明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

引っ越しする前に考える事(7)まず京都と奈良、住むならどちらがいい?・・・徹底比較 ⑥ 歴史探索・・・その3 奈良(前編)

2023-07-23 14:52:00 | 今日の話題

前回書いた京都編が、相当力を入れて書いた割には思った程受けが悪くて、何だか私の想いが否定された気がしてがっかりしている。まあ、私のブログ自体が人気が無いので仕方がないかな?とは思って慰めている次第だ。しかしそれにしてももうちょっとPVが伸びてもいいのに、と恨み節が出る。これでも昔はちょっと記事を書いたら大体「200PV」ぐらいはアクセスがあったのに、最近は50から80がやっとの始末である。私のブログもとうとう終わりが来たようだ・・・グスン。ところがこないだは久しぶりに「330PV」という大ヒットが出て「すわっ、長い事待たされたがついて私の時代が来たか!?」と前のめりにのめり込んだが何のことは無い。ブログの記事一覧を大量に見ていた人がいたらしく、その後はまた元の順位に戻ってしまった。何だかなぁ。

それで今回、奈良編を書くにあたってちょっと私の「土地の楽しみ方」の言い訳をする気になった。私は風景というものを、人と少し違った考え方で見ているのである。私は昔から旅先では道や川や山といった「自然そのもの」を見るのが好きだった。旅行パンフレットでよく見かける神社仏閣や国宝の仏像、それとか桜・紅葉などの景色にはとんと興味が無かったのである。何故か?

それは、奈良はまだ昔のままの風景が残っている方だが、京都に至っては私の若い頃の昭和と比べても「全く趣きが変わってしまって」いて、もはやそれらを眺めて「歴史を振り返る」などということは出来そうもないからである。よく絶景とか言われる名所の風景写真がネットに上がっているのを見かけるが、私は美しい風景というのには「然程」意味があるものとは思っていない。例えばこんもりとした低い山が連なっているだけでは、誰も美しいとは思わないだろう。だがその頂上に城の櫓がポツンと見えていると「何故か風景写真」になるのである。

そしてその櫓が「国宝の〇〇城の遺構」とかだったりすれば「いい写真とれたね〜」と褒められるのだ。私はこの写真には「どこそこの山に何々の櫓がある」という事実以外の意味は、実は全然無いと考える。それがたとえどんなに「フォトジェニック」なものであっても、だ。例えば「天空の城」といって霧に包まれた山城の写真がネットでは人気のようである。私は「ふーん」と思うだけだが、マニアにしてみれば「空想の世界」そのままの風景で「なんとも素晴らしい!」となるらしいのだ。世界にはこういう風景は、それこそ何千何万とあるだろうことは言うまでもない。

例えばエジプトのピラミッドを見れば「どうやってあんな重い石を積み上げたのか?」と人々は感嘆する。しかしそういう反応が悪いとかどうとか言うのではなくて、ただ私は「そういうのには余り興味が無い」と言いたいだけである。勿論、人にはそれぞれ楽しむことが違っていていいと思う。グルメにこだわる人もいれば、山登りに人生をかける人がいてもいいではないか。人生は多様性だ。で、私は歴史上の人物が織り成すエピソードを心に浮かべて「空想に浸る」のがこの上なく好きなのである。そしてその史実が、目の前で実際に起きているかのごとく具体的な道具立てを含めて描かれていればいる程、私の空想は「映画のような現実」としてとことん楽しむことが出来るという訳だ。

人は大抵自分の過去の「出来事」を朧げに記憶していて、時に懐かしく時に忌まわしく思い出して「あ~、昔はこうだったなぁ」と回顧する。例えば以前住んでいた町をふと訪れる機会があったりすると、ちょっと公園のベンチなどに座って小学校の頃に友達と遊んだ記憶を思い出すことがあると思う。その記憶は本人と友達だけが知っている「ちょっとした事実」が大半なわけで、そういうエピソードというのは「他愛も無い」普通の事のようでいて「本当は」掛け替えの無い思い出だったりするのではあるまいか。誰しもそういう思い出の一つや二つは持っているものである(私は今でも小田急線の豪徳寺については悪い思い出があるが、あの時私を叱ってくれた居酒屋の店員の青年は、今どうしているんだろうか?)。

私はそういう「個人的なエピソードを集める」ことで古代の人々の心の中に分け入り、「同じ気持ちになって」泣いたり笑ったり喜び哀しみを共にしたいのである。それが私にとっての「歴史の旅」なのだ。要するにタイムマシーンに乗って過去を旅する「アレ」である。

で、私にとっての風景と言うのは簡単に言えば、その場所で思い起こされる「過去のエピソード」の集まりを思い出すことである。そのエピソードは純粋に個人的なものもあるし、歴史的な大事件のこともある。例えば奈良の法隆寺で思い出すのは昔暑い盛りに修学旅行で行った時の「参道の角にあった売店」で飲んだ牛乳であり、社会に出て初めて連休に大阪に旅行に行った時思い出すのは「法善寺横丁」で暑さを逃れる為に入った喫茶店でコーヒー一杯1200円も取られた驚きである。だから「雪化粧をまとった渡月橋」などという、どこの誰ともリンクしていない「ただの風景」などというのは全く記憶するのに値しない・・・は言い過ぎだが、全然興味がないのだ。

よく旅行の写真を見せて「ここ、彼氏と行った○○なの~」とおっしゃる往年のギャルが居るようだが、それなら旅行パンフレットみたいな写真でなく「彼氏との写真」のほうが良くない?、って思う。多分、その彼氏の写真は「本人の記憶の中にしまって」あって、他人には見せないのだろう。ただ、その彼氏と一緒ということが、単なる風景写真に思い出という味を付けて「意味のあるもの」にしているのだ、という事実には、本人は思いついていないだけである。結局その人なりのエピソードがない「ただの写真」には、わざわざ写真に取るほどの意味は無いと言うこと。

人間はどんな場所であれ、必ずその人にとって「唯一無二の意味付け」を行っている筈なのだ。私はNHKBS2でやってる日野正平の「にっぽん縦断 こころ旅」を良く見るが、要は多くの人に取っては「何でもない日常の風景」が、ある人に取っては「懐かしい思い出」の場所である、というコンセプトで日本中を自転車で旅する番組である。勿論、名所旧跡などは一切出てこない。それが良いのである。私はこういう旅、私自身の「こころ旅」をしてみたいのだ。

では、引っ越しするなら京都と奈良どっちがいい?、のテーマに相応しい内容の記事にするにはどうすればいいだろうか。答えは明らかだ、それは京都ではなく「奈良」こそが相応しいのである!

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というわけで次回は奈良の魅力つまり、奈良で感じることが出来る「古代のエピソードの数々」を書いてゆこう。



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