明日香の細い道を尋ねて

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古代史喫茶店(34)最新の学説「邪馬台国の最終定理ー宮崎照雄著」を読む(その4)

2023-10-01 19:16:00 | 歴史・旅行

要するに邪馬台国は「吉野ケ里」という訳だ。ただ、宮崎氏は魏志倭人伝の「邪馬いち国」とその後の中国史に書かれている「邪馬だい国」の表記の違いについて一章を割いていて、邪馬台国の表記と読みに意見を述べ、倭や日本また大和などの言葉についてもひとくさり書いている。結論として当時の倭の人々が、魏使に女王国の場所を聞かれて「山のふもとの台地にある」と答えたのじゃないか?と書いている。山のふもとの台地とは、すなわち「邪馬台」である。こうして魏志倭人伝では一回だけ登場して、後は「女王国」と表記しているそうだ。陳寿は個々の国名をそれほど重視しておらず、はるばる朝貢してきた「倭人の国」を概観する程度に描いたのだろうか。何れにしても倭人伝の中では国として描かれてはいるが、後代の我々の国家観とはだいぶ違うとは思う。

私としては「邪馬台国が吉野ケ里だ」という結論を導き出す論理が大事なわけで、名前自体には余り興味はない。だから「飛ばし読み」である。私はこの時代の国名については(彼我の区別をするためにも)、それなりに理由のある名前をそれぞれ名乗っていた、とは想像はする。だが世界の頂点に君臨すると思っている魏朝の役人の陳寿にすれば、倭人の国の中の一つである女王国の正式名称などは「それほど意味がある」ものとは思ってなかっただろう。だから適当な「中国名」を当てはめたに過ぎない。それを名前が似ているからどうこう言って大騒ぎしても「しょうがない」と思う。邪馬台国は地理・地勢と当時の半島情勢から解き明かすのが一番であろう。

それに第五章では侏儒国の説明とそれから逆算して女王国を割り出しているが、何か良く分からない計算で、筆者が理学系であることを強調したいがための屁理屈に感じた。つまり蛇足である。また、邪馬台国の位置を中国の「会稽東治之東」と記している事からも一章を割いて解説している。これは古田武彦氏の「邪馬台国はなかった」にも詳細に説明されていて、宮崎氏も食い付いて論を展開しているが中々の情報量でまあまあ感心した。問題の「東治と東冶」であるが、これは多くの学者が言う所の「誤記」ではないと力説する。まあ、そうだろう。とにかく私は余り興味を感じなかった。

で、第九章では宮崎氏は邪馬台国畿内説をも取り上げて、会稽東治の東との関連で「バッサリ切り捨て」て見せる。元々私に言わせれば畿内説などは「無知蒙昧の空論」に過ぎないのだから、いまさら畿内説の弱点を突いて勝利宣言するのも大人げないかな?、という気がしないでもない。大体、魏使が遥々洛陽から倭国の女王に答礼品を下賜するために船に乗って対馬海峡を渡って行ったなら、何でわざわざ「九州の末盧」なんかに上陸したのか?、目的地は「奈良」だというのに・・・である。この「九州に上陸した」という一点だけで「畿内説など吹っ飛ぶ」のは明らかではないか!。第一どこの世界に船で奈良まで行くのに「九州に上陸するバカ」がいる?。いると言うなら「一度お目にかかりたい」ものである。何も九州に上陸しないで瀬戸内海を船で行って、それから淀川か大和川か知らんが遡っていって、邪馬台国とされている箸墓の方に行けばいいじゃないか。何でそうしないの?・・・である。まあ、この期に及んでまだ畿内説などと言っている「おバカ学者とマスコミ」なんかは最初っから相手にしていないからいいけど、こういうのはもう「いい加減にしろ」と言いたいね、全く。

気を取り直して続きを読むと、今度は奥野正雄氏の本を取り上げて理論展開しているようだ。奥野氏は邪馬台国の所在地を吉野ケ里に置いているので問題はないのだが、その旅程の解釈には納得がいかないらしい。まあ、理屈に拘る「理系の学者」ならではの説明だろう。だがあくまで理屈にこだわるのであれば、末盧国に上陸して東南に向かって佐賀平野に至るルートを精査して、このルートは「あり得ない」と証明して欲しかった。勿論証明とは「伊都国は糸島に決まってるじゃん」などと言う、名前が似ているだけを根拠とする説明では全然証明にはならない、というのは理系であれば当然である。

私は九州の地図を眺める度に思うのだが、「佐賀~熊本の大平野」を大きな一つの勢力圏と見なければダメだな、というのが実感である。この辺りは有明海に面した人口密集地帯であり、確かに朝鮮半島と通交するには「やや不便」でな気はするが、表玄関の「福岡の御笠川流域」が、対抗する出雲勢力の進出で港を使えなかったとすれば、十分末盧国経由の「臨時の別ルート」を使ったという解釈が出来そうな気がするのだ。邪馬台国は政治的にリーダーシップを取るような国ではなく、倭国内の争いを仲裁するために「宗教的な権威で選ばれた」女王の国である。多分、戦闘に明け暮れた伊都国などの中心勢力とは違って、ちょっと「田舎に引っ込んだ」地味な場所で静かに暮らしていたのではないだろうか。そして倭国の内乱を纏めて「出雲の勢力」に対抗したと考えたい。

一方の出雲勢力は「半島の東側の国々」と通交していた別グループだと考えたい。対馬と壱岐は女王国側である。多分、日本は対馬経由のルートと、沖ノ島経由の第二のルートが存在していて、それぞれ別の勢力が拮抗して対峙していた、とも考えられるのじゃないか。この辺の「卑弥呼が戦っていた相手」はどこなのか?が問題であろう。その辺を読み進めて次回の報告としたい。



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