまったが、これは法の精神を書いたつもりである。もう一度読み返してみると、色々と言葉が足らない部分もあり、出来たらもう一度ちゃんと整理して書いてみたいと思う。とりあえず「犯罪が多種多様なように刑罰も多種多様であるべきだ」ということで、今回の結論とさせて頂きたい。
a 本人に罪を犯したという認識が無い場合(たいがい俺はやってない!と言う)。
1 無知によるもの
これは軽犯罪に分類されるのが大半のもので、入ってはいけない所に入ったり、禁止されていることを知らずにやったりすることである。以前に葉山の御用邸の敷地でバーベキューをやっている家族が、「ここは私有地ですよ」とテレビのリポーターに言われて逆切れし、「アンタに言われたくない!」と怒鳴っていたのを思い出した。私有地で了解も得ずにバーベキューやれば、いけないこと位わかっているだろうに醜い夫婦である。しかも葉山の御用邸なのに、である。離婚調停中だから良いと思ったと言った不倫議員もいる始末だから、法律というものをよ〜く勉強する必要があるのは確かだ。だが罪というのは法律で決まっていることの前提に「法は市民の総意で決まる」ということを忘れてはいけない。前述の夫婦のように「警察官なら言っていいが、一般市民のアンタに言われるのは我慢ならない」という態度は法の社会的意義を勘違いしていて、むしろこの罪のほうが重いとも言える。法に違反していることを指摘して注意する権利は、「誰でも、たとえ小学生であっても保持している権利」なのだ。これを認めないと言うことは、法律そのものの存在理由をないがしろにすることであり、最も重要な「法治国家そのもの」を否定する事になる。常識でわかりそうなものだけに、目下の者に注意されるとカッとすることが往々にして起きる。世間では誤解しているようだが、罪を裁くのに年齢・経験は無関係である。よってこの場合の刑罰は、罪を説明し理解させて、法律を遵守するという事がどういうことかを納得させて初めて、この問題は解決する。画一的な刑罰では、無知は治らないのである。
2 信念によるもの
法律が多数決で決められるということは、納得してない人も相当数いる筈である。納得していなくても法律だから従わなければならない。そこで腹立ち紛れに法律を破り、心中快感を覚える人も出てくるのである。つまり「ざまーみろ!」と言うわけだ。ゴミ屋敷の住人などもこの部類に入るだろうか、結局は「法を制定した者たちへの怒り」である。常識でわかるだろうというのは、法を制定した側の理屈であり、常識とはそれに納得しない側にとって「理不尽なしきたり」であろう。私の友人が毎朝社員同士会釈を欠かさないのを見て「何で皆でお互い挨拶するんだい?用もないのに」と聞くと、「みんなやってるから」という返事だった。それで少し天の邪鬼になって「いつからそうなったんだ?」と畳み掛けて尋ねたら、「昔から」と返された。要は、理由は無いのである。常識とは、閉ざされた社会の一部の人間がやっていたことを、後世の人々が無批判に継続している「地域の慣習」に過ぎない。だが全て習慣であろうなんであろうと「そうする理由」があるはずである。もしなければ、その時点でやめれば良い。だが、誰かが常識に反した行動を続けているという事は、時には殺人の動機にもなる。だから「全ての常識を再検証して、理屈に合うように作り直すことが必要」であると私は思う。日々の常識を守れない社会というのは、実に暮らしにくいものである。よって、お互いの信念をキチンと検証して正誤を糺せば、双方スッキリとして仲良く暮らしていけるのではなかろうか。よってこの場合の刑罰は、まずお互いの主張する常識の相違点を検証し、自分の非を論理的に認めさせることで解決する。ただ法律の文言だけで裁こうとすれば、罰は執行できても本来の解決には至らないのである。
3 狂気によるもの
世の中には心を病んでいて、殺人願望や自殺志願の無理心中といった無道な犯罪を平気で犯すおぞましい事件がちょくちょく起きる。相模原の介護施設での大量殺人事件は、まだ記憶が生々しい典型的な事件である。裁判では「責任能力なし」として無罪になってしまう場合が多いが、ここで言う責任とはなんだろうか。それは、自分のやったことについて最後まで言い逃れせず結果を全部受け止めることである。自分の行為の結果として多数の命が失われたことについては、彼は彼なりの理屈を持っていて証言もしているのだ。そう、彼には責任能力はあったのである。ただ、その理屈は他人には理解できないだけである。では理解し合えない者同士が一つの社会に共存出来るのだろうか、「否」である。結局理解し合えないままに一方が他方を「排除する」しか方法は無いのだ。強いものが生き延びる。では我々は彼をどうしたらいいのだろう。コレラのような強力な病原菌が発生して次々と人を襲ったとしよう。死んだ人は運が悪かったのである。そして病原菌(犯人)を逮捕すれば、速やかに排除(つまり死刑)にするであろう。こうした事件は「医学的な事故」であり、犯人を排除=死刑にするのに「誰も躊躇しない」のが、社会を病原菌から守る道である。ただ外見が「人間の格好をしているだけ」だから。そうなのだ、相模原の殺人犯は「我々の知っている人間では無い」のである。もし彼がロボットだったら、あっさり解体処理されているだろう。もう我々も「犯人の行動を理解する」のはやめて、「出来損ない」としてサッサと処理してもいいのではないか。よってこの場合の刑罰は、「この世から排除する」で良いと思う。刑罰ではなく、処理である。
4 心神喪失によるもの
心神喪失状態に陥って本人の知らぬ間に罪を犯してしまい、我に返って気がついたら犯罪者になっていた、ということは十分あり得る話である。自分が自分でなかった時に犯した罪は、正常な状態に戻った後までも責任をもたなければならないのだろうか。ちょっと考えると、責任を問うのは「やり過ぎ」のような気もする。だが我に返った時に改めて犯罪の一部始終を見つめたら、正常な人間であれば「罪の重さに耐えられない」ということになるのじゃないだろうか。そうであれば裁判所が死刑を宣告する前に自分で自分を裁き、自殺するというのが「正常な感覚」ではないだろうか。ちょっと可愛そうな気もするが、やってしまったことを考えると妥当だとも言える。もちろん死ぬのは誰でも嫌である。だが一時的に心神喪失状態になって「自分が思っても見ないような残虐な事をしてしまった」とわかれば、人に言われる前に「自分のしたことの責任を取る」というのは当然である。だから判決は出さずに「死を持って償う」ことになる。では、もし犯人が心神喪失を理由に罪を逃れようとするような卑劣な無責任男(女もあり得る)だった場合はどうなるかと言うと、改めて死刑を宣告すれば良い。その場合は「知らなくても責任は取る」ことになる。どっちみち死をもって償うことには変わりはないのだが、違いは「市民の犯人を見る目が、同情から怒りに変わる」だけである。まぁ死ぬんだからどっちでもいい、とも言えるのだが。よってこの場合の刑罰には心神喪失は考慮に入れないで、本来の罰を与えるべきである。そもそも現行刑罰は「犯人の心理的な側面を重要視し」過ぎる嫌いがある。計画的殺人とカッとなって殺したのとでは犯人の心理には差があるが、考えて見れば「殺された人間には同じこと」なのである。計画殺人は冷血・残虐だというのが刑罰の重い理由のようだが、私は殺されるのに冷血だろうが衝動的だろうが関係ないと思う。犯罪を抑止する為の刑罰を考えれば、全て「結果主義」に立つことで真の自制心が生まれる、と考えている。つまり「カッとなって殺したけれど、殺す気はありませんでした」は通用しないのである。
5 過失によるもの
交通事故などはその良い例であるが、これは人間である以上誰にでも起こりうるものである。だが心掛け次第では事故を防ぐことも不可能ではない。酒酔い運転による死亡事故など、「飲んだら乗るな」の標語をわざわざ破った挙句のことであるから、罪が重いのは当たり前である。私も今だから言うが酒を飲んで車を運転したことがある。その時は反応も遅く、実に危険だった。酒を飲めば危ないということはわかってやっているのだから、これは次の確信犯の分類になるのかもしれない。過失によるものとは、厳密に言えば、何も違反してなくて事故ってしまったような場合で、簡単に言えば「犯罪とは言えない」ものである。しかし結果は通常の犯罪と何ら変わりはない。もっと過失についても「厳密に捉える必要」があると思う。