私は多くの作品が、芸術と呼ばれて他と区別されることには少なからず違和感を感じているものの一人である。世の中には色々な作品があるとしても、何故そこに「芸術」と言う新しい概念を持ち込んで、一段高い価値を持たせるのかと訝しんで来たのである。人間は有史以来、持ち前の五感をそれぞれ楽しませるものとして、色々な物を創り出してきた。曰く、視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚である。ポピュラーなものでは視覚を喜ばせるものとして「絵画・彫刻・建築・庭園」があり、味覚・嗅覚に対しては「料理・喫茶・酒肴・焚香」がある。勿論、それらに加えて日常の道具としての「焼物」に見られるごとく、「肌触り」という触覚の心地よさもあるだろう。「演劇や映画」といった総合的なものも当然あるだろうし、音楽は言わずもがなである。人間は全ての身体感覚において、「気持ちの良いものとそれほどでもないもの」を区別している評価しているのだ。それは生まれ持った生存感覚なのだと思われる。そして、それらを一列に並べてランキングしていくと、自然と一定のレベルに達している稀有な作品は、「芸術」と分類されて取引価格が上がる。だから芸術作品というレッテルは、主に美術商が値段を釣り上げるために考え出したあ「素人向けの目安」である・・・そう私は考えていた。
だが番組を聞いていて分かったのだが、西洋では芸術という概念は「一種の哲学」であり、プラトンやアリストテレス以来の学問的研究の対象であるという事だった。つまり芸術とは、作品の評価するための基準ではなく、むしろ人間の感覚器官が「どのようにして好悪を感じているのか」を解き明かす、医学もしくは哲学として捉えられていたのである(私の勝手な解釈です)。ある曲を聴き、ある絵を見て「これは素晴らしい!」と感動する人もいれば、「どこがいいの?」と見向きもしない人も当たり前だが、両方いる。しかしそれを個人の趣味だからと切り捨てるのでなく、そこには一定のロジックが必ずあるはずだ、と考えたのが西洋芸術論ではないだろうか。番組では「ミメーシス(模倣)」という言葉をキーワードにして、この芸術理論の変遷をギリシア哲学から順次説き起こしている。ちょっと担当講師の発音が先を急ぎ過ぎていて、「倒けつ転びつ」という体なのが気になるが、とにかく難しいことは分からないので、自分なりに芸術というものを考えてみる事にした。
要は、人間は何故「あるものを良いと感じ、またあるものをそうでもないと感じるのか?」という質問に答えることである。これが私の芸術論の定義だ。
私は先日、NHK のクラシック番組で、クリスティアン・ベザイデンホウトのフォルテピアノ・リサイタルを聴いた。モーツァルトの鍵盤作品全曲録音を発表したばかりの気鋭の演奏家である。番組はモーツァルトのピアノソナタ3曲を静かに演奏するものだったが、やはりモーツァルトは「フォルテピアノで聞く」のが一番似合う作曲家だと改めて納得した。スタインウェイやヤマハやファツィオリなどのモダンピアノでは、モーツァルトを弾くには少しオーバーパワーなのだろう。それに演奏会場も現代の商業施設では大き過ぎる。まあそれでも曲は私も昔(脳梗塞を患う前だが)よく弾いていたものばかりであり、モーツァルトの美しい音の世界を十二分に堪能出来た。さてここで芸術論の登場となるのだが、モーツァルトの曲に込めたもの(それが明確にあるとしてだが)とは何だろうか?
私は以前から、「芸術はコミュニケーション」だと考えている立場である。すなわち、私が何かを見たり聴いたりして気持ち良いと思ったことを相手に伝達し、結果として「あなたも同じように気持ち良いと感じる」こと、それが芸術の本質なのではないか。それを媒介するのが「音楽であり絵画であり詩や小説であり、そのほかの全ての芸術作品」だと思うのである。だからこの「気持ち良さ」は人ごとに違う感覚であり、年齢や性別や生活様式からしても、自ずから異なって来るのは当然でなのではなかろうか。若くて元気の良い人に取っては、体の内側から溢れ出るエネルギーを発散させるものが気持ち良いものであろうし、時としては暴力や破壊をイメージした作品がもてはやされることもあると思う。逆に年寄りや身体の運動量が落ちている人にとっては、静かで落ち着いたものが気持ち良い。人それぞれである。
だが人間が成長し、自分の思い描く社会の一員として自分と共に仲間の幸せをも願う円満な精神状態に達する頃(私はその時期を30代半ばと考えているが)、家族を持ち、そしてふと「心安らぐ時間」に楽しむものとして選ぶのは、モーツァルトに代表されるような「完全な充足」ではないだろうか。モーツァルトは聴き終わった時に「言うに言われぬ満たされた満足感」を与えてくれる。何も言葉を必要とせず、お互い微笑みを交わして頷くだけである。これが究極のコミュニケーションだろう。何故なのかは分からないが、期待したものが十分に与えられた満足感である(注:ハイドンに始まるシュトルム・ウント・ドランク運動は、少なからずモーツァルトにも影響を与えていたことは記憶しておく必要があるだろうと思う。つまり、宗教的音楽から人間的芸術への変化である)。
結局はここまで芸術論などと大上段に構えたが、大した理論の展開もできずにグダグダとつまらない話に終始してしまった。反省しきりである。ただ言えることは、芸術とは「美しさそのものを共有すること」に尽きるのではないか。それ以外の余計な感情を持ち込めば持ち込む程、一時的に観る者に受けても、長続きはしないと思われるのだ。我々が夕日の落ちる風景に美しいと感じて写真を撮ったとしよう。その写真は、あくまで我々の感動した景色を忠実に記録した「生データ」である。その生データは、我々が「何かを感じて」感動した風景そのものだが、だからと言って他人も同じように感動するとは「限らない」。芸術作品となるためには生データを示すのではなく、直接に「感動自体を描く」必要があるのだ。言うなれば「美そのもの」である(何故なら、感動とは「普遍的な美」のことだから)。西洋絵画では長い間、神話や歴史に題材を取った絵画が主流だった。それは何故かというと、肌を露出させても許される題材が「神話や歴史」だったからだと私は思っている。人間に取って最も美しいものは、間違いなく「人間の身体の美」なのだ。だが人類が進化して、身体の美しさだけでなく「心の美しさ」にも目が行くようになってきて、絵画は幅が広がった。音楽も然り、詩も然りである。それらに共通の「根源的な美」とは何か?。それはきっと、人間同士のコミュニケーションに深く根ざした「生命そのものに宿る喜び」のような物ではないか、と私は考えている。
・・・色々と話が横道に入り込んでしまったようだが、私は作品を鑑賞するときには作品の表面に現れる美だけでなく、その奥に広がっている「作者の心に描かれた美」をじっと瞑想するよう心がける事にしている。その美が「はっきり」と見えれば見える程、私は良い作品だと思う事にしている。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます