1、甘樫丘
飛鳥川 逝回む丘の 秋萩は 今日降る雨に 散りか過ぎなむ
・・・万葉集に歌われたこの川沿いの丘を考えると、飛鳥川を挟んで豊浦村の対岸に雷の丘があるが、この場合は「甘樫丘」の方が正しいだろう。甘樫丘は飛鳥の神奈備山として崇められ、山部赤人が「神岳」と歌っているのも、この甘樫丘であると思われている。飛鳥川はこの丘の麓を流れて豊浦の村を抜け、左手に「和田池」を見ながら北に向かい、大和川に合流するのだ。この和田池は、昔「剣の池」と呼ばれた小さな池ではないかと私は思っている。ただ、この「逝回む(ゆきたむ)丘」という表現はとても甘樫丘の風景を表すのにピッタリの感じがして、今では私の愛唱歌の一つになっているというわけ。
甘樫丘は私も展望台に登ったことがあるが、登ったからと言って特に面白いことは何もない。甘樫丘には蘇我蝦夷・入鹿親子の「上の宮門・谷の宮門」があったとされているが、それにしては上の宮門のあったという頂上部分が「狭すぎる」し、遺跡もなさそうだ。まあ、谷の宮門跡と推定された辺りから「焼土」が出土したという話だから、これから歴史の解明が進んでいくと思われる。それにしても飛鳥時代というのは何だかスケールが小さいように思うけど、ホントにここが「蘇我氏終焉の地」なんだろうか。見るからに田舎の純朴な風景が残る、親しみやすい歴史の里ではある。
2、酒船石と鎌足生母の墓所
甘樫丘を右に見て飛鳥川を渡ると、そこはもう飛鳥村だそうだ。そこの小学校の辺りに、飛鳥の地・天武天皇の「飛鳥浄御原宮」の跡地が推定されている。村の中央に飛鳥坐神社の石鳥居があるが、手前を右に曲がって街道を南下すると右手に飛鳥寺があり、飛鳥大仏という碑が立っている。そこに推古14年(606年)鋳造の日本最古の丈六金銅仏像が現存しているらしい。そこから西方の畑の中に「入鹿の首塚」がある。大化の改新の発端となった事件の被害者だが、殺されたという伝飛鳥板葺宮跡は800mほど南にある。途中左手には現在「県立万葉文化会館」が建っている。この手の施設は観光目的なので、私などは面白くも何とも無い展示が並んでいそうだが、併設されているカフェレストランは、ちょっと寄ってみたい。といって、別に何があるわけじゃないが、心の中では「飛鳥動乱の生き証人」になった気分だ。
この飛鳥村から北東へいけば「八釣」の地を過ぎ、謀叛の疑いで自害した蘇我倉山田石川麻呂の悲劇で有名な「山田寺」に行ける。また南に行けば「伝飛鳥板葺宮跡と酒船石」があり、私の大好きな飛鳥の故地がひっそりとした「この酒船石から程近い鎌足生母の墓」である。今は小原というが、昔は大原の里といって「藤原氏発祥の地」だそうだ。私がこの墓を訊ねた頃はまだ人影もなく人家も疎らな田舎の寒村で、訪れる人のない雑木林の小山に登って酒船石を眺めた後、ダラダラとした小道を下るとポツンと「鎌足生母の墓」という案内看板があり、二十何年か前のこと、独りで飛鳥を散策した折この坂道を下って林の中に見すぼらしい看板を見つけた時には、人には言えない感動を覚えたものである。歴史的には大したことではないのだが、古代の家族愛みたいなものが見えてきて微笑ましくなり、お参りしてきた。今はどうなっているか分からないが、奈良に移住した節には是非もう一度行ってみたい思い出の場所である。ちなみに「酒船石遺跡」は今じゃ綺麗に囲ってあって、それなりに観光名所として修学旅行生徒のルートに入っているそうだ。が、私は興味ないので、これもスルーしたい。
3、飛鳥坐神社と折口信夫
飛鳥坐神社は淳和天皇の天長6年(829年)に鳥形山に遷された。鳥形山は多武峰が西に突き出た端山である。神社の石段を登ると、途中に「釈迢空」の歌碑が立っているという。歌碑巡りは奈良を訊ねる楽しみの一つではないだろうか。昔「山辺の道」を天理から桜井まで歩いた時、此処彼処に歌碑が立っていて、心洗われるような文化的体験をしたものである。その他に飛鳥坐神社は「御田植祭(おんだまつり)」で有名だそうだが、特に見るほどの祭りには思えないのでスルーする。なお、堀内民一氏は鎌足生母(大友夫人)の墓所のあるあたりを「大原」と理解しているようだ。彼によると今は「小原」だそうだが高台になっていて、天武天皇の飛鳥浄御原宮は少し下った西方にあたる。この辺りは畝傍山や二上山が遠くに見え、まさに花咲き誇る飛鳥の里と歌われるに相応しい美しい土地柄だと私は思う。