つまり車の市街地での走行に関してと、年齢による運転技術の衰えとは厳しく取り締まる必要がある、と思うのだ。私が病気で運転免許証を返納したから言うわけではないが、運転免許証(技術と法律の両方)の更新試験を10年ごとのに実施すべきである。65歳をすぎたら5年更新にすれば、認知症などの問題も少しは改善されると思う。それと、一刻も早く自転車にナンバープレートをつけて欲しいものである。自転車も軽車両なのだから、通行区分を守って安全に走る意識と技術をテストしてからでないと免許を与えないのは当然ではないか。小学生だろうが、自転車に乗るには免許を必要とするのである。過失は「あらかじめ準備していれば防げる確率が高い」事故である。警察もやるべきことをやらねば。
b 罪である事は知っていたが止められなかった場合
1 感情によるもの
恨みや憎しみ・怨念に囚われて刑罰の重さにも思いとどまる事が出来ず犯行に及んだ、という場合で、言わば確信犯である。自分のやったことは悪いことだとは知っていても、「でも」と言って犯罪に及んだ経緯や理由を訴えるのが常である。確かに犯人の言い分にも一理ある、などと思えば判決も情状酌量されて刑も軽くなるのだが、殺人までは行かなくてもちょっと痛めつける位は、ヤクザならずともやってしまうかも知れない。しかしここで取り上げるのは「カッとなって」思わずやってしまった犯罪である。これは正常な状態ではなかったのだから、ある意味で心神喪失状態とも言える。であれば我に返って正常になって見れば、やったことに責任を取るのが当たり前ではないか、と言うのは前項でも書いた。日頃から感情を抑制することを覚えなければ、いつか思ってもいない犯罪に手を染めるのは時間の問題である。とにかく口論などしてカッとなったとしても、手だけは出さないように気をつけることである。そういう訓練を日頃からしておくのも、自分を守るという意味で悪くない方法である。確信犯であるから、刑罰は当然である。つまり「やってしまったら罰がある」ので、更生することは考えてない。だから真面目にやったから早く出られるというのは「元々の趣旨に反して」いる。この刑罰の効果は犯罪を犯す「前」に止めることにあるので、「真面目に努めれば5年で出られるなどとテレビのサスペンスドラマで大々的に言うもんだから困っちゃう。少なくとも殺人だったら30年くらいは刑期が欲しいところである。止むに止まれず、なんてことは「テレビドラマで見る限り」ほとんど無いのが現実なのだ。殺さなくても方法はあるものである。
2 欲望によるもの
これが人間の悲しい性で性悪説の拠り所になっているわけだが、欲しいとなるとどうしても欲しくなるというのは、それ自体は別に悪いことではない。努力して努力して、それで得られ無ければ「さらに努力すれば」良いだけである。だがどうしても努力するのが嫌いだという人が、世の中には居るものである。地位・権力・名誉は言うに及ばず、物欲に囚われた人の犯罪には限りが無い。振り込め詐欺など「捕まる確率が低い」ものは犯行動機がわかりやすいが、単純な窃盗犯などはもう習い性となっていて、犯罪というよりは人生そのものである。こうなると責任能力云々と言っても、もう意味がない。欲望を抑えられないというよりも、欲しいものを手に入れる方法が「努力より詐欺や暴力」という考えであるから、これは「一種の病気」であるといえる。だから病気を治すか、治らなければ「廃棄」するだけである。刑務所を更正施設とする考えは、罪を自覚して絶対二度と刑務所には戻らないと考える人にとっては有効であるが、犯罪と犯罪の間の「お休み」期間と考えている犯罪者たちにとっては「全く無意味」な考えである。犯罪を犯す犯さないと言うが「普通は罪を犯さない」のだから、罪を犯すのには「それ相当の理由」があるはずである。大概は犯罪よりも「不始末を知られたらどうしよう」という気持ちから、しまいに本格的な犯罪に走るのが多いのじゃ無いか。私も経験があるが、ちょっとした不足を埋め合わせようとして「犯罪に足を踏み込む」例がほとんどだと思う。元々犯罪者というのは意外と少なくて、始まりは些細な事からそれがいつしか大きな犯罪をしでかすようになり、刑務所に入り前科者というレッテルを貼られて、その事実から抜けられない人が多いのではないだろうか。麻薬の誘惑と同じである。これには相談できる友人を持つというのは、とてもとても大事な事であると言える。よってこの場合の刑罰は、文字通りの「罰」である。だから全体のバランスとかを余り考えなくて、ある程度重くすることが必要である。その代わりに「犯罪を犯す前に相談するセーフティネット」を、できる限り充実させることが肝心である。
3 正義の鉄槌をお見舞いする場合
世の中には「許せない!」と思うことが実に沢山あって、一日中何かしら頭にくる事で頭が一杯、という日も実際にあるのだ。だが神経質で潔癖で正義感に溢れた人というのは、意外とヤクザにも多い性格なのである。まぁ正義を暴力で達成するというのが果たして理屈に合っているかどうかは疑問であるが、本人は正しい事を行ってるつもりであるから完全に本気モードである。しかし傍目に見れば犯罪になっているという事だから、事は重大である。ヤクザの抗争などは良い例だが、彼らにして見れば「正義を通した」結果であるから始末が悪い。これは何が正義なのかは法律によるのであり、ヤクザの論理によるのではないのだが「当人は知っちゃいない」とやりたい放題である。責任云々なんて通用しない団体であるから、サッサと「非国民扱い」にすべきであると私は思うのだが如何であろう。ちょっと例に取るのはどうかと思うが、ISIS国やポコ・ハラムなどもこの部類に入ってくるんじゃないかと思う。つまり襲われた側からすれば確信犯的犯罪者集団であるから、もう完全に「存在自体が悪」なのだ。そういえばヤクザも「任侠」を団体の精神に標榜しているが、一種の宗教団体のような気もする。この場合の刑罰は、正義ということを貫く方法に問題があるのであり(彼らの言う正義が問題の場合も多い)、我々の法を適用することに素直に従わないのであれば逮捕するしか無いのでは無いか。その際に一般市民と同じレベルの権利を認める必要はないと思う。我々と共存するためには、共通のルールを守ってもらうべきである。そうでなければISIS国のように、排除するしかないのである。
c 捕まらなければラッキー
最後は振り込め詐欺のような、捕まる確率がとても低い「安全な犯罪」である。この手の犯罪者は職業の一種であるから、いつも効率の良い犯罪の研究は怠りなくやっているはずである。だから罪と刑罰のバランスが取れてないものを選んで犯行を繰り返す。我々は対抗して「刑罰を相当重くしなければいけないのだ。刑罰を与えて反省させるという手は、この犯罪者集団には通用しない。だが刑罰を重くすれば、相対的にもっと刑罰が軽い暴力犯罪に走ることは目に見えているのだから面倒である。何しろ責任感が皆無なのだから、捕まらなければ何でも良いのである。これに対する防御は社会全体のシステムを変えてゆくことしかないような気がする。つまり「現金をなくす」のである。現金というのは「所有者と使用者が誰だかわからない」犯罪者にとって究極の安全な資産である。現金をなくして全部「口座からクレジット払い」にすれば、お金に絡む犯罪は「犯しようが無い」のじゃないだろうか。そもそも犯罪で盗んだお金が何千万あっても、最後は「普通に支払いしなければ使えない」ではないか。口座もマイナンバーを使って本人認証すれば、海外に送金するくらいしか方法はない。しかし誰からどこへ送金したか「全てお見通し」なのだから、グリコ毒入り事件や三億円事件などは起こり得ないことがわかるであろう。よってこの場合の刑罰は、盗んだ金額を「きちんと返すまで」働くことになる。取ったものは返さなくてはいけない。じゃあ三億円も盗んだら一生働いても返せないじゃないか、って?。そりゃあ自業自得でしょ?。ただし錯誤による損害は犯罪ではないから、交通事故と同じに考えて良いと思う。
以上かいつまんで書きなぐってしまったが、これは法の精神を書いたつもりである。もう一度読み返してみると、色々と言葉が足らない部分もあり、出来たらもう一度ちゃんと整理して書いてみたいと思う。とりあえず「犯罪が多種多様なように刑罰も多種多様であるべきだ」ということで、今回の結論とさせて頂きたい。
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