4、堀辰雄も歩いた甘樫丘の脇の飛鳥川道
甘樫丘沿いに飛鳥川辺を行く道は、豊浦から南方の川原に向かう静かな飛鳥神奈備の片傍の道である。この辺りの飛鳥川は、みそぎ川としても利用されていたらしい。この道をかの「風立ちぬ」で有名な昭和初期のロマン派の作家「堀辰雄」も歩いたという。「春されば花咲きを〜」と万葉集にも歌われた古道だが、鄙びた田舎道の景色の中を散歩する若き小説家の姿は、まるで一幅の絵画のように美しい。そしてこの道を川原寺まで来ると、国道155線に突き当たって右に行けば「亀石」から「天武持統天皇陵」で、その先には「高松塚古墳や欽明天皇陵、その奥に文武天皇陵」もあり、正面が「橘寺」である。国道から左にちょっと戻れば、大化の改新で有名な「伝飛鳥板蓋宮跡」がポツンと畑の中に残っている。私が行った時には、少しばかり掘っ繰り返した溝と、柱らしき跡が残っているだけの小さな遺跡だったのだが、あれから20年は経っているので、県も観光客誘致に必死だから「少しはマシ」になってるだろうと思う。今度行く時には、もう少し「歴史を垣間見せるような演出」があればいいのだが、奈良県のセンスは京都に比べると相当以上に落ちるから、あまり期待しないで行くのが良いだろう。
また、道なりに左奥に行けば「有名な石舞台古墳」に突き当たる。石舞台は畑の中に広々と開けた台地に鎮座しており、遠くからでもそれと分かる形で「石室が露出している」異形の古墳だ。この遺跡を目当てに観光バスがひっきりなしに発着する大人気スポット(多分日本で一番有名かも)なので、小鳥の囀るしめやかな飛鳥散策を味わおうとする通人は、遠くから眺めるだけで通り過ぎるのがセオリーであろう。
私はこれらの古代遺跡群そのものには余り興味は無くて、てくてく田舎道を散歩しながら此処彼処に点在する日本書紀の「地名や建物名」を巡るのが楽しみなのである。それらの方向と距離を「肌で実感する」ことで、実際に「飛鳥時代に生きている感覚」を得よう、というのが奈良移住の本当の理由である。それは春や秋などの「四季」でも違ってくるだろうし、朝や夕べの「時間帯」でも異なって感じられるものじゃないかと思う。それらの一つ一つを味わい、その空気を吸って花の香りや川のせせらぎの音を聞くことで、万葉集の素朴な歌も「一層心に響く」ものと想像している。だからどうした、と言われても困るのだが、要するにタイムマシンに乗って「昔の時代に戻れる」可能性が唯一残されているのが、ここ奈良の飛鳥地方を中心とした「古代世界」なのだ。
どうやら人類と地球の未来は、温暖化による「異常気象」とか人口増加による「食糧難」など、余り良いことが無さそうに思える。それに比べて「奈良万葉の時代」は人々も純朴で、恋もストレート・・・って、良いことばかりじゃないけど・・・「表面だけ」見てる分には一番平和で、文化的にも豊かな相睦まじい暮らしをしていた時代と考えられている(少なくとも、そう信じたい)。そういう時代に「想像だけでも」時間を遡って行って見たいというのは、年金暮らしの年寄りだけに許された「贅沢な楽しみ」ではないだろうか。もう残り少ない人生を、自分の好きな時代に「生きてみる」のも一興である。
飛鳥を散策する楽しみは、万葉集の「電子書籍版」をスマホに入れて歩きつつ読み、読みつつその場所を探して散策する、というのが私の「理想の暮らし」である。そのためにも、なるべく早く移住したいのだがゴルフ仲間が東京にいて、彼らと離ればなれになるのがとても辛い。まあ、年取ってゴルフが出来なくなったら引っ越せばいいかと言うと、今度は自分の体力が無くなって「移住先で寝たきり老人」になっても意味ないし・・・。ああ、悩ましい。
だから今しばらくは堀内民一の本で、空想旅行してみるのが安全というものです!
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